第七幕 女の子を喜ばせる簡単な方法
労働には対価が伴うものだが、通常それは賃金の形をとるだろう。
だが現状、俺にはその対価が支払われていない。教授の助手をすることが俺の労働ではあるが、それに対しての給金は一切発生しない。強いて言うならば、教授が労働に対して学園から受け取る対価が俺への対価になっている。同じ研究室に寝泊まりし、財布は主に俺が管理している今の共同生活では、これも仕方のないことだ。
給金が支払われないことに不満はない。少なくとも生活には困っていないし、ある意味では自分自身が望んだ結果でもある。問題なのは、生活はできても余裕はないことだ。娯楽や嗜好品に使えるお金、自分で自由にできるようなお小遣いすらほとんどないのだ。
先日教授に埋め合わせをすると言ってしまったが、何をするべきかいまだに悩んでいる。歌劇に連れて行ければそれが一番良いのだが、試しに教授を誘ってみたら。
「どこから切符を買うお金を出すつもりだ?」
なんて言われてしまった。
実際のところ、切符代を捻出できないこともないのだが、断られてしまった以上は別の方法を考えなければなるまい。お金のかからない埋め合わせとなると、なかなか難しい。いっそのこと夕食に教授の大好物をたくさん作っておもてなしでもしようかとも思っていたが。
***
「それではだめなのです!」
学園で教授とお昼を一緒することが多い仲良し四人娘からは、大反対を食らってしまった。教授と仲が良いと思われる彼女たちなら、教授が喜ぶこともわかるかもしれないと相談したのだが、ならばどうするのが一番なのか聞くと、こんな答えが返って来た。
「そうねえ、
「だよねだよね! 時代はやっぱり『でえと』だよね!」
でえと?
なんだろう、昔聞いたことがある気がするのだが、意味を思い出せない。
「……でえとは……男性と女性が二人きりで、出かけること」
「そうなのですか?」
「……河崎教授も……きっと、喜ぶ」
「でも、二人きりで出かけるなんて良くあることですよ?」
「いやあん、流石だわあ!」「ねえ! すごいなあすごいなあ」「本当なのです! やはりお二人は侮れないのです!」「……館乃木さん、やり手」
きゃあきゃあと、唐突に四人娘は盛り上がった。
駄目だ、今どきの若い娘っ子たちについて行けない……。
四人娘は一しきり盛り上がってから、この中で一番の大人っぽさを持つ御動さんが一つ提案をくれた。
「やっぱり葉坂歌劇団の公演に誘ったら良いんじゃないかしらあ」
「ですが、それはもう断られてしまいましたよ?」
「館乃木様、言ったことをそのまま受け取るだけでは女心は掴めないわあ。多少の強引さもあった方が、女性はときめくものよお?」
……強引さか。
それは、ちょっと怖いな。失敗すれば痛い目に合いそう。
そんな考えを読まれたのか、御動さんは笑って言葉を付け加えた。
「先に二人分の切符を用意すれば、河崎教授もきっと断れないわあ」
「それが強引さ、ですか?」
「女性は、殿方に引っ張ってほしい生き物よお?」
***
そんなわけで。
彼女たちの助言を聞き入れて、とりあえず切符代を用意しなければならないから、俺は老夫婦が営む銭湯の風呂掃除をしていた。
老夫婦には瀧ノ巻に来たばかり頃からお世話になっていて、お金が入用になるたびに俺は営業が終わった銭湯のお風呂を掃除しては、その分の対価をお小遣いとしてもらっていた。決して楽な作業とは言えないが、こちらの都合で働かせてもらえる分、非常にありがたい。
ただ、今日は老夫婦がおらず、代わりに孫のヒノちゃんが店番をしていたらしい。
「お父さんがね、おじいちゃんとおばあちゃんを旅行に行かせたのよ」
「へえ、親孝行なんだね」
「女を口説くために汗水たらしてる誰かさんとは大違いで、あたしは尊敬してるの」
優しいあのお二方と違って、孫娘は口が悪い。いつもはもう少し柔らかいのだが、働く理由を言った時からずっとこんな感じだった。一緒に膝をついて浴槽をたわしで磨きながら、ちくちくと俺を攻撃してくる。
「教授相手に口説くも何もないよ」
「でも、でえとなんでしょ?」
「ヒノちゃん、何か勘違いをしてない?」
「ちゃんづけはやめてって言ってるでしょ!」
……昔は懐いてくれていて、すごく可愛かったのに、二年の歳月は一人の女の子を変えてしまったんだな。これがあれか、思春期か。
でも、ヒノちゃんがいるときは必ず手伝ってくれるんだよな。俺と違ってお小遣いも受け取ってないみたいだし、今日なんか一日中働いて疲れているだろうに。
「そうだ。掃除は俺の仕事なんだし、ヒノちゃんはもう休んだら?」
「はあ? 何よ突然?」
「今日は一日中店番をしてたんだろう? だったらもう疲れてるだろうし、無理して手伝って、それで体調を崩したら心配だし」
「……ふんっ、おあいにく様。あたしはちっとも疲れてないの。厄介払いをしようなんて、そうはいかないんだから!」
「いや、別にそんなつもりじゃ」
「言っておくけど!」
ヒノちゃんは急に立ち上がってびしっと指を差した。
「別にあんたを手伝うためにやってるんじゃないから! 今日はあたしがこの店を任されたから、きっちりと責任を持って仕事をしてるの。それだけだから!」
ふんぞり返っているヒノちゃんを見て、誰かを思い出した。
それで思わず、笑ってしまう。
「うん、わかってるよ。ヒノちゃんはすごく良い子だからな」
「ちょ、馬鹿にしないでよね!」
「してないよ。褒めてるんだ」
「……ふんっ」
口は悪くなっても、やっぱりそこは変わらないんだ。
娘を持った父親と言うのは、もしかしたらこんな気持ちなのかもしれない。
「ほら、こっちも終わったから、次は女風呂に行くわよ!」
「わかったよ、ヒノちゃん」
「だから、ちゃんづけはやめてって!」
ヒノちゃんは頭を
「そう言えばさ、お金は何に使うつもりなの? 贈り物?」
「いや、違うよ。この前から瀧ノ巻に葉桜歌劇団が来てるだろ?」
「それね、嫌でも耳に入って来るわ」
「その切符を買って、教授と見に行くつもりなんだ」
「ん?」
ヒノちゃんが眉をしかめた。元々しかめっ面気味ではあったけど。
「どうしたの?」
「切符買えるの?」
「そのためにお金を貯めてるんだけど」
「そうじゃなくてさ!」
そこでヒノちゃんは、まったく予想だにしてなかったことを言った。
「今日店番をしているときに聞こえたんだけど、切符が売れ切れてて買えなかったって、お客さんが嘆いたよ?」
………………え?
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