第8話 彼女の動機
その後、雪乃の家を長い時間を掛けて出た所のすぐ近くにあるカラオケ店で歌を存分に熱唱した。店から出た時は既に日は沈んでおり、すっかりと黒が世界を覆い尽くしていた。
結局、初めて人前で歌ったわけだが、思っていた以上に恥ずかしくはなく普通に歌えた。自画自賛かもしれないが、可もなく不可もなくという歌声だったと思う。他の三人というと、二人は普通に上手い、という言い方はおかしいかもしれないが、少なくとも僕よりは上手いように感じた。ここまでは断言できなかったが、それは歌というものが抽象的で、価値基準が定まっていないからである。僕の歌が下手だと罵る人も、上手いと賞賛を送ってくれる人がいるかもしれない。そんな不確かなもの。
だが、彼女だけは明らかに次元が違った。
誰がどう聞いても、上手いとしか言いようのない澄んだ歌声。どうして歌手にならなかったのかと本気で思った。だから聞いてみた。
「歌手より探偵の方が向いているから」
美玖は自信満々にそう答えた。
そんな彼女の横には、現在、僕一人。
雪乃は家が近くであったし、韋宇はバイク通学だったため現地解散し、電車通勤であった僕と美玖は帰り道に肩を並べて歩いていた。 当然のことながら女性と並んで歩くなど記憶にない母親くらいしかなかったので、まるで運動不足の中年のように歩いただけで胸が痛くなっていた。嘘だけれど。
「嘘じゃない癖に」
心の中を読み切ったように、唐突に彼女はにやにやする。
「可愛い女の子と一緒でドキドキしているんでしょう?」
「心を読むな。まあ、その通りだけれどな」
「照れるじゃないの」
思い切り叩かれる。
「照れるのならば顔を赤くしてくれ」
「暗いのに良く判るね。その通りだけど」
「なんか君の行動が読めるようになってきたよ」
「ほほう。この少ない時間なのに良く理解したね」
愉快そうに美玖は言う。
「しかしどうして久羽は、雪乃の誘いに乗ったのさ」
「いきなりどうした?」
「いや、だってさ」
美玖は僕の前に躍り出て、こちらを向いて立ち止まる。
「普通はあんな誘い方じゃ、サークルに入ろうとする以前に、関わり合いたくないと思うだろう?」
「普通はそうなのか? 今まで友達がいたことがなかったから分からない」
「悲しいこと言うね」
あきれ顔の美玖。
「でも、それならなおさらおかしい。対人恐怖症みたいな感じになってもおかしくないのに、今普通に話せているじゃない」
「嘘はついていないんだけど、何でだろうね?」
そう言いながらも、ある程度原因は判っていた。
あいつがいるから。
「本当におかしなやつだな」
そこで美玖は微かに吐息を漏らす。
「つーか、すまん」
「いきなりどうした?」
「いや、だってさ」
先程と同じ流れで彼女は切り出してくる。
「あんたを誘おうとしたのは、本当はあたしなんだから」
「え? そうなのか?」
「うん。あたしが陰ながら声を掛けようとうじうじしていた所に、雪乃が豊かな胸を張って任せなさいと行った訳である」
「嘘だろ」
「半分くらいね」
「一部を除いてどれが嘘で誠か判らない」
「言うね。それはどの部分かな?」
「それを言わせるなよ」
それより、と僕は話を元に戻す。
「結局は美玖が僕を勧誘したかったってらしいけど、それって何で?」
「えっと……それを言うと、お前、凹むよ?」
罰が悪そうに美玖は言う。その態度で大体予測はついた。僕のことが密かに好きだったとか、そういうような幻想はないようである。地味で何の取り柄もなく、また人と積極的に関わろうとしていなかった僕は、押しに弱そうに見えたのかもしれない。人数増やしには最適だったのだろう。面と向かってそう言われれば凹むかもしれないが、しかしそんなことはある程度判っていたことであるし、今更の話ではあるが。
「じゃあいいや」
「そっか」
何故か寂しそうに美玖は言葉を落とす。そんなに凹ませたかったのか。ひどい奴だ。
「それにしても――」
と、彼女は話を逸らすように虚空で人差し指を回す。
「雪乃は何で、小学生の時の同級生だなんて言ったんだろうな」
「ん? そこから聞いていたのか?」
「まあね。しっかし……小学生ってのは上手いところついているよね」
「そうか? むしろ僕はそれが一番有り得ないと思ったんだけど」
「小学校の時の同級生なんて覚えている訳がないじゃん。記憶も曖昧だから、そう言われたら『もしかしたら……』と思っちゃう可能性は十分にあるって」
「小学生の時の知り合いだって覚えているものだろう?」
「覚えているの?」
「……嘘ついた。一人しか覚えていない」
あの子。
僕が×××た、彼女だけ。
「ふーん。男の子?」
「女の子」
「昔はプレイボーイだったのか」
「いや、だから一人だって」
「好きだったの?」
「多分ね」
「曖昧だな。唯一、覚えていた女子なんでしょ?」
「唯一、覚えていた人間、と言ってもいいかもしれないね」
「へえ。それほど重要な女の子だったんだね」
感心したように首を何度も縦に動かす美玖。
「大層可愛かったんだろうね」
「ああ、可愛かったな」
「ふーん。そうなんだ」
何故か微妙な顔の美玖。友達がいないと言っているにも関わらず、さらりとそういうようなことを口にしているから、呆れられているのかもしれない。こいつ本当は相当な軟派な奴なのではないのかと疑われても仕方がない。そう考えが至ったところで、急に今までの自分の言動に対して恥ずかしくなってきた。唯一覚えていた人間とか、何処の中学生の妄言だ。そのように頭を抱えそうになった所で、僕は話を変える。
「そういえば、雪乃の小学校の同級生に僕と同姓同名がいたんだってさ。偶然って凄いよな」
「そんなのは嘘に決まっているじゃん」
「え? 嘘?」
思わず訊き返し、そして思い返して僕は言う。
「……いや、だってさっきどうして小学生の時なんて言ったのかと疑問に思っていたじゃないか」
「それはどうして『小学生』を選択したのかって意味。しかもある程度は予測してあんたに聞いたの。因みに、その予測ってのは、さっき答えた通り、小学生の時の同級生なんて記憶が曖昧だから」
今度こそ見るからに呆れている顔になる美玖。
「で、嘘だって言うのは明らかでしょうが。田中や山田なんかと違って伊南なんてそうそうないし、しかも『久羽』なんて名前は皆無に近いじゃない。自分の名前の特殊さに気がついている?」
「あー、言われればそうだな」
「まあ、実際に同姓同名がいないかと言われれば断言は出来ないけれど、でも、かなりの確率で嘘だということは判るはずでしょうが」
「うん……なら、どうして雪乃は嘘をついたんだ?」
「それが雪乃のテクニックってことさ」
苦笑する美玖。
「言ってしまえば韋宇と同じことさ。まずは話すきっかけを偽りでも作って、そこから本題に持っていく……あいつら営業に向いているんじゃないか?」
「就職活動に便利だな。まだ一年生なのに気が早いな」
「……いや」
そこで彼女は顎に手を当てて唸る。
「自分で言っておいてなんだけど、雪乃の場合は……違う気がする」
「違う?」
「いや、端的に言うとさ、雪乃って金持ちじゃん」
「端的というよりもざっくりと言ったな。確かにそうだが」
「だから、その金に目を眩ませて……言い方が悪いと、雪乃を金づるとしか見ていない奴がいたんだろうな」
「それと、話すきっかけを作ることと、何の関係があるんだ?」
「違う違う。逆なんだよ」
「逆?」
「『話す』きっかけじゃない。『話させる』きっかけってこと」
話す。
話させる。
受動態と能動態。
「話させるきっかけを作って、その反応を見る。そうして人間性を見ているんじゃないかな?」
「お金目当ての人とそうじゃない人が、それで見分けられるって?」
「そういうこと。まあ、あたしの予想だから当て嵌まるとは言い難いけれどね」
そう前置いて彼女は人差し指を立てる。
「具体的な見分け方は、喰いつく人と喰いつかない人だと思う」
「へえ……それだと、喰いつく人が悪いような気がするな」
「その通り。喰いつく人ってのは、雪乃と接点を持ちたいと思っていて、それを彼女から切り出してラッキーって思っていた人だからね。大体、小学校とか中学生の時の同級生だとかに即座にそうかもと返事するような奴は、完璧に邪な繋がりを築こうとしている奴だからね」
「そうは思えないけれどな。お金以外でも、話すきっかけがほしい奴はいると思うし……」
例えば僕だとか、とは口にしない。
すると彼女は大きく一つ頷き、
「だからただの牽強付会だって。矛盾だってあるし、信憑性のある話じゃないからさ」
手を一つ叩いて、彼女は再び歩み始める。
「はい。この話はもう終わり。推測でモノを言うもんじゃないね」
「そうしようか」
「不毛な戦いだった」
「誰と勝負していたんだ?」
「この世の真実」
「人じゃないのか」
「探偵はいつも真実と戦うものなのだよ」
「そういうものか」
「というかさ」
少し離れた場所で、彼女は再び振り返る。
「本当に久羽はこのままで大丈夫なの?」
「大丈夫って、何のこと?」
「ここまで言っておいてなんだけどさ、嫌だったらあたしらの誘い断ってもいいんだぞ」
「ん……」
それは要するに、断われってことか?
「違う違う」
僕の心を読み取ったように彼女は首を振る。
「ここまで強引に誘っちゃったじゃない。で、久羽は押しに弱いから、無理しているんじゃないかって思っているんだよ」
「押しに弱いか……そうかもね」
明らかに流されている。
だが、大丈夫。
「僕は自分の意思で今、ここにいる。確かに雰囲気に流されていた部分もあったけど……それでも、無理はしていない」
「ん、そっか」
大した理由を説明していないにも関わらず、美玖は納得したというように一つ頷いてから、くるりと身体を翻す。
「くだらない質問をしてすまないね」
「いや、別に構わない」
「そうか……ならば、ずけずけと行って構わないんだな」
にやり、と。
彼女の表情の中で一番印象深く、僕の心の中のアドレス帳に彼女の写真を張りつけるならばまさにそれであろうという、意地の悪く、楽しそうな笑みを張り付ける。
「さて、何をしようかな?」
「まだいいとは言っていないぞ」
「じゃあ――」
僕の言葉を無視し、彼女は僕に背を向けて足を速めた。思わず僕も速度を速め、彼女の横に並んだ――時だった。
「電話番号とアドレスを教えてもらおうかね」
彼女は僕の眼前に携帯電話を押し付けてきた。
「つーか携帯出せ」
脅迫だった。
「引きこもりでも持っているだろ? つーか引きこもりの方が持っているだろ」
「引きこもってねえよ。友達はいないけど」
悲しい台詞を吐きながら、ポケットから携帯を取り出す。友達もいないのにどうして携帯電話を持っているのかと言われれば言葉もないし、この携帯電話を購入した記憶がないという言葉も悲しき妄想として片付けられてしまいそうだが、現実、そうなのである。実際どうして持っているのか、習慣づけられていて判らないし、そもそも最初にどうやって入手したのか、どうしてか覚えていない。実際、僕のアドレス帳には空虚だ。
などと哀しい回想をしている間に僕の携帯電話は奪われており、
「なんだよ。誰も入って無いじゃん」
プライベートがダダ漏れにされていた。
おい何をするんだと、心なくの口だけの文句をしようと口を開いた。
しかし。
「ってことは、これであたしが一番ってことか」
僕のその口から、その言葉は発せられなかった。
先程、僕は葦金美玖の一番印象的な表情として、意地の悪い笑みと述べた。
だが、それはすぐさま、上書きされた。
今の彼女の表情は、無邪気な笑顔。
思わず、見蕩れてしまうほど。
「ん? なに呆けているんだ?」
「あー、そういやそうだな、って思っただけ。アドレス帳に何かを入れた記憶がない」
「せめて自分の番号くらいは入れなよ」
何度目なのか判らない呆れ顔をされながら、携帯電話を投げ返してくる。受け取った後、すぐさま確認すると、確かに彼女の名前がアドレス帳に登録されていた。
「雪乃と韋宇には、自分で訊きなよ」
「ああ。ありがとう」
「どういたしまして」
鼻を鳴らして、明らかに上機嫌な様子の美玖。僕はその後ろを淡々とついていく。
「おっと、早いな」
その彼女の言葉で気がつけば、目的の駅は既にすぐそこまで来ていた。
「話していると道が早いな。ひしひしと思ったよ」
こんなにも一人に対して話すとは、もしかして人生の中で最長かもしれない。少なくとも、中学生以降では確実にそうである。
駅構内に入り、改札を通った所で彼女は言う。
「楽しい時間もこれでおしまいってな」
「楽しい時間……」
「なんだ? 久羽は楽しくなかったのか?」
「……どうだろうね。いきなりが多すぎて、戸惑いの気持ちの方が先行しているかな」
そう言葉を濁すと、美玖は「ま、そっか」と言って伸びをする。
「でも、あたしは楽しかったぞ。やっぱり見込んだ通り、久羽は面白いな」
「そうか? そんな面白いことを提供できた自信はないけれど」
「ポジティブに行こうぜ、少年」
快活な笑い声をあげて、彼女は肩を叩いてくる。そのコミュニケーションが嬉しいながらも恥ずかしく、僕は無反応になってしまった。だが、彼女はそんなことを気にしない様子で「お、もうすぐ電車きそうじゃん」と電光掲示板を見上げて言う。
「そういや久羽って、家、何処なの?」
「恵比寿」
「おお。遠いけど、いい所に住んでいるね。じゃあ、あたしとは電車違うな」
「へえ、そうなのか」
「あたしは川越線だからね。というわけで、ここでお別れさ。じゃあ」
「うん。それじゃあ」
「また来週な」
ひらひらと手を振り、彼女は階段を下って行った。
「……」
その後ろ姿を見送りながら、僕は彼女の言葉を反芻する。
また来週。
明日ではないのは今日が金曜日だからということであるが、しかし、そもそも根本的な話。
また来週。
「……また、か」
その言葉を投げかけられたのも、何年振りだろう。
その時の僕の表情は、どうだったのだろう。
鏡があればよかった――いや、なくて良かったのかもしれない。
だが、この時、初めて思った。
今、僕の口元が緩んでいればいいな、と。
――なんて。
勘違いしていた。
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