44.抜剣
飛び跳ねた大きな鮫。血に濡れた金属の体躯が躍動する。
その動きを見てからトリヤは動いた。
鞘に収められたミスリルの剣の柄に手を掛ける。
先に仕掛けたのは鮫の方。
だが、攻撃が先に届いたのはトリヤだった。
抜剣術、というものがある。
相手の攻撃を、剣を鞘に納めた状態から受け、いかに立ち回るかを極めた剣術である。圧倒的に不利な状況から、それを好転させるための技術であり、それは必殺の一撃を繰り出す切り札になり得るものであった。
剣を扱うには振る力とそれを制御する力が必要になる。全力で闇雲に振って当たるものではない。相手を見据え、剣の角度やブレを修正するためにも力を必要とする。これは言い換えれば剣に伝える力を分散させている、と言えなくもない。
抜剣術の中に、抜くと同時に相手を切りつける技がある。鞘がレールとなることで、刀を振る際に制御に力を奪われることなく、より強く、正確に相手を抜き打つことができる。十の力を剣に乗せることができるのだ。
トリヤは軽く屈み、鞘を左手で引き上げた。
鞘の角度を鮫の腹に合わせる。
そして鍔を弾くようにして鞘から剣を抜き、目に見えぬほどの速さで前へと突き出した。
抜き撃ち、という抜剣術の技であった。
基本にして至高。鞘を軌条に仕立てることで抜剣の速度を上げ、その勢いのままに相手を射抜く、それはまさに一撃必殺の妙技であった。
ミスリルの剣が鮫の腹を裂く。
動物を狩るとき、四肢を狙うのがセオリーだとトリヤは教わった。その次に狙うべきは腹だとも教わった。
鮫に四肢はない。故に狙うべきは腹だと考えた。
どんな動物でも、腹は柔らかく、容易く内臓にダメージを与えることができる絶対的な弱点である。
しかし、“
また、抜き撃ちは左手で鞘を支えるため片手での打撃になる。肉であれば速さでぶった斬ることができるのだが、堅牢なものであれば逆手の押し込みがない分、仕留めるには威力が足りなくなる。結果だけ見れば、剣士は“
――がすんっ!
トリヤの繰り出した剣撃は、“
だが、それだけだった。
“
トリヤが剣を引き、受けの姿勢をとる。
だがその動作よりも先に、“
――バズンッ!
突然、純白の炎が剣士の視界を横切り、“
それはクレナが十五歳になる直前の出来事だった。
魔術修練員の募集に合格し、勉強漬けの日々を送り半年が過ぎた頃のことだ。
クレナは教室で魔譜と魔創語の講義を受けていた。
魔譜とは、魔法を唱えるための呪文の書かれた譜面のことであり、すべて魔創語で書かれている。魔譜も魔創語もマーフォーク達が同胞と正しく魔法を共有するために作り上げたものである。魔創語は発語と動作の両方が同時に表される為、読解の難易度が高く、魔術修練員はその習得のためにかなりの時間を費やすことになる。
その日、講師である年配の魔導士は、単調になりがちな講義に変化を与えるために、とある魔譜を配布していた。
それはまだ解明されていない魔譜であった。
作者の名はポムペヘ。彼はいくつものトリッキーな魔法を発明した著名な発明家(新たな魔法を世に送り出した者を彼らは発明家と呼んだ)であり、また、陸上動物の熱心な研究家でもあった。尾を持ち水棲するマーフォークにとって、足という特異な部位で地を這ってノソノソと生活をする陸上生物は非常に奇異に映ったのであろう。わざわざポンプで海底に空気を送り込み、家の中で四足動物を飼うほどの傾倒っぷりであったという。その趣味が高じ、彼が学会で発表する魔譜の表紙には数多の陸上生物が書きこまれていることで有名であった。
彼の発表した百三十一の魔譜のうち、たった一つだけ、再現できない物が存在した。講師はその未解明の魔譜を資料として皆に配ったのだ。
複製した魔譜もご多分にもれず、表紙にはいくつもの陸上生物が描かれていた。
講師は配った魔譜についてこう語ったという。
これはポムペヘによって発表された魔譜のうち、唯一つ、解明されていないものである。この魔譜を再現することができれば最強の攻撃魔法を発動することができると言われている。史実によると、ポムペへがその魔法の高い危険性を懸念し、通常ではない表記の仕方をしたとなっているが、いまだに解明されていない。修練員の諸君にはまだまだ先の事になるとは思うが、こういった未詳の魔譜を解き明かすことも魔術士としての使命のひとつになるのだ、と。
その魔譜の謎を、初見で解いて見せたのがクレナであった。
クレナは表紙に着目した。
いくつも描かれた動物のうち、ある一体だけが、ほんの少し濃い塗料で描かれていた。その動物の特性を知っていれば、魔譜の謎を解くことは造作もないことであった。
その動物はマツカサトカゲという。
全長は三十センチ程度。背面は大型で逆立ったような半円状の鱗で覆われている。この鱗が松毬のように見えることが名前の由来であった。尾は太短く頭部と同じような形態をしており、このことによって外敵にどちらが頭部かわからなくなり、頭部へ攻撃される確率が減ると考えられている。
どちらが頭部か分からない構造。
クレナは教室の一番後ろの席で、魔譜の最後のページの一番下から逆向きに読みあげていった。魔譜の読み上げは得意な方だった。
なんとなく小さな声で読み上げていたのが、突然両手に魔力が宿り、熱を放った。純粋な破壊を目的とする魔法特有の、鋭利な刃物を想起させるような刺々しい感触にクレナ自身も怖くなるほどだった。
魔法の中断することは、それはそれで技術が必要だった。導いてきた魔力は正しい手段で消滅させなけれ暴走する危険性がある。未詳の魔法であるがゆえに、中断の手段ももちろん未詳。クレナは魔譜を最後まで読み上げてしまうより他に手段を持ち得なかった。
体中の血液を奪われるような感覚。エネルギーが突き出した両腕に集約されていくのだが、それはクレナの制御できる容量を超えてもなお増幅を続ける。意識が飛びそうになる。容赦なく膨張してゆく魔力がクレナの細い腕をひりつかせる。
「やっ、やべえぞっ!」
教室の誰かが言ったその言葉を引き金に、他の生徒たちは蜘蛛の子を散らすように教室から脱出した。それは正しい判断だった。年配の講師が“魔力消滅”の魔法の詠唱に入るも、クレナの手から莫大な魔力が暴走する方が早かった。
制御しきれなくなった魔力は、真っ白なエネルギーの塊となり四方八方に飛び散った。
教室の壁は万一の魔法暴走事故に備え、対魔法のコーティングが成されている。
白い熱量はその壁をウエハースを砕くかのように破壊した。
なおも放たれ続けるエネルギーが、次々と壁に大穴を開けてゆく。ようやく完成した講師の“魔力消滅”がクレナの両手から魔力を奪い去る頃には、クレナは自分の生命エネルギーをその魔法に根こそぎ奪い取られ、立ったまま昏倒していたのだった。
あれから一年半の月日が過ぎた。
クレナは未詳の魔法と向き合い、半ば自分のものにすることに成功していた。
魔譜を少し書き変え、破壊のエネルギーに炎の形を取らせることでイメージしやすくし、詠唱に集中できるようにしたのだ。大魔導師キュオリの力添えがあったとはいえ、それは魔術師としてのクレナの最初の功績となった。
破壊魔法“白き焔”。
それは、マーフォークの発明家ポムペへの産み出した最強にして究極の破壊魔法であった。
その純白の炎に燃やせぬ物質はこの世には存在しない。
たとえ魔法生物といえども、この炎からは逃れることはできない。
クレナの詠唱によって生み出された炎が、まるで生命を持つかのようにゆらりゆらりと揺れながら少女の両腕に纏いついている。
右腕に赤。
左腕に青。
その二つの炎を腕を胸の前にクロスするようにして、目の前で燃えている緑色の炎に重ねる。
光の三原色よろしく三つの炎が重なり、白い炎へと変化する。
「……ギニ、テト、ディスティリート!」
魔法を完成させ、白い竜の腹の上で跳ねる“
ごう、と空気を焼く音を残し、純白の焔が一直線に“
その純粋な破壊の熱力は、ミスリルの剣でさえ削ることしかできなかったその胴体と尾ひれを一瞬で焼き、消失してみせた。
「あ、当たった……」
クレナは魔法が成功したことに少しだけ安堵した。
だが、クレナの方も無傷というわけにはいかなかった。
こういった自分の性能を超える高度な破壊魔法をこの世界に具現化しようとすると、バックドラフトという現象が起こる。それは小さな火種が一瞬で燃え上がり爆発するように、魔法の持つエネルギーが術者に対しても噴出する現象のことを差す。
“
「……だからさ、絶対に使わないって……決めてたんだけど、ね」
肩で息をしながら、クレナは独り言のように言った。
女の子にとって、大きな火傷の痕が残ることは、世界が滅亡するのと同じぐらい大問題なのだ。
――血の海の奥深く。
それは戸惑っていた。
それは痛みは感じない。
そういう風に作られたからだ。
感じるのは――喪失感。
毎日毎日、竜の血を飲み、ようやくここまで大きく成長してきたというのに。
その半分近くを今の一瞬で失ってしまった。
それにとって、これほどの大きな喪失は生まれて初めてだった。
それは身体をくねらせるが、尾ひれを失ってしまった今、前に進むことすらままならない。ましてや奴らに反撃を試みることなどできやしない。
このままではだめだとそれは思った。
このままでは役割を果たせない。
――ならば。
変わらなければならない。
もっと大きくならなければ。
もっと強くならなければ。
皆にそう、――絶望を与えるために。
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