第7話 篝家
「じゃあそろそろ帰るか」
美玖が腕時計に視線を向けてそう口にする。ちょうど疲れ始めの頃であり、タイミングとしては絶妙であった。
そうですね、と雪乃が腰を上げる。
「では出口まで案内致しますね」
「おう、頼む」
彼女の後ろについていく形で、僕たちは雪乃の部屋から退出した。
出口まで歩いている途中。
「しっかし……初めて来たからってのもあるけど、どうにも帰れる気がしないぜ」
廊下であっても高い天井に、韋宇が嘆きの言葉を投げる。
「私の部屋はちょっと迷うかもしれませんね。両親の部屋であればすぐ近くに裏口に出る非常口があるので、迷うなんてことはないのですけれど」
「いざとなったら二人が逃げるために、か」
美玖が人差し指を立てる。
「ということは、裏口は外部からの侵入を拒むような仕掛けがあるんだな?」
「流石ですね」
雪乃が手を合わせてうれしそうに微笑む。
「裏口は両親と、私と姉しか通れないようになっているのですよ。掌紋認証システムを用いているので。外には出られますけど、間違って出ちゃったら誰かの腕を切らないと入場なんて出来ないのです」
「怖い話をするな……」
僕が思わず雪乃の手を凝視してしまうと、彼女は軽く笑い声をあげて
「心配しないでも大丈夫ですよ。今の世の中、そんなに物騒ではありませんから。それに、家に大金などは置いてありませんから」
「だってよ。残念だったな韋宇」
「なんでそこで俺に振るんだ」
「一番犯罪をしそうだからだよ」
「見た目か。ならば仕方ない」
「納得するのかよ」
「いや、中身」
「しかも全否定だってさ。あっはっは」
「そこで笑えるのは凄いよ」
心からおかしそうに笑っているのは弱冠恐怖すら覚える。
そんな様子に雪乃は苦笑をしながら、
「そんなことはないですよ。韋宇君にも一杯、いい所は――」
「何をやっているの」
角を曲がった瞬間だった。
異様な重圧を真正面から感じた。
感じただけではなく、物理面でもあった。
巨大。
広大な廊下にも関わらず、一気に閉塞感が増した。
距離はあるのに、この威圧感はなんだろうか。
「……お母様」
思わず目を見張ってしまいそうになる。この女性から、どうして雪乃のような子供が生まれるのか。人類の奇跡ってやつだね――と、韋宇が耳打ちしてくる。
「反応に困るが……同感だ」
小声でそう返したのと同タイミングで、
「まあ、男なんて連れて汚らわしい……あなた
口元に手を当てて背を翻し、彼女は引き返して行った。
あっという間の出来事。
だがそれだけで、それまでの楽しい気分を吹き飛ばしてくれた。
「落ち着いてください、美玖ちゃん」
唐突に雪乃がそう言う。気がつくと、美玖が拳を握りしめて、今にも駆け出さんとしていた。
「あのクソ母親……毎回毎回雪乃に当たりやがって……」
「人の母親を悪くいうものではありませんよ。それにこの程度で怒っていたら、私は両手の指で数えきれない桁で怒っていますよ」
「……」
「なんて嘘ですけれどね」
舌を出して彼女は僕たちに笑いかける。澱んだ空気を直そうとしているのは見て判った。
だからこそ
「両手の指って……一億か」
「なあ、韋宇。お前って数学弱いだろう?」
「よく判ったな。俺は数学はずっと四だったからな。多分」
「通知表見ないで捨てていたのか」
「……何で判った? お前って、名探偵か?」
「名探偵はあっちだろ」
などと、韋宇の咄嗟の言動を利用して空気を掻き交ぜた。重苦しさは少し薄まったのは気のせいではないはずである。
「皆さん、お気遣いありがとうございます」
雪乃は苦笑いを続ける。
「まったく、普通は友達が来ているのを見たら『雪乃のお友達ね? 今、お菓子出すから待っていてね』って対応するでしょうに」
「そんな年でもないけどな」
僕はそう軽口を叩いて、再び足を動かす。その前を雪乃が、後ろを韋宇が共に歩く。
だが、一人だけ、頑として睨みつけて動かないものがいた。
「美玖。動かないと帰れないぞ」
「……」
唇を真一文字に結ぶ彼女は動く気配を見せない。
「まったく……美玖ちゃんは頑固ですね」
息を少し漏らして、雪乃は美玖の頬に触れる。
「私の心配はありがたいですが、そこまで怒ることはないですよ。もう慣れているので」
「……だけどさ、あんた怒らないじゃん」
「いちいち文句言っても始まらないです。それに――」
そこで何故か彼女は、人差し指を口元に当てて、唐突にこう言った。
「殺す、とか言うと後になって不都合な事態が生じますから、我慢してくださいね」
「……流石にそれは言わないわ」
美玖が面喰らった顔になる。その表情を見ながら、雪乃は微笑を続け、
「私にとっては別の意味での夢の島であるこの家……ああ、本物の夢の島に失礼ですね。ですが、他人にとっては羨ましいと思われているかもしれないですけれど、この家で暮らすことはゴミの中で暮らしている気がしているのですよ。精神的な観点で」
「ゆ、雪乃……?」
「――なんて、半分冗談ですけれど」
雪乃は頭を短く振る。
「こんな感じで、私だってきちんと怒っていますよ。親に対しては。ですが、この家に関してはそんなに悪くは思っていません。使用人の方々は優しいですし、家族だって姉とは結構仲が良いのですよ」
「あれ? 姉貴がいたのか?」
「いますよ。だからといって手を出したりしないでくださいね、韋宇君」
「俺がそんなに軽い奴に見えるのか?」
「見える」「見えます」「見えないと思っていたのか?」
「ひ、ひどい……純情な少年にそんな暴言を……」
崩れ落ちる韋宇。それを見て雪乃がくすくすと小さな笑い声をあげ、美玖が鼻で笑うような微笑を漏らす。
強引なようで自然に、場の雰囲気を良い方向に戻した。
こいつら人間力高いな、と自分の中から嫉妬の声が聞こえる。
僕は笑っていなかった。
笑わなかった。
笑えなかった。
だから後ろの方に自然と回って隠した。
笑っていない自分を、見せたくなかったから。
卑屈だな、と声が聞こえる。
うるさい、と僕は返す。
自分に返事をする。
それでも僕は、笑えない。
「――さて」
雪乃が手を一つ叩く。
「気分も害されたことですし、一つ歌でも歌ってストレスを解消しに行きましょうか」
「いいね。行こうか」
美玖は大きく声を弾ませ、そして僕の肩を叩く。
「当然、久羽も行くよな?」
「……ああ」
僕は首を縦に動かしながら、先程に身にひしひしと染みていた疎外感を吹き飛ばすように、
「ただ、一つだけ」
「何だ?」
「僕は音痴だぞ」
人差し指を立てて、冗談を口にする。
これが僕なりの、精一杯の返しだった。
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