大和の国に魔導書を
日方星二六
第一章 葉桜歌劇団の騒動
序幕
「演劇をやるだと?」
俺の提案に、黒い袴姿の教授は馬鹿を見る目で頬杖を突いた。本と紙と墨に塗れた研究室にあって唯一の聖域と言える机には、教授の書き損じによってごみとなり果てた藁半紙と筆が投げ置かれている。
「そうですよ、教授! この狭苦しくて極貧なボロ研究室の置かれている現状を鑑みるに、これが一番の解決策だと思うんです!」
「せめてボロはやめろ!」
煉瓦造りの異国情緒漂う趣ある研究室と言え、と教授は主張する。
確かに隙間風で本の葉が勝手に捲られることもあるし、扉の立て付けが悪すぎて二日間も実験室に閉じ込められたし、夏は食べ物がすぐ腐るし、逆に冬は氷室いらずだが、それでも我が唯一の城なんだ、とも。
俺だってそこはわかっている。別に研究室をもっと良い場所に移そうと言うつもりはなく、補修や改修をしようなんて無謀極まりないことを言うつもりもない。暮らしづらい小さな屋敷をできる範囲で改善を続けて、俺もそれなりに愛着が湧いているのだ。
ただ。ただ、お金がない。
教授だって、それはわかっているはずなのに。
「良いかハヤキ。ぼくらは研究職に就いた人間だ。そんな浮ついたことを考えている暇があるなら、一心不乱に目の前にある研究課題に集中しろ」
にべもない。
「教授がおっしゃることはもっともです。ですが、今の俺達には先立つものがないじゃないですか」
「そんなものはなくても研究はできる。ぼくらは
教授はそこら辺に落ちていた紙を拾い上げると、目の前に突き出して来た。そこには失敗の産物が殴り書きされているが、まだこの紙は裏が使えると言いたいのだろう。
教授は以前言っていた。新たな発見とは、苦しんだ者がそれでもあきらめずに進んだ先にあるもので、お金があれば良いと言うものではないと。立派な心掛けだと尊敬するが、このままでは根性論を振りかざした挙句、さらにこの研究室を追い込こむだろう。
であるならば。
俺は助手として、修羅の道を進む前にいったん立ち止まらせなければなるまい。
「ですが
「……いや、魔織紙ぐらいあるし」
教授は目を逸らした。
「以前、教授は言っていましたよね。このままでは作れても一冊が限界だと。俺たちの稼ぎだと一冊作るのに必要な資金を貯めるには三年はかかります。あの馬鹿みたいに値の張る魔織紙が用意できなくなったら、魔導書作家は廃業ですよ?」
「だから次の一冊にすべてを賭けるんじゃないか!」
「それが失敗したらどうするんですか? まさか借金ですか?」
「そんなことしたら泥沼だろ!」
「でしょう!」
びしりと俺は指さした。
それに教授の眉が小さく痙攣して、机を指で叩いた。
俺の指が変な方向に曲がった。
「いったぁ! 骨がぁ、関節がぁっ!」
「ただ痛いだけで骨にも間接にも異常はないから騒ぐな。ぼくは教授で、君は一応助手なのだから、態度には気を付けるように」
「くぅ……、助手だからこそなのに」
確かに、ちょっと興奮しすぎていたかもしれない。
いかん、痛みで涙が。
「な、何も泣くことはないだろうっ」
「え?」
教授が突然慌てふためいた。
「わかった、ぼくもちゃんと話を聞こう。この研究室で働く助手としてハヤキなりの考えがあって言ったことなのだしな! だから泣くな、な?」
「いや、泣いてないですけど」
話を聞く気になってくれたのは嬉しいが、それは聞き捨てならない。
「わかっている、わかっているから」
「いや、絶対わかってないですよねっ? 大和男児たるもの、泣くのは人生で三度だけと決めてるんです! 例え勘違いでもこれだけは訂正させてもらいます!」
「いーや、絶対泣いていたね! 隠そうとしたってぼくは見逃さないからな!」
「いーえ、違いますから。教授の魔術で指が痛すぎて涙目になっていただけですから!」
「おお、ハヤキを泣かすとは流石ぼく!」
「そこで胸を張らないでください!」
言い合いがしばらく続いて、これが不毛であることに気がついたのは、互いに肩で息をするようなってからだった。
「で、資金難と演劇をやることに一体どんな関係があると?」
教授は行儀悪く登っていた机から降りて椅子に座り直した。
「もちろん、演劇で金を稼ぐんですよ!」
「聞いて損した!」
吐き捨てられた。
教授は背もたれに身を投げ出し肘をかけ、それから露骨にため息まで吐いた。
「何ですかその反応」
「まさかとは思うが、ぼくらに役者の真似事をしろと言いたいのか?」
「いいえ、違います」
俺もそうだが、教授なんかに演技なんて到底無理だろう。
「だったら役者でも雇うのか? どこからそんなお金が?」
「それも違います。そもそも俺の話はまだ終わってません」
教授は鼻であしらいふんぞり返った。名案があるなら言ってみろ、って顔だ。こちらを完全に見下している。
甘いですよ教授、俺だって考えなしにこんなことは言わない。
俺は教授の耳元に口を寄せた。
「演劇のための魔導書を書くんですよ」
「は?」
「どうです、なかなかの妙案でしょう!」
これぞまさに現状を打開する逆転の発想。
昨日街を歩いている時にふっと舞い降りて来た一発逆転の秘策だ。
「つまり、人ではなく魔術で演劇をやるんです。現状案としては、物語性のある大掛かりな幻像魔術ですね。これなら俺達が演技をする必要もないし、人件費もかかりません」
しばし大口を開けて言葉を失っていた教授は、やがて思考を取り戻して開口一番。
「それでは本末転倒じゃないか!」
「いいえ、そんなことはありません」
「それに今取り掛かっている研究内容はどうするんだっ?」
「言っておきますが、俺は気付いていますからね。教授は今、実験を重ねる過程で方向性を見失ってしまっていることを!」
思わず教授を再び指さしてしまった。しかし今度はその指を折ることはせず、教授は大袈裟に狼狽えた。
「……な、何故それを」
「俺は教授を常にそばで見ていますからね」
助手として、それは当然の仕事だ。それに年下の小さな教授は危なっかしくて、目を離すと不安になって仕方がない。
「そ、そうか……」
図星を突かれて恥ずかしかったのだろう、教授は頬と耳を赤く染めていた。
「教授の目標は魔導書をこの大和に普及させること。魔術の知識がない人や絶対的な魔力量が少ない人でも扱える魔導書が人々に広く行き渡れば、この国はもっと豊かになる。そうですよね?」
「そうだ」
教授ははっきりと頷いた。
「であるならば、演劇という大衆娯楽は魔導書を、延いては魔術そのものも身近にするのではないかと思うのです! これは貴族の方々や限られた人のみが魔術を学ぶ現状を変えるきっかけにもなりえます! 教授の研究課題とも合致するのではないかと思うのですが、いかがでしょうか!」
「なんだその口調は」
「気分的なものですね」
とにかく、俺が言いたかったことはすべて伝えた。
頑固で天邪鬼で我儘な教授だが、正論を感情論で否定することはしない。これで駄目なら俺の考えが元々駄目だっただけだ。
教授は腕を組んで思案を始めた。机を離れ、お気に入りの揺れ椅子に座ってゆらゆら。目を瞑って腕を組み、懐から木蓋の懐中時計を取り出して開け閉めして。
「あ」
ぴたりと動きを止めた。
「どうしました、もっと良い案が浮かびましたか?」
「違う、時間」
「時間?」
「授業」
教授は真っ青な顔をして懐中時計の盤面を俺に見せた。
教授とはつまり、人に魔術を教授することを国から認められて、教授することを半ば義務とされた者のことだ。それは歴代最年少で教授として認められた齢十五歳の教授も同じで、東北帝国魔術学園にて週に二日、非常勤として魔導書学の授業を受け持っている。時計は今日の授業開始時間三十分前を示しているが、研究室は街外れの小高い丘の上にあり、ここからでは走っても学園まで四十分以上かかる。
つまり、完全に遅刻だった。
努めて冷静に、俺は教授に尋ねた。
「どうするんですか、教授」
「どうするもないだろう!」
叫んで俺の頭を
「とにかくぼくは先に行くから、ハヤキは教材と戸締りを頼む!」
教授は黒の羽織を引っ掴むと、そのまま玄関で草履を履いて走り出した。
「り、了解しました!」
結局、話は打ち切られてしまったが、それを惜しむ余裕もない。
俺はあらかじめ準備していた風呂敷包みを掴むと、玄関脇の服掛けに引っかけている愛用の鳥打帽を被って、教授を追い駆けた。
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