第3話 彼女の問い
「……え?」
僕は思わず、彼女の顔を凝視してしまう。
彼女は小首を傾げる。
「当たっています……よね?」
「……」
正解だった。
確かに僕の名前は『イナミ クウ』だ。
しかし、どうして僕が知らないこの子が、僕の名前を知っているのか理解出来なかった。
今の僕は、少々混乱している。
だから、状況を整理してみることにした。
一つ。僕に大学内に知り合いはいない。
二つ。大学内・外に関わらず、友人がいない。
三つ。小学校から友人がいない。正確に言うと、いないのではなくていなくなったのだ。そう心の中で一応の言い訳をしておく。
そんな僕の友達いない度合いは置いておいて、考察を続ける。
四つ。そんな僕の目の前に人がいる。
五つ。席はガラガラである。
六つ。さらに知らない女性だ。
七つ。しかし彼女は、僕の名を知っている。
以上のことを踏まえて、結論。
訳が判らない。
「……はあ」
溜息を一つ吐き、とりあえず目の前の席を掌で示す。
「約束だから、相席をどうぞ」
「失礼します」
女性は顔を明るくして、上品な仕草で紅茶をすする。
ここで少し混乱から覚めたので気が付いた。
察しのいい方はすでにお気づきだろうが、僕は悪いので今の今まで気が付かなかった。
いや、混乱していたからと言い訳をさせてもらおう。
ところどころおかしかったはずだ。
何故目の前にいるのに――紅茶を飲んでいたのか。
立ったような形で語っていたが実際そこに矛盾が生じる。その時点で違和感を覚えていた人には探偵の才能があるだろう。虚言ではあるが。
つまるところ、話は簡単だ。
彼女は最初から、相席していたのだった。
事後承諾だった。
それは断れない。無駄なことをする必要はなかったと臍を噛む想像をする。実際に噛んだら痛いし。
さて、いよいよ謎が深まる。
最初から相席をしておきながらいいですかと更にことわってくる意味も分からないが、それよりも少し薄ら寒い疑念を解消しておこう。
僕は頬杖をつきながら、彼女に質問する。
「で……どうして、僕の名前を知っているんだ?」
「すみません。コーヒー一つ」
「……聞いてくれる?」
「あ、すみません。コーヒーがないと死ぬもので」
「……死ぬ?」
「ええ。死んでしまいます」
笑顔のまま、すぐさま運ばれてきたコーヒーに口をつける。
「コーヒーは血液。ケーキは肉。クッキーは骨です」
「それは脆そうだな」
呆れながら軽口を返す。しかし、話したいことはそれではない。
「で、さっきの質問、聞いていた?」
「あ、はい。どうして伊南君の名前を知っているか、ですよね?」
「ああ。全くもって普通の僕が、見ず知らずの人まで名前を知られているとは思い難い」
「見ず知らずとは失礼ですね」
彼女は頬を膨らませるが、すぐに嘆息する。
「まあ、小学生の時の同級生なんて、覚えているはずがないですか」
「小学校の時の同級生?」
ああ、と僕は相槌を打つ。
「なんだ。小学校の時の同級生か。そうか」
「ええ、そうです」
「それはない」
はっきりと明言できる。これは記憶力とかそういう問題ではない。
彼女が小学校の同級生であることは有り得ない。
小学校の同級生が僕に話しかけるはずがない。
「どうしてですか?」
首を傾げる彼女に、僕は嘯く。
「簡単なことだよ。小学生の時に君の名前は聞き覚えがない。僕は記憶力がいいんだ」
「私、名前を言いましたっけ?」
早速ボロが出た。口先だけで言うものではない。
「因みに、私の名前は
篝雪乃。
特徴的な苗字だが、やはり聞いたことがない。
「どっちにしろ、聞き覚えはないよ。やっぱり、人違いじゃない?」
「そうですか。同性同名とは珍しいですね」
彼女は紅茶を啜って一息つく。
一息ついて、微笑む。
「……あの」
「はい?」
「いえ……何でもないです」
どうしてまだここにいるのか。勘違いだったのならば、もう僕に用はないだろう。
そう言いたかったのだが、やはり面と向かって言えるほど、僕は堂々たる性格をしていない。一言でいえばヘタレである。そもそも女性どころか人と話すこと自体が皆無に等しいのに「失せろ」などと言える訳がない。かといって同じように笑みを返すことなど出来ず、俯いてコーヒーを喉に流すだけだった。
「……」
「……」
日常に気まずい。この喫茶店は静かで落ち着くから好きであったため、今以上にその静寂さを疎んじたことはなかった。助けてマスター。といっても、マスターと会話もしたことはないのだけれど。
「……そういえば」
とりあえず、疑問をぶつけてみることにした。
「どうして、えっと……篝さんは」
「雪乃でいいですよ。お友達は皆さん、そう呼んでくださいますし」
僕は君と友達ではないのではと思ったが、話がこじれそうになるから口にはしなかった。流れに従おう。
「雪乃さんは」
「雪乃。同い年なのですから」
「……雪乃は、どうして僕の名前を知っていたの? それに、同い年ってどうして判ったの?」
「簡単なことですよ。経済学の授業で名前を見たからです」
「ああ、成程」
経済学の授業での出席の取り方は、名前の書かれた紙に丸を付けるだけの簡素なもので、代返なども容易である。ともかく、必修教科であるためクラス全員の名前が書いてあるため、僕の名前を知ることが出来、同級生であると推測も出来るのである。
「あれ? でも同い年とは限らないんじゃないの?」
「大抵は同い年でしょう? 同じクラスなのですから」
「浪人した人もいるでしょうが。まあ、その言い草だと君も現役なんだろうけれど」
「も、ということは久羽君も現役なのですね」
「そういうこと」
カップに口を付ける。もうコーヒーは冷めていた。
「それで、雪乃はどうして話したこともない、名前を知っている同級生がいたらその人に話し掛けようとしたの?」
「え? 普通話し掛けませんか?」
「……」
判らない。世間一般だとそうなのだろうか。
そう悩んでいた所、
「普通は話し掛けようとは思わないさ」
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