第一幕 遅刻した教授としたたかな生徒(前編)

館乃木たちのぎさん、今日はどうなされたのですか?」

 十分程度遅れて始まった魔導書学の講義も半分が過ぎた頃、壇上で教鞭を振るう教授を見守りながら教室を見回っていると、生徒の一人が小声で話しかけて来た。

「授業の途中ですよ、仙堂せんどうさん」

「あら、良いではありませんか。魔導書学の講義を受ける者として、先生が遅刻した理由を尋ねるのは当然だと思いません?」

 痛い所を突いた彼女は微笑みながら首を傾げた。

「教授の方で何か説明はありませんでしたか?」

 俺は遅刻した教授よりもさらに遅れて教室に来たから、教授が生徒たちにどんな言い訳をしたのか知らなかったのだが、俺の問いに仙堂さんは首を横に振った。

「一言謝罪があっただけでしたわ」

 ……今度、教授には説明責任を理解してもらわねば。

 気がつけば周りの生徒たちも俺に目線を向けていた。思わず頭を抱えたくなったが、なんとか心の中で押しとどめる。

 どうやら、今の俺に逃げ道はないらしい。

 仕方なく、教授の代わりにうまい言い訳を頭の中で巡らせた。

「研究室の今後の方針について、二人で議論をしていました」

「まあ」

 印象は変わるが、嘘は言っていない。

「白熱するあまり時間を忘れてしまって、その所為で皆さんの貴重な時間を無駄にしてしまいました。授業が終わってから、教授ともども、改めて謝罪します」

「いえ、そんな! きっとお二人は、今後の魔導書学についてとても有意義な議論をしていたに違いありません。だとしたら、図らずもそれに水を差してしまったのはむしろわたくしたちです。これ以上河崎教授や館乃木さんに謝らせてしまっては、申し訳ありませんわ」

 ……実は金儲けの話をしていたなんて、口が裂けても言えまい。

「ハヤキ、一体何を騒いでいる」

 教室の異変にようやっと気づいた教授は、板書の手を止めてこちらを睨んでいた。

「いえ、これは」

 言葉を探しあぐねていると、仙堂さんが立ち上がり頭を下げた。

「申し訳ありません。今の説明の中に少し疑問に思う部分がありまして、館乃木さんに質問しておりました」

「そうか、……理解できたか?」

「はい、お陰様で」

「なら、前へ出てこれを解いてみろ」

 黒板に描かれた術式の一部分を白墨で叩き、欠けた粉が下に落ちた。

 教授の出した問いは、魔導書作製における七十三の基本的な記述法の一つであるエイメルダ例題に則って描かれた術式の穴埋め問題で、授業の内容を聞いていれば解けるようにはなっている。しかし、エイメルダ例題は躓く人が多い、いわゆる鬼門と呼ばれるところだ。仙堂さんも理解したと言ってしまった以上、この穴埋め問題に正解しなければならず、もし仙道さんがこの問題が解けなければ、やはり授業を聞いていなかったと教授は叱責するつもりなのだろう。

 仙堂さんは黒板へ向かい、向かい合う。大丈夫かと不安になるが、教室の中央付近に立つ俺の位置からでは、彼女の表情はうかがい知れない。

 白墨の乾いた音が教室に響き、それがやむと教授はため息を吐いた。

「正解だ。戻って良し」

「はい、ありがとうございます」

 教授に一礼して自分の席に戻って来た仙堂さんに、俺はつい要らぬ言葉をかけてしまう。

「お疲れ様でした」

「いえ、私のために館乃木さんが怒られては心苦しいですし」

 彼女は言葉を区切ると、深く息を吐いた。

 それからこちらを見上げ、頬を染めて可愛らしくはにかんだ。

「とても緊張いたしました」


   ***


 瀧ノ巻たきのまき帝国魔術学園はその名の通り、魔術を教える学校である。

 そもそも魔術とは、開国を機に外洋から入ってきた技術である。それ以前にも魔術を使える者が貿易船に乗ってやって来ることもあったらしいが、大和には元々陰陽道や妖術が存在していたこと、貿易がかなり制限されていて大和に来る船自体が少なく、滞在時間も短かったこと、当時は異国の技術を忌避する風潮が根強かったなど、枚挙に遑がないほどの様々な要因があって、それまでこの国に魔術が普及することはなかった。

 だが、ある時気づかされる。

 海という大きな壁に囲まれ、大和の地で独自に発展した陰陽道や妖術は、ひとたび外へ出てしまえば、その力の一割も発揮できなくなることを。開国を余儀なくされた大和が世界の中で生き延びるためには、どのような場所でも安定して力を発揮する外洋の力、今まで忌避してきた魔術をこの国に取り入れるほかなかった。

 長く続けられた鎖国はついに解かれ、国の体制が変わってから三十年以上の時が過ぎた。教育制度が新たに制定されて、魔術を学ぶための学園が主要な都市に七つ作られた。ここ瀧ノ巻にある学園は、将来有望な若者のために初めて創設された、三番目の魔術学園である。

 そんな学園で魔導書学を教えるのは、下限十六歳の若い生徒たちよりもさらに年下の、河崎ヤサカ教授だ。

「河崎教授、本日のお昼はどうなさるのでしょうか?」

 予科一年桜組で四時限目の講義が終わり、次の五限六限で実習が控えた昼休み、教授の周りには女生徒たちが集まっていた。学園の光景としてはなんら不自然なところはないのだが、俺の目にはどうしても、奇妙に映ってならない。

 その理由は、彼女たちの服装だ。

 女生徒が着ているのは学園の制服で、大きな襟付きの上衣に「スカアト」と呼ばれるものが繋がったつなぎ服に、腰のところで細い帯を結んだものだ。対して教授は、格式を重んじた黒の紋付羽織袴。教授が女生徒達に取り囲まれる様子は何度も見ているが、いまだに違和感がぬぐえない。

 だけど、これが今の大和の姿でもあるわけで。

「そう言えば、今日はお弁当を作っていたな。ハヤキ」

「え、あぁ」

 不意に話をふられて、思わず顔を背けた。

「おい、ハヤキ?」

「……あれはお昼じゃなくて、夕食のために作ったものです」

「嘘をつけ。夕食まで放っておいたら腐るだろう」

「氷室に入っているから大丈夫ですよ。たぶん」

「……つまり、忘れて来たんだな?」

 咄嗟に出た言い訳だったが、忘れていたのは事実だった。


 教授は生徒たちからのお恵みに甘えることになったらしいが、俺の方はそうも行かない。教授の分を忘れて自分の分だけ持って来ているわけもなく、財布も忘れてしまった。今から取りに戻っても、次の授業に間に合わない。完全に食い逸れてしまって、時間を持て余した俺は学園長室に顔を出すことにした。

「よくぞ来られたな、館乃木氏。ひとまず座ってくだされの」

 布をふんだんに使った蘭服を着こなす学園長は、相変わらず生徒たちに混ざっても不自然ではないほどに若々しい異国混じりの顔立ちを、内側を決して覗かせぬ仮面のような笑顔で俺を迎え入れた。

 昼時であるにも関わらず、学園長は来室者を歓迎する。

 その理由は、本人が昼食を取らないからだそうだ。

「河崎女史はおられぬのか?」

「教授は生徒の相談で手が離せずにおりまして。学園長は午後から用事でここを離れるとお聞きしまして、失礼ながら私一人が挨拶に参りました」

「そうであられたか。ならば儂の肩書からして残念とも言えぬな」

「ご理解、感謝いたします」

「むしろ僥倖と言えるかもしれぬ。河崎女史は、儂との会話を好んでおられぬようだからの」

 学園長は一つ指を鳴らすと、部屋の隅の茶器が音も立てず独りでに動き出した。

「出立の準備を終えたは良いが、時間が余ってしまっての。館乃木氏はほうじ茶が好みであられたかな?」

「はい、ありがとうございます」

 頭を下げながら、手に汗を感じた。要は話し相手になれと、それだけのことだが、どうしても気持ちは身構えてしまう。

 学園長は偉大な魔術師だ。大和では初めて政府から教授に認められた五人のうちの一人で、学園長がいなければこの国の魔術は今より二十年は遅れていた言われるほど。

 教授や俺にとっては恩人と言っても良いほどの相手ではあるが、はっきり言って、得体が知れない。そもそも学園長が教授になったのは二十年以上も前のことで、その時から年齢不詳だった。

 お茶が用意され、学園長が一口啜った。

 はたして、俺も飲むべきか。毒が盛られてるなんてことはないだろうが……。

「館乃木氏は、葉桜歌劇団を存じておられるかの?」

「……一応は。三日前に役者の写真を没収されていた生徒を見ました」

 学業に関係のないものは学園に持ち込むな、なんて叱られていた。

「どうやら、生徒たちは間ではその話題で持ちきりになられているようでの」

 葉桜歌劇団とは、大和の各地を巡業する役者集団で、この間からついに瀧ノ巻に来たかと巷で話題となった。一週間ほど前から街の西側にある大きな広場を使い、日夜野外公演が行われている。俺は歌劇団がこの地に来るまでその存在を知らなかったが、最近では言わずと知れた有名な劇団なんだそうだ。

「皆が気になっている故、儂も気になったのだが、何せ二時間もすればこの地を離れ帝都に向かわねばならぬ。帰ってくる頃には公演も終えられているだろうて」

「ひと月以上もここを開けられるのですか?」

「当然、儂のいない間も給金はしっかり天引きされるからの」

 ……そんなつもりで言ったわけじゃなかったんだけど。

 俺の顔が引き攣っていたのか、学園長は小さく笑った。

「いらぬことを言うたな。もしも機会がおありになれば、帰って来た時にでも感想をお聞かせ願えればと思っておるのだが」

「機会って……観劇したら、ですか?」

「もちろん」

 当たり前のように言う学園長に、俺は首を振った。

「私どもにそんな余裕はありませんよ。学園長も知っておられるでしょう」

「お金か? なら、副業でも始められてはいかがかの?」

「ふ、副業ですか」

「儂の言っている意味、分かっておられるのだろう? 何の為に河崎女史を非常勤で雇っているか、ご高察いただきたいのだがの」

 学園長は目を瞑り、湯呑を傾けた。

 言いたいことはわかる。けど、俺から何かを言えるわけもない。

 教授は自分が研究者であることにある種の矜持を持っていて、一心不乱に研究へ取り組むことこそ美徳だと考えている。なのに今の研究室には、必要なもの資金が不足している。だからこそ、色々考えて兼ね合いを取りつつ稼ぐための様々な提案をしているのが現状なのだが。

「遠慮せず、お茶を飲まれてはいかがかな。一度も口をつけられぬのは、流石に寂しいて」

「あ、はい」

 口の中が乾いていたのもあって、言われるがままに湯呑を持ってしまう。このまま卓に戻せるわけもなく、そのままお茶を口に含んだ。

「……おいしい」

「そうか、それは良かったの」

 学園長は微笑んで、二つの湯呑が空になるまで、静かな時間が流れた。


「やっぱりここにいたな!」

 学園長室から失礼すると、教授がふんぞり返っていた。

 扉の前でわざわざ待っていたのか、それなら部屋に入ってくれば良かったのに。そう言うと教授の眉がぴくりと痙攣した。

「誰があんな魔女のお茶なんぞ飲むかっ! 何を盛られるかわかりゃしないだろう!」

 扉の先を気にしたのか、声を抑えながらもはっきりと言い捨てた。

「恩人に向かってその言い方はあんまりではありませんか?」

「……ものは言い様、捉え方によってはそうかもしれないがな!」

 教授は一歩踏み出し、なぜか俺は胸元を掴まれた。

「褒め殺しながらの資金援助と言ってぼくらに借金を背負わせ!」

「俺たちは何も知らない子供でしたね」

「開国以前に蘭国から来た高名な魔術師が使った研究室だと言って、街外れのあんなおんぼろ屋敷をぼくらにあてがい!」

「おんぼろって言っちゃうんですか」

「あまつさえ借金返済を理由にこの学園で働かされて毎月給料を天引き!」

「手取り半分は流石にきついですね」

 教授は扉を指さし、恨みがましい目で叫んだ。

「やり口が詐欺まがいなのだよ、あの女狐!」

「それは確かに」

 これ、絶対向こうにも聞こえているよな。まぁ、それで学園長が怒ることもないだろうし、教授もわかっててやっているんだろうけど。

「とりあえず、教室に戻りませんか? そろそろ次の授業が始まってしまいますし」

「……そうだな」

 大きな声を出して、ひとまず満足したのだろう。こんなところで苛立ってもしょうがないことは教授もわかっているのだ。

「学園長と何を話していたんだ?」

 並んで歩きながら葉桜歌劇団の話をすると、教授はため息を吐いた。どうやら生徒たちとの話題にも上がっていたらしく、教授はそこで初めて劇団の存在を知ったらしい。

「今朝の世迷言の意味が分かったよ」

「あ、はは」

 呆れていらっしゃる。

「しかしですね、あの人たちだいぶ稼いでるみたいでしたよ?」

「何を根拠に」

「いや、昨日街で役者らしい人を見たんですけど、すごく良い身なりをしていたんですよ。着物はおろしたてみたいに皺ひとつなくて、髪を結っている簪は高級そうで、胸には装飾品が輝いて、くつもきれいに磨かれていて……」

「はいはい」

 教授の呆れ顔は変わらない。少し空しくなって来た。

「それで、ほかにはどんな話をしたんだ?」

「それだけですよ。あとはおいしいお茶をいただいただけで」

「まさか、お互い見たこともない歌劇団の話題で一時間以上も話し込んでいたのか?」

「は?」

 思わず俺は首を傾げた。

「学園長とお話をしていたのは精々十数分程度ですよ?」

 すると教授は怪訝な顔して、同じように首を傾げた。

「なら五時限目の間、ハヤキは何をしていたんだ?」

「ちょっと待ってください。今はお昼休みで、次が五時限目ですよね?」

「何を言っている。もう五時限目が終わって、次の六時限目がそろそろ始まる時間だろう」

 教授は懐中時計の木蓋を開けて時間を見せて来た。

 確かに、教授の言っていることが正しいと時刻は示している。

「狂ってますよ、それ」

「これは正確に時を刻んでいるよ」

 意味が分からない。

 だけど、なんとなく事態は読めた。

「ハヤキ」

「はい」

「あの西洋かぶれについて、どう思う?」

「感想は控えさせていただきます」

 世の中、深く考えてはいけないことがある。

 油断してると取って食われそうな恐ろしさがあっても、あの人は恩人だ。学園長がいなければ、俺たちはきっと今も路頭に迷っていた。たとえ教授は嫌っていても、俺くらいは感謝の気持ちを忘れないようにしなければ。

 そう自分に言い聞かせることにした。

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