41.歌声

 枯れた井戸のようだった。

 どんなに声を発しようとしてもカスカスとした空気の音しかしない。

 焦れば焦るほど、喉がぎゅっと締め付けら 苦しくなってゆく。

 視界が歪む。もう倒れてしまいそうだ。

 パティはそれでも必死に声を出そうとした。だが声は出ず、かわりに出たのは涙だった。

 あんなに毎日歌っていた筈なのに、こんな時に限って……。

 悔しさがこみ上げてくる。自分のかっこ悪さに潰されそうになる。

 ぐちゃぐちゃになっているパティの頭に、ぽんと左手を置いた男がいた。

 スモークだった。


『おばあちゃんは一生懸命に、糸を紡いだの。みんなが使って喜んでくれる顔が見たくて、毎日毎日、朝から晩まで紡いだの。でも、それを売る人がとっても高い値段を付けて売ってたの。だから悪いのは高い値段の人だけど、みんなはおばあちゃんが悪いって。金のもうじゃだって言うの』

 スモークはパティの話を思い出していた。

『おばあちゃん、いっぱいの人にいっぱい悪く言われて、歌えなくなっちゃったんだって、紡歌』

 奇しくも祖母と同様に歌えなくなってしまってパティを、スモークは助けてやりたいと思った。数日前、山に登る気持ちを失ってしまった自分を、少女が救ってくれたように。

 スモークは考える。歌の事は良く分からない。自分は山に登ることぐらいしかできない。でも、寄り添う事はできる。

「ん、んっ」

 スモークは喉を鳴らした。大きく息を吸い込む。そして声を出した。

「アーーーーーーー」

 周りの皆がきょとんとした表情をする。

 それでもなお、スモークは続ける。

「アーーーーーーー」

 パティはスモークの顔を見た。

 目が合う。

 大きな髭面の男が、不器用にウインクをしてみせる。

 ああそうか、これは発声練習なのだ。

『それでね、歌の練習から始めたの。最初の最初の呼吸の練習から。お腹でゆっくり吸って吐いて、アーっていうの。毎日毎日それやって、無理なく出来るようになったら、アーを長くしたり高くしたりするの。すっごく退屈なんだよ。したことある?』

 そう、うまくいかなくなったら、最初からやり直せばいいのだ。

 パティはごくりと唾を飲み込んだ。

 まずは練習だ。失敗したっていい。転ぶことに恐怖はない。

 顎を引く。

 肩幅に足を開く。

 頭のてっぺんから糸が出て、天に吊り上げられているイメージで。

 おばあちゃんに教わったことをひとつづつ確認しながらやってみる。

 ゆっくりと息を吸う。

 前を見る。

 みんなの不安そうな目が自分を見ている。

 でも大丈夫。ちゃんと練習すれば出来るのだ。誰にだって。ボクにだって。

「アッ……アァーーーーーー」

 スムーズに、とはいかなかったが何とか声が出てくれた。

 声が出たことで、パティの身体が心が、声の出し方を思い出す。

「アアアアアアアアアー」

 音に高低をつける。問題なし。

「アーアーアア、アーアアア、アッアッアッ」

 音に強弱をつける。問題なし。

 あんなに苦しかった喉を締め付ける感覚が潮が引くようにすうっと遠のいてゆく。

 再びスモークの大きな手が少女の頭を撫でる。 気の利いた台詞は浮かばないようで、そのままぽんぽんと二度ほど軽く頭を叩いた。

「……ありがと」

 パティは服の袖で涙を拭いた。

 そして呼吸を整える。やるべきことをやるために。

 そう、失態は取り返すものなのだ 。


 少女が歌い出す。

 高い山の山頂に、澄んだ声が響く。

 人を惹きつける、不思議な歌声だ。

 紡歌のメロディは単調だが独特の節回しがあり、遠い異国の音楽のように聞こえる。

 歌詞は交易共通語。だが古い言葉も多く、細かな意味は掴みづらい。

 糸を紡ぐはずのフィーロが七歳の少女の歌声に心を奪われる。彼女の糸や布への愛情がそのまま言霊になり、自分を包みこんでいるようだった。

 立ち尽くしている裁縫屋の肩に、モルト隊長が手を回す。

「ほら兄さん、糸、作るんだろ?」

 その言葉に裁縫屋が我を取り戻す。

「……糸は、紡ぐだよ。隊長」

 隊長の腕を優しく払い、歩きながら大きく伸びをする。

 箱の中からいくつか必要な道具を取り出し担ぎあげ、積まれた繊維の束の横に腰を下ろした。

 これからこの真っ赤な繊維を、ほぐし、梳き、揃え、撚る。

 術後に開創を縫合するための糸を紡がなければならない。彼に課された大切な任務だった。

 竜の血を変化させた繊維は、その帯びた魔力のせいで紡ぐことが困難だったのだが、紡歌の恩恵を受けることで借りてきた猫のように従順に言うことを聞いてくれる。軽く梳きさえかければすぐに撚りに移ることができるし、また、撚りを安定させるための蒸しの工程も不要だった。他の原毛と違ってゴミ取りや洗いが必要なく非常に扱いやすい。 

 ただ、巨大な竜を縫合するだけあって必要な分量は非常に多い。目の前に大量に積まれた真っ赤な繊維の山に、男は黙々と梳きをかけ続ける。

 ある程度まとまった量を梳き、それを糸車で丁寧に撚ってゆく。

 慣れた手つきで元紐の一方をボビンに結び、もう一方を赤い繊維で包むようにして繋げる。左手で繊維を手繰り寄せ、そのまま後方に引くようにしながら糸に適度な撚りをかけてゆく。

 最近は部下に任せることの多い地味な作業だが、ブランクは微塵も感じさせない。こと指先の作業に関してはフィーロは誰よりも早く正確にできる自信があった。

 歌の効果も絶大で、繊維は素直に撚ってくれる。糸車も気持ち良く回る。

 一五メートルを縫合する糸を撚るのはなかなかの重労働になるだろう。

 だがまだ縫合までには十分に時間がある。

 裁縫屋は少女の歌声を聴きながら作業を続けた。

 未詳の素材と紡歌。それには初めて服を作った時の事を思い出させてくれるような新鮮さと高揚感があった。いい気分だった。


 隊長が両腕で大きな丸を作り、紡歌と糸紡ぎが上手くいっていることを知らせると、竜の腹に乗っているメンバーにも安堵の空気が流れた。

「さて、こっちも続きじゃ続き」

 医師の再開の声に皆が頷く。

 トリヤが再びミスリルの剣を構える。

 次は腹膜を傷つけずに筋肉を繊維に沿って斬らねばならない。

「うむ、ゆくぞい」

 ドゥクレイが青いペンライトのスイッチを入れる。開創器に引っ張られ、露わになっている開創部を青い線でなぞった。

 手術はいよいよ内腹部へと進んでゆく。

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