理の章

1.登山


 ヅッソは額の汗をぬぐった。

 噴き出る汗は革鎧の下布にも染み、やけに冷たく感じられる。

 十日かかると言われていた行程の九日目。疲労はたっぷりと蓄積していた。右足の痛みは治まってきたが、今度は左の膝が悲鳴を上げるようになった。腰も鉛を引きずるように酷く重い。

 だが、天候には恵まれた。雨も降らず、山道の状態も良好だった。歩き疲れ、熱を帯びた身体を風が心地よく洗ってくれた。

 見上げると、空の向こうに、天空から滝が流れ落ちているのが見える。知っているとはいえ、何もない空から水が落下してくる様子は不思議な光景だ。王都から見るのとは違い、山を登り近づくにつれて滝は迫力を増してゆく。水面を叩く音もまるで地響きのようだ。

 ヅッソの横を、荷を背負う男達が八名帯同している。

 箱組だ。

 箱組の連中はタフだった。痩身のヅッソとは違い、持ち手の付いた大きな箱を四人一組で肩に担ぎ、この険しい道のりを涼しげな顔で登っていく。

「まだ行けるかい? 魔導士さん」

 箱組隊長のモルトがヅッソに声を掛ける。

 彼の担いだ持ち手の先にカンテラが掛かっている。魔物避けのカンテラだ。

「まだ、いけますよ……あと、僕は、魔士です」

 八人いる箱組の連中が小さく笑った。

「その威勢なら大丈夫そうだな。ま、もう少ししたら休憩だ。それまで頑張んな」


 竜の異変を最初に伝えたのは、箱組だった。

 一か月ほど前の話だ。竜が鈍痛を訴えたという。右わき腹のあたりに痛みがあって、日に日に強くなっているとのことだった。

 報告を聞いて、ヅッソは天を仰いだ。

 最初に脳裏に浮かんだのは“寿命”だった。古代種の竜は、その寿命が一千年だと言われている。契約を結んでいる竜が寿命を迎える。これは王国の存亡にかかわる大事件になる。

 だがその可能性はない極めて低いと考えられた。古代種の竜が寿命で死ぬ時は、その血の魔力が枯渇し、肉体はゆっくりと枯れ木のよう変化し朽ちていくと聞いている。腹部に異変が現れるというのはどの文献でも確認できていない。

「わかった。御苦労だった。身体を休めてくれ」

 箱組を一旦バラし、ヅッソはすぐさま国王に報告した。

 現国王、ブルイック・ウェイブスは初代国王である“竜契り”ノックデュー・ウェイブスの孫にあたる。三代目の国王として長く国を治めてきた。

 国の名は“百年王国”という。

 建国の際、『我が力を以って、この国に百年続く平和と繁栄を約束する』と初代国王は言った。

 宣言の通り、初代国王は竜との契約を追い風に周辺地域を短期間で統制した。二代目は繁栄のために開墾を進め食糧問題を解決し、豊かな国へと発展させた。そして三代目は……。

「なんだと! そんな馬鹿な!」

 三代目国王、ブルイック・ウェイブスは口角に泡を飛ばし、甲高い声でヅッソに詰め寄る。

「あと三年でこの百年王国は、記念すべき生誕百周年を迎える! そんな時にかぎってそんなこと、そんなことががあってたまるか!」

「……報告だけでは詳細は分かりかねます。しかし、状態が日々悪化しているのであれば、これは一刻を争うことになるかもしれません」

 跪いたまま、ヅッソは言った。

 ここのところ三代目は、百年を迎える日のために行う建国祭のことで頭がいっぱいだ。

 新しい美術館と劇場を建設し、パレードのために道路の拡張工事まで行っている。三代目は美と芸術を愛し、一代目と二代目が大きく発展させたこの国に、文化をもたらすことが自分の役割だと信じていた。

「なんとかせい! お前がなんとかせい! このバカ者!」

 不測の事態に対し、国王は誰よりも慌てふためき、言葉を荒げた。

「もちろん、そう致します」

 目を合わせることなく、ヅッソは答えた。


 報告の後、ヅッソはすぐに旅の手筈を整えた。竜に直接会って、症状を確かめなければならなかった。休暇に入るはずだった箱組の連中を再び集めた。

 箱組は、竜の元に預けられている生贄に、物資を届ける役割を担っていた。

 生贄は建国以来、王の命により行われている竜との契約の証だった。

 今から九十七年前。古代種の竜デ・ロ・ラシュは、のちの建国王ノックデュー・ウェイブスに敗れた。

 竜は戦いの中で、致命傷となりうる傷を負った。その傷には、決して癒えることのない、時とともに傷口が深くなる呪いがかけられていた。

 傷を負ったとはいえ古代種の竜の力はすさまじいものがある。その命と引き換えに何万の人々を焼き払うこともできる。だがそれではお互いに利はない。

 かくして、竜と人は契約をした。

 竜は人を襲わない。村も国も焼かない。恵みの滝の麓で治療に専念する。

 人は竜を襲わない。手負いの竜を許し、その元に生贄を捧げる。生贄を得る代わりに、有事の時には竜は人を助ける。

 竜は契約を守り、滝壺の洞窟にその巨体を隠遁した。

 人は契約を守り、生贄を捧げ続けた。

 生贄になるのは少女だった。十三歳でその身を竜に捧げ、十九才になる前日、十八歳最後の日に解放される。六年周期で生贄は選出され、竜とともに生きるのだ。

 これまで、一六人の生贄が竜と共に過ごした。生贄に選ばれることは名誉とされ、選ばれた者の家族には多額の報償金が与えられた。また、解放された暁には、生贄には高い身分が保障された。選出は恒例行事となり、選ばれることは名誉となった。

 そして今年の冬に、一七人目の生贄が捧げられたばかりだった。


 木々の重なりが途絶え、森が突然開けたかと思うと目の前に泉が現れた。

 ヅッソの口から思わず、おおと声が漏れた。

 川沿いをひたすら登り、ようやく辿り着いた久しぶりの休憩ポイントだった。

「よっしゃー!」

 箱組の男達が、荷を置いて我先にと泉に飛び込んでいく。

「ほら、魔術士さんも」

 モルト隊長に促され、ヅッソは肩口の留め金に手を掛けた。

 ピートとノーザ、先頭の二人が歓喜の叫びを上げながら走りだし、水面に頭ごと突っ込んでゆく。オーク、ショット、キルン、グレン、スモークといった他の連中もそれに続く。

 ヅッソも歩みを速めようとしたのだが、手前の地面に崩れるように転がった。足がもつれたのだ。柔らかな草に突っ伏する。それからゆっくりと体を仰向けになり眼を閉じた。草の匂いと水の匂いに心を浸す。

「なにやってんですかい?」

「いや、すまない……足が動かなくて」

 モルトの声に、ヅッソは目を閉じたままそう答えた。

 昔から身体を動かすのは苦手だった。時折、箱組の荷に腰を掛けさせてもらいながら何とかここまでやってきたものの、毎日手足がバラバラになる思いだった。

 不意に、冷水を顔に食らった。

「うっへえ!」

 思わず声を上げるヅッソ。モルトが泉の水を浴びせたのだ。

「ははは。ほら、立ってくださいよ」

 濡れた顔を手で拭い、モルトの手を借りて立ち上がる。ヅッソは脚絆を外し、ブーツを脱いで泉に足を踏み入れた。

 水の冷気が心地よい。それだけで、すっと呼吸が楽になった気がした。大きく息を吸いこむ。

 ――いや、違う。そうじゃない。全然違う。

 ヅッソはモルトの顔を見た。モルトは自慢げに頷いた。

「この距離だと、恩恵にしっかり与れるってこった」

 モルトに促されるままに鎧を脱ぎ、ヅッソは泉の浅瀬に腰を降ろし下肢を沈めた。足を延ばして長座の姿勢をとる。

 他の箱組メンバーは、はしゃぎながら汗や土ぼこりを洗い流し、それぞれに泉の恩恵を満喫している。

 虚空から流れ落ちる滝は、恵みの滝と呼ばれていた。

 その水は大地を潤し木々を育て、全ての生命を癒すと言われている。

 滝の力は下流の王都ではほとんど感じられないが、こうして滝の麓まで来れば、その効能を顕著に感じることができるのだ。

「痛むのは、右足でしたかな」

 伸ばした足先にモルトが触れ、アキレス腱を伸ばすようにぐっと曲げた。

 収まりかけていた痛みがぶり返し、たまらず顔をしかめる。意に介さず、曲げ伸ばしを続けるモルト。するとどうだろう。あれだけきつかった痛みが煙のようにすっと消えた。まるで最初から痛くなかったかのように、見事に消え去ったのだ。

 モルトを見ると、ニヤリと笑った。

「すげえだろ?」

 自分の手柄のように誇らしげに、モルトは言った。

「あとで肩まで浸かってください。その肩口の鎧ずれもすぐに治るってこった。あと一日、しっかり頼んますぜ」

 ヅッソは頷いた。

 どうどど。どどうど。

 滝の音が響く。

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