13.密会
七星列島の租借が締結された日から少し遡る。
新月の、風のない夜だった。
三方の壁を本棚で囲まれた部屋に唯一ある窓は、ほんの少し隙間があいていた。従者であるスチルマンが部屋の空気が淀むのを嫌って、いつもそうしているのだった。
表向きは。
――バサッ! バサバサッ!
羽音だった。
書斎のソファーで眠っていたスチルマンがすぐに反応し、目を覚ます。
全長三十センチほどの鳥が窓の縁に停まった。
停まったのも束の間、開けられた隙間から室内に前のめりに落下した。
床に衝突する寸前で、男の両手がからくもうけとめる。鳥はスチルマンの腕の中で警戒する様子もなく身体を任せている。疲労困憊でもう動けないようだった。
鳥はヒィヒィと小さく鳴いた。お世辞にも美しいとは言えない鳴き声だ。むしろ不気味ですらある。羽もまた、くすんだ
スチルマンはそんな醜い鳥をいとおしそうに抱きしめる。
「つらかったろう……ごめん、ごめんよ」
こらえきれず、頬を涙が伝う。自分が泣いていることに気付き、慌てて感情を制御する。悲しみに暮れている場合でもなければ、この深夜に無用な物音をたてるのも危険だった。
大きく息を吸って、吐いた。涙をぬぐう。
スチルマンは、鳥の首に掛けられた小さな籠から小瓶を取り出した。栓を開け、中の液体を野鳥に飲ませた。
変化はすぐに現れた。鳥の身体が一瞬、硬直したかと思うと、どろりとした液体に変わった。知っている変化だった。
トラ模様の羽根が液化し、均質の肌色へと変わってゆく。それとともに質量も増え、液体は床にまでこぼれて広がる。床に流れ落ちた液体の先端は二つに分かれ、次第に液体から柔らかな固体へと変貌してゆく。分かれた先端は人間の足になり、抱きしめていた液体からはいつのまにか二本の腕が伸びている。ふわりと栗色の髪が広がり、あれよあれよというまに全裸の女性へと変容を遂げていた。
「……に、いさ、ん」
鳥だった女がかすかな声で、スチルマンをそう呼んだ。
「シェリー……、シェリー……、嗚呼」
妹の名を呼び、また涙がこぼれそうになるのを必死にこらえる。
「兄さん……聞かせて。竜の腫瘍はどう、なったの?」
「竜は、手術を……手術をすることになった」
詳細は分からないがヅッソから聞いた話をそのまま伝える。ミスリルで剣を作り、それで竜の腹を裂き、腫瘍を取り除くのだと。
「……やっぱり、そうなのね」
シェリーは言った。フーゼル様の言われたとおりだった。
彼女は首にかけて持ってきた小さな籠の紐を解いた。中から翡翠のネックレスを取り出す。銀の細いチェーンの先に、球体の翡翠が付けられている。
「これを、箱組の誰かに渡すように言われたわ……」
「そうか、分かった。必ず渡す。あまり喋るな」
「ありがと……兄さん」
シェリーの身体が再び変化を始める。人間でいられる時間はわずかしかない。
そしてシェリーはもう一つ頼みごとを口にした。その内容にスチルマンの顔がにわかに硬直する。
「……お願いね」
言い終えると彼女の身体はまたたく間に小さくなり、羽毛が生え、醜いトラツグミへと戻っていった。
スチルマンが妹と別れたのは二十年前。
フーゼル率いる船団が、新大陸を目指した時のことだ。
父も母も、料理人だった。
スチルマンは当時九歳、妹のシェリーは三歳だった。
船団に必要な二十人のコックにスチルマンの両親が選ばれた。これはとても名誉なことだった。だが船の乗員数には上限があった。また、子供は女子を優先的に連れていくと発表があった。船には両親とともにシェリーが搭乗することになり、スチルマンは田舎の祖父母の所に預けられた。
翌年、新興国建国の噂を聞いた時、スチルマンは絶望した。もう一生、父とも母とも、かわいい妹とも会えないと思った。
嘴で窓をノックする渡り鳥に出会ったのは三年ほど前になる。
その日も書斎だった。ヅッソに頼まれた書籍の整理に時間がかかってしまい、なんとなくそのままソファーで寝てしまった日。首から小さな籠を下げた鳥が自分の方を向いてコツコツと窓を叩いていた。引っかかるものがあり、中に入れてやると、その鳥は嘴で床に文字を綴った。シェリー。会えなくなった妹の名だった。
「……シェリー? おまえはシェリー、なのか?」
スチルマンの問い掛けに、こくこくと頷く。首からかけた籠を外そうともがくが自由に外せない。手伝ってやり、籠を外し中を覗くと液体の入った小瓶が見えた。
「飲ませたら……いいのか?」
再び首を縦に振る野鳥。半信半疑のままその液体を与えると、鳥はみるみるうちに女性の姿へと変わった。生き別れてから十八年。二十一歳になったシェリーは幼い子供から立派な女性に成長していたが、目もとの二つの黒子、そして自分と同じ栗色の癖っ毛はあの頃のシェリーの面影を確実に映していた。
「シェリー! やっぱりシェリーなんだね!」
「……スチル兄さん? ……本当に、兄さんなの!?」
シェリーが助けを求めた相手が兄だったことは、まったくの偶然だった。
大陸間を何日もかけて羽ばたいて渡り、ようやくたどり着いた。そのまま王都まで飛び続けて必死の思いで窓を叩いた。彼女には果たさなければならない使命があった。
「……助けてほしいの、お願い」
スチルマンから受け取った毛布で裸体を隠し、シェリーは話す。自分が悪い魔法使いに呪いをかけられ醜い鳥に姿を変えられてしまったことを。助けてくれたフーゼル国王も、魔法の薬を使って短時間だけ元に戻すしかできないことを。諸悪の根源である魔法使いを倒すには百年王国の協力が必要であることを。
だが現状、二つの国はいがみ合っている。それ以前に百年王国は新国の存在すら否定している。
「二つの国が友好条約を結ぶために、力を貸してほしいの」
この際、手段は問わない。
百年王国が新興国の存在を認め、友好条約を結ぶ一番手っ取り早い方法は、百年王国のウィークポイントを掴み、脅迫することだった。
「情報が欲しいの、兄さん」
他ならぬ妹の頼みだった。スチルマンに承諾しない理由はなかった。
あれから三年の月日が過ぎた。月に一度、新月の夜にやってくる妹に、スチルマンは自分の知りうる限りの情報を流し続けた。
そしてようやく、その時がやってきた。
古代種の竜の腫瘍。
竜を盾に勢力を拡大してきた百年王国にとって、これ以上の弱みはない。
――妹の呪いを解くためなら、俺はなんだってするさ。
渡り鳥をソファーに寝かせ、スチルマンは再び心に誓った。
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