第2話 相席の条件
コトリ。
マスターの右腕にある時の進みを告げる鈍色の腕時計の音が聞こえる程の静かな喫茶店で、それよりもさらに大きな音を響かせた。筋肉質のマスターとは対照的に穏やかで落ち着く雰囲気なのでひどく耳に残ったが、所詮はただカップを置いた音なので小さい。しかしそれでも気恥かしさは感じる。僕は眼を逸らしながら再びコーヒーを啜る。眠い訳ではないが、カフェインは脳に作用しているように錯覚する。何処かで聞いただけの戯言に過ぎない話だが、夜に起きようとする時にはコーヒーは止めておいた方がいいらしい。利尿作用の方が強すぎて集中するどころの話ではないらしい。まあそういう意味で起きているのかもしれないが。しかし眠気を吹き飛ばすという目的であれば、栄養ドリンクを飲むのが良い。眠気、といえば、現在の時刻は午前一一時を少し過ぎた辺りで、既に眼は完全に醒めている。そんな時間にどうして喫茶店にいるかというのは、僕が大学生という比較的自由な身分であるからである上に、一時限目の授業を取ったのに四時限目までないという変則的な選択をしたからである。それならば一時限目の授業を取らなければ良いのではないかと指摘されそうだが、しかしこの授業は出席するだけで単位が取れると有名であり、実際、先生自体もそう口にしている。楽をしたいと考える一年生にとってはうってつけの授業であるが、ただし、一時限目ということがネックとなっている。出席だけという条件故に代返などは通用せず、また修得条件も九割以上の遅刻なしの出席となるため、ある意味厳しいのではないかという声も上がったが、甘えるなというのが正直な話だ。声が上がること自体がおかしい。それでも、これがゆとり世代か、なんて言葉で片付けられるのは少し不愉快である。ゆとり世代ゆとり世代と言うが、学習要領の変更や土曜日が休日になっただけで人格まで決め付けてほしくない。と、ゆとり世代の僕は思う。思うだけで実際に口にしないのだが。というよりも、口に出来ない。話相手がいない。僕には友達がいない。出来ないのではない。いなくなるのだ。だから作らないようにしていた。どうせいなくなるのだから、作る努力などしても無駄だ。そもそも友達など努力で作るものではない。自然と出来ているものだ、なんて言った所で所詮は戯言。何処で友達か否かを決めるのかの正確なライン引きなんてありはしないのだから、一方が友達だと思っていてももう一方はそう思っていないなんてことは十二分に有り得ることだ。つまりは友達が出来たと思っていたのも本当に思っていただけで実際は勘違いの妄想だったということも有り得るということである。むしろそっちの方が正しい気がする。いや、正しかったのであろう。そこで友達だというように認識を持っていたとは、僕もまだまだ人間を捨て切れない部分があるな。もともと人間など捨てていないけれど。違う。人間を捨てたくないと希望を持っているのだけれど。そう言った方が正しいし、世間からもそう見られているだろう。まあ、それも僕の誇大妄想で被害妄想に過ぎないのだろうけれど。実際は僕一人の存在なんて世間は認知していないし、どうでもいいと思われているに決まっているのだけれど。殺人者であろうが二重人格者であろうが両親がいないだとか色々と幸不幸嘘偽り真実虚構現実を口にしようが思おうが侃侃諤諤はたまた喧喧囂囂と脳内会議を開こうが、それでも世間は何食わぬ顔で進んでいく訳である。ちっぽけな存在だと再び認識しながらも、それでも自分にとっての世界とは結局は自分の周りにしか影響がないのだから気にするだけ阿呆なことなのだと思い直す。
――さて。
ここまで、コーヒー一口分。
長々と中身のないことを頭の中で述べて自分自身からもうるさいと文句を言われたことにして終わろうとするが、要するに注目してほしかった所はただ一点である。
友達がいない。
大学にどころか、小学校六年生以来、お互いに友人と呼べる者の存在がいないくらいの友達の無さである。可哀想な眼で見られても仕方がない人生を過去形どころか現在進行形で歩んでいるし、未来形でそう語ることも出来る。
このように、唐突にどうしてそんな悲しい話をするかというと、それにはきちんと理由がある。まあその理由とは先程述べた通り、友達がいないということなのだけれど。
では、繰り返し友達がいないということを延々と述べていた訳をそろそろ認識しよう。
視認しよう。
目の前を。
目の前の人物を。
この喫茶店にいる人物。
一人は僕。
一人はマスター。
そして、もう一人。
それが、僕の目の前にいる――女性だった。
女性。
友達も知り合いもいない僕の前に、よりにもよって女性がいるなんて。もう一度コーヒーを啜る。苦い。夢じゃない。いや、眠気などないと先程述べたばかりなのに夢だったらそれはそれでSFのような展開になりそうだ、なんて思いながらも、さてはて、どうしようかと頭を痛ませる。
静かな喫茶店とは言え、テーブルが一つしかない訳ではない。かといって入口の近くでも、ましてや逆に奥でもなく、景色なんてのは元々見られたもんじゃないし、眺める者としては筋肉質のマスターだけしかない。かといって僕はマスターを見ながらコーヒーを喉に運んでいるなんていうアブノーマルな性癖を所持してなどいない。先刻からずっと視線を彼に向けているのは、ただ単に対象物がこの喫茶店にないからである。天井は飽きた。視線を逸らし続けるには何か理由が必要なのである。少なくとも、僕は正面を見られない。よく小説やアニメなどで少年が自分を普通と称しているが、普通の少年は少女に気軽に話し掛けるどころか、直視することすら出来ない。美人なあの子が話し掛けて来た。ならば曖昧な笑みを浮かべて逃げる。それが普通の子の反応だ。僕が普通であるとは地球がひっくり返っても思わないが、それでも凝視することは出来ない。
女性は、僕の真正面に座っていた。
彼女が何をしているかは眼の端でしか認識出来ない。どうやら紅茶を口にしているらしい。美しくも煌びやかな長い黒髪がカップの中に入らないように掻き分ける仕草に色気を感じた。視界にほぼ入っていないのにも関わらずそう感じたということから判る通り、彼女はとても美しい。
顎を軽く上げて視線を持ち上げた後、眼球だけで彼女を見る。
恐らくは同年代であろう。一〇代後半から二〇代前半、言うなれば大学生である。化粧もしていないのに肌は綺麗で鼻は通っている。可愛いかと言われれば間違いなく違うと答えるが、綺麗かと聞かれれば首肯する、そんな女性だった。
ふと、彼女の整った唇の端が持ち上がる。
微笑。
彼女は僕に、微笑みを向けた。
まともに受けなかったとはいえ、頬を熱くして眼を完全に逸らすには十分過ぎた。
何故か負けた様な気分になった。
へたれ。
うるさい判っている。
と、そこで、目の前の女性が開口した。
「あの……相席、よろしいでしょうか?」
彼女は屈託のない笑顔を、僕に向けたままだった。
「……」
考える。
今、僕の中に生まれた疑問の答えを問い掛ける――のは駄目だ。さらに深みにはまっていくに違いない。それが、相手の狙いなのかもしれない。何故に狙うのかは不明だが。だから「何処かで会ったことありましたっけ?」とか「何故、こんなにガラガラなのにここへ?」と訊くのは、なしにしようと思う。
しかし、どうしたものか。
適当に断ったら印象が悪くなる。と言っても、彼女に対してではない。もちろん、周りの客に対してでもない。この店には今、三人しかいない。僕と彼女、そしてこの店のマスターの三人。そして、そのマスターに僕の印象を悪くしたくはないのだ。言っておくが、マスターは元漁師の小柄だが筋肉質な、明らかに男性と断言出来る人である。かといって、僕は男好きなわけじゃない。では何故か、といったら、このマスターが相当な曲者であり、コーヒーの値段を印象で決めるからである。表のメニューにもそう書いてある。だからこそ客足がないのだが。僕の場合、最初三〇〇円だったが、半月ほぼ毎日通った結果、二八〇円になった。
結論。
二〇円はでかい。
ここで適当に断って印象を悪くして半月の成果を無くさないために、僕は遠まわしに断ることにした。
「……僕の名前が判ったら、どうぞ」
「はい?」
彼女はキョトンと、眼を丸くした。
後から考えると、明らかにこっちの方が印象を悪くするものだっただろうが、今の僕にはそんなことは思いもしなかった。
結果から言うと、コーヒーの値段は変動しなかった。
何故なら、断れなかったからである。
「『
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