第五幕 二度あることは三度ある(中編)
俺とミトノさんの後ろ、席に座らず後方で立ち見をしていた集団の中で、何か騒ぎが起きているようだった。言葉の意味が入って来ない有象無象の声を押しのけて、二人の男の怒号が聞こえてきているのだが、とても気になる単語が、何度か飛び交っている。
「何から、喧嘩?」
「かもしれない、ちょっと様子を見て来る」
「どうして?」
まさかそんな反応をするとは思っていなかったから、少し困った。
「今は小さい騒ぎに見えるけど、この後どうなるかわからない。もしも大きな騒動になったら、俺たちも巻き込まれるかもしれない。なら、何も知らないよりは、野次馬に混じってでも状況を把握しておかないと」
頭をよぎったのは、仙道さんたちだ。
仲違い、と言うと語弊があるかもしれないけど。それに近いことがって、それでも無事に仲直りしたわけだから、劇場に来てから帰りの待ち合わせまでは、三人の自由にしてあげたいと思っていた。事実そうしたわけだけど、だからって考えなしに放っておくのは間違いだ。俺たちが巻き込まれる前に、彼女たちが巻き込まれることもあるのだから。
そんな風に、先生を名乗った責任を取ることを考えているが。
理由は、それだけじゃない。
「もしかして、何かあった時にわたしを守ってくれるの?」
困ったもので、ミトノさんは、ケロッとした顔でそんなことを聞いてくる。
「……それだけじゃないけどな」
別に嘘をついたわけでもないが、わざわざ正直に言わなくても良かったかなと、言ってから何故か後悔した。
「そう。なら、いってらっしゃい。状況把握ができたら、わたしにも教えてね」
ミトノさんは、ひらひらと手を振った。
人だかりの中で、特に密集しているところを見つけた。ひときわ大きな声もその辺りから聞こえるから、騒ぎの中心はここで間違いないだろう。とにかく仙道さんたちがいないか探していたら、思いもよらぬ奴が現れた。
「よう、奇遇だな我が親友! 相変わらず帽子が似合っているな!」
肩を叩いたのは色無地姿の男、瀧ノ巻警察部に勤める巡査の因藤トウクだ。比較的細身な体形であっても、着物から覗く腕や胸は筋肉質で逞しく、徒手空拳に精通した強い人ではあるのだが、なんと言えば良いか。
「まさか、こんなとこで会うなんてなぁ!」
「……うん、まぁ」
面倒な人と会ってしまった。制服じゃないから、警邏でここに来たわけではないんだろうが。
「今日は休みでここに来てたんだが、警察の性と言うんかな、気になっちまってな! 親友もそうだろ?」
「それは、そうだけど。あの、さっきから気になってることが」
「俺は一人で来てんだがな、お前はあの子と一緒か?」
聞けよ人の話。
「あの子と言うのが教授のことなら、違うよ。今日は学園の生徒たちに連れられて、ここに来たんだ。……今は別行動を取ってるけど」
「なるほどな、つまりはお前も独り者かあ!」
嫌な言い方するな。
因藤さんは、人の話を聞かず、無遠慮な人だ。いざと言うときには頼りになる人だが、あまり得意な人ではない。一つつけ加えるなら、この人は俺を親友と呼んでいるが、顔を合わせたのはこれで三回目だ。
「とりあえず、この騒ぎの原因は?」
人の集団が一層盛り上がった。事態に何か変化があったのだろうか。
「喧嘩らしいぞ。流石の俺も、ただの喧嘩なら放っておくところなんだがな。どうにも気になる話を聞いちまったから、これは見過ごせねえと」
「盗んだとか盗んでないとか、争う声だったな」
さっきの今だから、どうしても耳についてしまった。
けど、因藤さんがいるなら大丈夫だろう。少し阿呆な人だけど、警察に人だし、小さな喧嘩騒ぎなら放っておいても大丈夫、事件は専門の人に任せてとっと退散してしまおう。仙道さんたちについても、密集した人ごみの中をむやみに探すより、先に待ち合わせ場所に行った確認した方が効率的だ。
何より因藤さんに関わると碌なことが。
「よっしゃ、突っ込むか!」
「は?」
因藤さんはがしっと、肩を組んで来た。
「行くぞ親友!」
「え、ちょっと!」
どけどけえぃ、とか、俺は警察だ道を開けろおぃ、とか。そんなことを叫ぶものだから、人の塊は否が応でも因藤さんを震源にして割れる。俺は半ば首根っこを掴まれて、引っ張られるようにその中を歩かされた。
ただ、割れたと言っても男二人が堂々と通れるほどの広さはなく、まともな体勢で歩けない俺はもう揉みくちゃだった。
「ほらほら、喧嘩はやめろお前ら!」
ようやっと解放されると、目の前には渦中の人物と思われる男が二人、泥だらけで取っ組み合っていた。片やぼさぼさ頭で甚平姿の伊達男は、一歩後ろに下がってこちらを睨みつけ、片や髪を後ろに撫でつけ燕尾服を着込んだ紳士は、ふらりと相手から離れて山高帽を拾った。
「なんだてめぇは、すっこんでろ!」
頬に痣をつけた伊達男は水を差した因藤さんに噛みついたが、当の本人は顔色一つ変えない。
「そうはいかんな! 何せ俺は警察官だ、犯罪が起こればそれを見過ごすわけにもいかん!」
「てめぇまっぽかよ。言っとくがな、お前らが首を突っ込むようなことはな、何も起きちゃいねえよ。あのいけすかねぇおやじが言いがかりをつけてるだけだからな!」
「言いがかりではない! 間違いなく貴様は我が財布を盗んだ不届き者であろう!」
「だから違うって言ってんだろ!」
「貴様こそ知らぬ存ぜぬでで通せると思うな!」
うわ、また喧嘩が始まりそうな雰囲気。
あの伊達男はいかにも喧嘩っ早そうだが、それを相手取っていた紳士の方も負けず劣らずだ。
「まあまあまあ、落ち着けって。ちゃんと俺が話を聞いてやるから、二人ともまずは状況を説明してみろ、な?」
流石の因藤さんもまずいと思ったのか、間に入って二人を離した。
「とりあえず劇場を出るか。ここじゃ周りに迷惑がかかる」
「はあ? なんでてめぇの指図を受けなきゃなんねえんだ! 迷惑をかけられてるのは、むしろこっちだろうが!」
「だがな、周りの人間が巻き込んでも面倒だろ?」
「勝手に集まって来た奴らがどうなろが知ったこっちゃねぇよ! てめぇらも見せもんじゃねぇぞ!」
伊達男はついに野次馬にも噛みつき始めた。紳士は首を横に振って呆れるだけだし、因藤さんもあの暴れっぷりでは流石に持て余しているようだ。
……仕方ない。
「皆さん! この場は警察が預かりますので、申し訳ありませんが、ここから離れてはもらえませんか!」
とにかく警察の部分を強調して何度も声を張り上げた。
最初はそれで動く人はいなかったが、五回目ぐらいから徐々に効果を発揮し始め、その場を去り始めた人がちらほら。近くにいた人もある程度の距離を取り、最初に来た頃より大きくなっていた群衆はだいぶ散らすことができた。
だが、逆にこっちへ近づいてきた人が一人。
「良かった、見つかったわ」
「ミトノさん?」
女性の身では人ごみをかき分けるのも一苦労だったのだろう、息を切らして胸に手を当てていた。
「どうしてここに?」
「だって、なかなか戻って来ないんだもの。巻き込まれたんじゃないかって、心配になって探しに来たの」
「……完全に巻き込まれたからなぁ」
自分がやったことではあるが、俺が目を合わせると、みんな後ろに下がって距離を取ろうとする。何とも言えない気持ちだ。
「ハヤキさんは警察の人だったの?」
「聞いてたのか。違う、あそこにいる人が警察」
親指で後ろを指さすと、ミトノさんは背伸びして俺の肩越しに覗き込んだ。
「あの英国紳士風の人?」
見ると、どうやら喧嘩していた二人は一応の落ち着きを取り戻して、因藤さんが聞き取りをしているようだ。はた目から見ると、因藤さんはあの伊達男の仲間っぽい。紳士が一番理知的に見えるから、勘違いするのも無理はないか。
「いや、色無地を着ている奴」
「もしかしてハヤキさんの知り合い?」
「……まぁ、一応」
「一応とは水臭えじゃねえか親友よ!」
びっくりした。
いつの間にか因藤さんが真後ろに立っていた。
「二人から話は聞き終わったのか?」
「それより、ちょっと来い」
肩を組んでどこに連れていかれるのか、喧嘩していた二人の方ではなく、全く関係ない方向に引っ張られた。
「あの女の子は誰なんだ」
「え、今その話をするの?」
「当たり前だろうが! 俺はてっきりあの教授ちゃんとそういう仲だと思っていたからな、親友としては見過ごせねぇよ」
「えぇ……」
ちらっとミトノさんを見たら、目が合い、首を傾げられて思わず視線を戻した。
「まさか、本当に恋人同士なのかっ?」
「違う。今日劇場でたまたま知り合って、そのまま意気投合したんだ。ミトノさん曰く、同好の士なんだよ」
「そんな、会ってその日のうちにとは……!」
「因藤さん、なんかとんでもない勘違いしてない?」
この人は本当に人の話を聞かないな。
「そもそも、俺にはそういう仲の人なんていないから。もちろん、教授もだ」
「なんだ、そうなのか」
「そうだよ。それよりも因藤さんの方こそ」
「良し、戻るぞ!」
「いや、おい!」
自分の疑問が解決したらそれで終わりか!
……もうやめよう。疲れるだけだ。
思わず肩を落としてついて行くが、因藤さんは喧嘩している二人ではなく、ミトノさんの方へ向かっていた。
「あの二人は放っておいて良いのか?」
「ああ。少なくとも、二人は逃げるつもりもないようだからな、事件解決のために、我が親友の知恵を借りたい」
「……知恵ですか」
「手紙事件を解決した手腕を、ぜひとも発揮してくれ!」
あれを解いたのは教授なんだけどな。
「わかったよ。できる限りのことなら」
「流石我が親友!」
まあ良いさ。
ここまで巻き込まれてしまったんだ、乗りかかった船だと思うことにする。
戻ってくると、少し不満そうな表情でミトノさんは出迎えた。
「ねえ、お二人でどんな話をしていたの?」
「なあに男同士の話さ、なあ!」
「……そうだな」
首を傾げるミトノさんにこれ以上踏み込まれないよう、因藤さんにはあの二人から聞き取りをした内容をまとめてもらった。
簡単に言ってしまえば、これはスリの話だ。
舞台の幕が下り、劇を見終えた紳士が劇場を出ようと思い歩いていると、伊達男と肩がぶつかった。以前にもスリにあっていた紳士は、もしやと思って長袴の衣嚢を調べると、やはり財布がなく、すぐに伊達男の肩を掴んだ紳士は、貴様が財布を盗んだと伊達男を責めた。
だが、伊達男はすぐにそれを否定する。財布も盗んでいないし、そもそも肩がぶつかったのも自分ではないと主張した。すべて紳士の勘違いだと逆に責めたが、紳士もそれを認めなかった。
両者はお互いに引かず、やがて伊達男の方が先に手を出す形で、喧嘩にまで発展してしまう。取っ組み合いの殴り合いをしているうちに人が集まり始め、結局因藤さんが止めに入るまで、泥だらけの二人は争うのをやめなかった。
「わたし、一つ思ったのだけれど」
ミトノさんが手を挙げた。
「なんだ、えっと……」
「ミトノです。因藤さんは、スリを疑われた方が財布を持っていないか、懐や袖の中を確認はしたの?」
因藤さんは大きく頷いた。
「もちろん、隅々までやったぞ! まあ、見つからなかったが」
「なら、あの英国紳士さんの勘違いだったのではないかしら?」
「そうなるとは、思うんだがなあ……」
伊達男が財布を持っていないなら、普通は紳士の勘違いになるだろう。
なのに因藤さんは俺に助けを求めた。つまり、一連の流れにどこか違和感を感じたのだろう。
「俺が考えたのは、共犯者がいたんじゃねえかなってことなんだよ」
「共犯者に盗んだ財布を預けたと言うことかしら?」
「ああ。親友はどう思う?」
「たぶん、違うと思う」
俺が首を振ると、そうかと言って因藤さんは肩を落とした。
「因藤さんは、紳士が盗まれた財布の特徴を聞いているんだよな?」
「じゃねえと探せねえからな。黒い財布だと言っていた」
「それは、あの伊達男がいる前で聞いたのか?」
「ああ。二人を別々にできる状況でもなかったもんでな」
「なら紳士の人は、財布についてほかの特徴を言っていなかったか?」
「……いや、俺は聞いてねえな」
ふむ、そうか。
「昨日、かなりの大雨が降ってたよな」
「そうだな。おかげさまで地面がぬかるんじまって、あの馬鹿二人を止めに入った俺まで泥まみれだ」
「私も、裾の長い服にしなくて正解だったわ」
考えを咀嚼していくうち、違和感が確かな形を持ち始めていた。
だけど、もしこれが正しかったとすれば、少し厄介だな。
「あ、お二人とも見て!」
「ああ! くっそあいつら、また性懲りもなくっ!」
伊達男と紳士はまた喧嘩を始めていた。とは言っても、まだ殴り合いまでには発展していない。伊達男が胸倉を掴み、紳士が怒鳴り散らしている程度だが、またいつ殴り合いが始まってもおかしくない雰囲気だ。
本格的に喧嘩が再開されたら面倒だ、そう言って因藤さんは再び二人を止めに行こうとしていたが、俺はそれを制止した。
「ここは俺に任せてもらえないか?」
「お前がか? 奴ら、腕っぷしはなかなかだぞ?」
「大丈夫」
だけど、無策で行くのはまずいか。
「心配してくれるなら、ちょっと貸してほしいものがあるんだけど」
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