42.異物

「……だめ、限界」

 クレナは小さな声でそう呟くと、ドゥクレイ医師を抱えたままふらふらと緩やかに下降しはじめた。

 “飛翔”の呪文を継続するための集中力に限界が来たようだった。

 ゆっくりと地面に着地し、ずんぐりむっくりの老医から手を放した。そのままへなへなとへたりこむ。

 クレナにヅッソが手を差し伸べる。

「すまない、代わるよ」

「遅いよっ! ほんっと気が利かないんだからっ!」

 彼女はヅッソの手を借りて立ち上がり、仏頂面で膝小僧を払う。

「もうちょっとちゃんと私のこと……」

「ほれ、早く飛ばさんか。ほれほれ」

 何かを言おうとするクレナの声を、ドゥクレイの催促が掻き消した。


 ヅッソはクレナに変わって“飛翔”の呪文を詠唱し、医師を抱えて宙に浮いた。

 高度を上げ、大きな竜の腹を俯瞰する位置でハチドリのように空中停止ホバリングする。

「おーい、もう斬るぜおっさん」

 待ちかねたトリヤが片刃の剣を構えた。先程描いた青いラインは消えずにまだ残っている。

「ああ、ばっさりとやっとくれ」

 ドゥクレイは青い線と解剖図と軽く照らし合わせすぐに親指を立てた。

「っしゃー!」

 医師のGOサインを受けて、おかっぱの剣士が集中する。

 今度は薄い腹膜を残し、筋肉だけを繊維の向きに沿って切り裂かなければならない。それは先ほどよりもさらにシビアな精度を要求されることを意味する。

 もし腹膜を傷つければ血液が大量に漏れ出し、腫瘍の確認にかなり手間取ることになるだろう。特に内部で腫瘍の癒着などがあったは大量の膿汁が開創を汚染することになる。この場合、膿は血ではないのでケティエルムーンの魔法の対象外となり、それこそ取り返しのつかない事態を招きかねない。俄然、集中を高める必要があった。

 粛然とした時間が流れる。

 皆が息を飲み、トリヤを見守る。

 トリヤは目を閉じ、目を見開き、動いた。

 刃が走る。

 その剣撃は極めて素早く、極めて正確に、青く長い線を音無く撫でた。

 ちん、と鞘に刃の収まる。

 その音を引き金にしたかのように、桃色の筋繊維が狙い違わず入れられた剣筋に沿ってゆっくりと開いてゆく。

 奥には薄皮一枚残された腹膜が、黒くぬらりと煌めいて見えた。 

 剣士の一振りは、まさしく指示通りの一閃であった。

「……素晴らしいな」

 ヅッソが医師を担いだまま賞賛の言葉を吐く。

「はー、きつかったぜー」

 二度の偉業を終えたトリヤが緊張を解いて笑顔を見せ、竜の腹に座り込んだ。

 右足を延ばし、左腕で額の汗をぬぐう。

 今のところ腹膜の炎症や内部の化膿の様子は見受けられない。

 あとは腹膜の上から腫瘍を目視と触診で見つけ出し、切開して取り除くだけだ。

 順調すぎるほどに順調に手術は進んでいる。紡歌で少しロスはあったものの、時間的にもまだ余裕がある。

 トリヤの笑顔につられるように、ヅッソも少し頬を緩めた。


 ――腹膜の向こう側。

 は光に反応した。

 不意に上方が細く長く開き、光が差し込んできたのだ。

 光はにとって、久しぶりの感覚であった。

 孵化して以来、長い時間ただただ暗闇の中を泳いでいた。

 もっとずっとそうしているつもりだった。

 まだまだ栄養を摂り続けるつもりだった。

 しかし、どうやらそうもいかなくなったようだ。

 は仕方なく変化する。

 体躯を次の過程へと移行する。

 さほど時間はかからない。

 目を閉じ、十を数える間に終えるだろう。

 は自分が高ぶっていること気付く。

 高揚している。

 熱狂している。

 自分に与えられた役割が、早くも始動し始めたことに。


「……ん?」

 最初に異変に気付いたのはヅッソだった。

 腹膜の中で、何かが動いたような気がしたのだ。

 気のせいではなかった。

 それはまるで水面に映る魚影のように、開創の奥を確かに蠢いている。

 蠢く黒い影の先端が赫く輝くのをヅッソは見た。

 嫌な予感しかしなかった。

 ――ざしゅっ!

 黒い影が浮上する。影の持つ鋭利な三角形の物体が、腹膜を突き破って切り裂く。

 突然の出来事に、その場の誰もが凍りついたように動けないでいる。

 ――ざしゅっ!

 影は再び腹膜の下に潜り、再び浮上し膜を裂いた。

 何度も切り裂かれた腹膜からは粘性の高い血が一気に噴き出し、どろどろと開創を覆ってゆく。

 開創に溜まった血の中を泳ぐように、黒い影がゆっくりと往復する。

「……あ、あ」

 箱組のメンバーはあまりの衝撃に声すらまともに発することすらできない。

 トリヤだけが剣を手に素早く立ち上がる。

 そして。

 血の海を蹴り、空を舞った。

 それは姿を現した。

 全長は二メートル程度。

 姿は鮫に酷似していた。

 鋭利な三角の背びれと長く伸びた尾びれ。大きくひらかれた口には鋭くとがった小さな歯が所狭しと並んでいる。

 顔の中央に一つだけ配されたトンボのような複眼が、深い赤に染まっている。

 竜の血にまみれたボディは金属質な銀の輝きを放っていた。

 跳び上がった金属質の鮫は、大きな口を開いてトリヤに飛びかかる。

 トリヤは身構えていた。

 襲いかかってくる異様な生命体に剣を振り下ろす。

 きぃん! と金属のぶつかる甲高い音がした。

 鮫は空中で身体を捻り、背で剣先を受け流した。

 そのまま頭から落下し、血の海にざぶんと身を沈める。

「なっ、なんなんだよ今のっ!?」

 トリヤが空を見上げ、大声で叫ぶ。

 ヅッソは答えなかった。答えられなかった。

 その時にヅッソが抱いていた感情は、怒り、だった。

 現れた鮫のような生命体にではない。

 稀代にして非凡なる偉大な兄弟子、フーゼル・アードベックへの怒りだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る