2.診断

 十日目の朝も穏やかだった。

 恵みの滝の効用もあって、身体も軽い。右足の痛みも左の膝の違和感も綺麗に消えている。

 このままいけば、午前中のうちに着くだろうとモルトは言った。

 確かに空も滝も近い。時間をかけて山頂近くまで登ってきたことを実感する。

「ほら、見えてきましたぜ」

 出発から二時間ほどたった頃だった。

 木々がまばらになり、目の前に大きな洞窟が見えた。聞いていた通りの大きな洞窟だ。入口の高さだけでゆうに二〇メートルはあるだろう。その上には、圧倒されるほどに太い水柱が垂直に突き刺さるように落ちている。恵みの滝だ。晴天と滝の飛沫で空には淡く虹がかかっている。

 少し開けたところに出たところで、箱組が荷を下ろした。

 二つある箱のうち、一方をモルトがノックする。返事がない。

 再びノックする。しばらくするとごそごそと中で音がして、扉が開いた。

 戸の隙間からは、酒瓶が地面に落ち、ちゃぷんと軽い音を立てた。

 続いて丸い身体が転がった。文字通り転がって出てきた。

 出てきた男は上半身を起こし、頭をかきながら大きなあくびをした。

「あー……。やっと着いたか」

 しゃっくりをひとつ。頬が赤みを帯びている。

「お目覚めですか? ドゥクレイ先生」

 ヅッソに名を呼ばれ、もうひとつあくびをしてから男は立ちあがった。

 背は低く、ドワーフに見間違うほどのずんぐりとした体躯の赤ら顔。わざわざ王宮から連れてきた、竜専門の医者だ。

「んー。おはよう」

 ドゥクレイと呼ばれた男は、首のあたりをさすりながら言った。体をひねり、背中をごきりと鳴らす。

「……さてと、患者さんはどこかのう?」

「この奥の」

 ようですよ、というヅッソの言葉を地響きが遮った。大きな足音だった。

 皆が一斉に洞窟の入口に目を向ける。

 それは、現れた。

 白い鱗におおわれた大きな足が闇から出現し、長い首が地面をかすめるように伸びてくる。

 伝説の古代竜デ・ロ・ラシュ。

 ゆっくりとした動作で、ヅッソ達の前に足が踏み下ろされる。

 地面がずんと揺れる。風が舞い、髪を跳ね上げる。

「おー、さすがにでかいのう」

 ドゥクレイがその巨体に感心する。尾の先まで測れば悠に五十メートルを超えるであろう。日の光を浴びた白い鱗皮はぬらぬらと輝き、静かな黒い瞳は古代種の竜としての威厳を携えていた。

 その白い背中と右肩の間のあたりに一点、赤い染みが広がっている。話に聞いている、九七年前の呪いの傷だった。

 竜の巨体からすれば比較的小さな傷だ。決して治らないその小さな傷からは、粘性の高いどろりとした真っ赤な血液が動く度にどくどくと吹き出し、まるでたったいま斬られたかのように純白の鱗を汚している。

 その傷口の生々しさが、世界の支配者が竜から人へと移行した戦いが架空の伝承でないことを抜け抜けと証明していた。

 情報としては聞いていたものの、ヅッソは竜の姿に感動を覚えた。自分を歴史の証人にしてくれたような気がした。

 竜の傍らに、少女がいた。

 名はアイラと聞いている。昨年の選定式で選ばれた一七人目の生贄である少女は、肩までの黒髪にすっきりとした輪郭の、端正な顔立ちの美少女だった。その容姿の美しさは、彼女が生贄に選ばれたのも納得できるほどに際立っていた。ただ、その大きく愛らしい目には不安の色が見て取れた。

「はじめまして。偉大なるデ・ロ・ラシュ」

 ヅッソはラシュに竜語で話しかけた。竜語で実際に竜とコミュニケーションを取るのは初めてだ。

「今日は風が大人しく良い温度です。立派な尾をなさっていますね」

 竜語における形式的な挨拶をする。竜語は発語のほとんどがグルルと喉の奥を鳴らすようにして出すため、喉への負担が大きい。あまり長時間の対話は難しそうだった。

「……硬くならずとも良い。楽に話せ」

 ラシュは言った。問題なく通じたようだ。

「ありがとうございます。心遣い、感謝いたします」

 ヅッソは礼を述べ、概要を説明した。身体を見せてもらい、症状の詳細を知るべきだと。ラシュはこれを承諾した。皆にも竜の承諾を訳して伝える。

「わしの出番じゃな」

 ドゥクレイがずいと前に出た。

 百年王国には飛竜部隊があり、その健康管理を一手に引き受けているのが彼だった。元々は家畜の獣医だったドゥクレイは、腕を見込まれ王都に呼ばれて以来、二十年以上も飛竜を診続けている。王国一の竜の専門家だ。

「あー、そこのでかいの。ここに横になるんじゃ」

 彼は古代種の竜さえもただの患者扱いにするつもりらしい。ヅッソがそれらしい竜語に翻訳し、ラシュに伝える。

 再び足音が響く。洞窟の外に吐き出された巨体が、ゆっくりと横になり、さらなる指示で仰向けになる。

 その様を満足げに見届けたドゥクレイは、箱組の荷の中から大きな装置を取り出し、背中に背負った。装置は鈍い銀色で、細い二等辺三角形の三角柱を横に倒したような形をしていた。大きな動物や魔獣の内部の状態を、音で聴き知るための特殊な魔法装置であった。

 ドゥクレイは、装置から紐でつながった集音器を両耳に装着すると、箱組に手伝ってもらいながら竜の腹部へと登った。

「おっとと」

 崩れかけたバランスをなんとか保ち、竜の腹に張り付く。背中の装置に手を伸ばした。自分の顔ほどもある聴診器の振動板を手元に手繰り寄せ、竜の腹に押し当てる。

 押し当てたまま、ドゥクレイは目を瞑った。

 音に神経を集中させ、空いた左手も腹部に触れる。音と指先の感覚を頼りに竜の内蔵の状態を脳内に再構成する。

 人を、馬を、牛を、そして竜を。様々な生き物に触れ、診断してきた経験が頼りだった。

 皆が静かに見守る。滝だけがどうどうと鳴いている。

 ドゥクレイがようやく目を開けた。腹から降りるのを再び箱組が手伝うが、結局のところ草の上に転げた。起き上がりながらさらに竜に指示を出す。

「ちょっくら、右に身体を向けてみい」

 言葉を受けて、竜がゆっくりと右に転がり側臥位をとる。一瞬、顔が歪んだように見えたのを医師は見逃さなかった。再び腹に登る。登る段階で、竜の顔がまた歪む。ドゥクレイの脚がわき腹を圧すだけでも痛むらしかった。

「どれ……」

 先ほどと同じように、聴診器をわき腹に当てる。そのままドゥクレイは跳んだ。ずんぐりとした身体が鱗のマットに着地する。竜の巨体がびくんと震えた。グロロと苦悶の唸り声が上がる。

 乗っている医師にとって、それは小さな地震に等しい。バランスを崩して足場を失う。

 ずるりと滑り落ちるてくるのを、箱組のメンバー数人が慌てて受け止めた。

「圧痛と、振動で起こる痛みか……ふむ」

「おっさん、はやく降りてくれ!」

 考え込むドゥクレイに、医師の下敷きになって押しつぶされているモルトが叫んだ。

 ドゥクレイはクッションになってくれたモルトから重いお尻をようやく上げた。

 皆がドゥクレイのもとに集まる。

 中心には先程まで背負っていた魔法装置がある。

 銀色のそれを地面に置く。良く見ると広い四角い面の片方がガラスのように光沢のある素材でできている。

 ドゥクレイが二等辺三角形部分のいくつかのスイッチを調整すると、ガラス面に映像が浮かび上がった。

 音は物体に当たると反射して戻ってくる。それにかかる時間から距離を算出し、体内の状況を映像化することができるのだそうだ。ただし映像は鮮明ではない。白黒で、ぼんやりとしており詳細までは掴めない。だが、生き物の中がどうなっているかを熟知している人間であれば、異変を知る手掛かりになる。

「……写っとるなあ」

 他の面子にはモノトーンの残映でしかないが、医師には見えている。

「……腫瘍じゃな。おそらく腸壁かそこらに何かある」

 腫瘍、という診断に一同がざわつく。

「陰影から判断するに、これは……でかいのう。破裂したら……ただじゃすまん」

 ドゥクレイが首の後ろあたりを掻きながら続ける。

「城の飛竜どもなら手術して摘出しちまうところじゃが……さて」

 竜医師の言葉に、ヅッソの顔が歪む。

 ――古代種の竜を、手術、だと。

 王国の歴史を紐解いたところで、そんな前例はどこにも残されてはいない。

 ヅッソは静かに目を閉じた。

 どうどど。どどうど。

 滝の音が響く。

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