5.溝鼠

 クレナの幼少期は、空腹だったという記憶しかない。常に飢えていたし、常に食べるものを欲していた。クレナに限らず、城壁の外側にあるスラム街の子供達は皆、そうだった。

 スラム街は、活気づいていたが、平和ではなかった。

 ケンカと窃盗が絶えずあり、普通の旅人は避けて通る。だが、ここでしか手に入らないものも多くあった。不法な売買を行う者と、それを求める者が集まり、大きな集落を形成していた。

 百年王国は壁に覆われている。

 建国初期は周辺の小国との争い事が絶えずあり、壁で国を守ることには大きな意味があった。建国王は時間と財力を注ぎ、高く強固な城壁を造った。西に造り、南に造り、それらの壁を繋いでいった。中期においても魔物の群れが押し寄せてくるような時は、高い城壁がその役割を見事に果たした。

 情勢が落ち着くと、城壁の外側に住みつく者が現れた。

 大陸は豊かな土地ばかりではない。何らかの理由で己の土地を離れ、次の住処を探すものもいる。城壁の外側の、特に川の下流などはそれにうってつけだった。

 “ゴミ拾い”と呼ばれる者たちがいる。彼らは城外の川辺で仕事をする。王国から流れてくる漂流物をザルで掬い、その中から価値のあるものを探し、露店で売るのだ。これはもう縄張りが決まっていて、“ゴミ拾い”に属していなければ拾うことは許されない。部外者が入り込もうものなら私刑の餌食となる。属さぬ者は彼らの漁りつくしたさらに下流で、ゴミのさらにゴミを漁るぐらいしか出来なかった。

 クレナは孤児であった。また、“ゴミ拾い”にも属していなかった。故に、生活は常に困窮していた。物乞いや残飯漁りで何とか糊口を凌いでいた。また、酔狂な旅人から食べ物を恵んで貰ったりもしていた。

 動くと腹が減るので、日が落ちるとクレナは地下に潜っていた。

 スラムには地下道があった。地下道がマーフォーク達の遺跡だったということは、魔術を習い始めてから知ることになる。

 地下道には城下の汚水が流れ込み、ひどく不衛生ではあったが、雨風が凌げるだけでも有り難く、孤児たちの格好の寝床になっていた。

 寒冷期に入ると、旅人も減り、恵んでもらえる機会もめっきりと減った。残飯を漁るにも競争が激しく、限界があった。

 クレナがいつものように地下道で腹を空かせたままうずくまっていると、目の前にネズミが現れた。

 何かに襲われたのか、ネズミは傷を受け、弱っていた。

 クレナは鼠の長い尾を足で踏み、捕まえた。食べられるかもしれないと思った。

 空腹を引きずったままどうにか火を起こし、ネズミの口から木の枝を差して焼いてみた。

 汚れた毛が焦げる、酷い匂いがした。

 それでもクレナは焼けたのネズミの皮を毟り取り、身に齧りついた。

 それぐらい空腹だった。空腹だったにもかかわらず、ネズミの身はドブの匂いが染みていて、喉を焼くほどに臭かった。咀嚼できずに嗚咽する。結局クレナはネズミを食べることは出来なかった。

 焼けたネズミを投げ捨て、クレナは泣いた。空腹は満たされず、心はズタ袋のように汚れ、力なくしな垂れていた。無残に焼かれ齧られたネズミの死骸は、クレナを映した鏡のようだった。悲しいという気持ちすら沸いてこない。ただただ腹立たしかった。生きるということはこんなに苦しく、空虚なものなのか。

 違う、とクレナは思った。

 当然として受け入れていた境遇に突如として怒りを覚えた。違う。違う違う。ネズミを食べようとしなければならない生活なんて、間違っている。間違っていることは、正されなければならない。

 その日を境に、クレナは変わった。

 まずクレナは人を観察するところから始めた。人を観察し、気の緩むタイミングを探した。

 見つけたのは、売買の終了のタイミングだった。具体的には、売買が成立し、お金を渡し受け取る瞬間。その瞬間、人間の視野は極端に狭くなる。また、騒動の現場もうってつけだった。ヤジ馬達はケンカや争いごとに気を取られ、ガードが甘くなる。

 クレナには、盗みの才能があった。

 盗みを行う時に一番大切なのは、ばれない事だった。ばれなければ捕まらない。捕まらなければもう一度狙える。上手くいっても慢心しない。大きな獲物は狙わない。欲張らずに頭と尻尾はくれてやる。クレナはそれが出来た。

 経験を重ねることで相手の財布の中身を予測することが出来るようになる。それによりさらに盗みの精度があがる。子供であることも相手を油断させる武器になった。

 一年を過ぎ二年を過ぎ、一四歳の誕生日を迎えることにはクレナの生活はネズミを齧った時からは見違えるほど改善されていた。公衆浴場で身体を洗い、小遣いを持って酒場に出入りもできるようになった。

 そうこうしているうちに、クレナの身体は子供のそれから変化していた。体型も女性的なスタイルになってきていた。綺麗な服を着て、伸ばした髪を綺麗に梳き、後ろで綺麗に結んでやるとなかなかに見栄えがする。薄汚れたネズミは美しい女猫に変化しつつあった。

 それ故に、盗みを働くことが難しくなっていた。狙いを定める前に、ターゲットと目があってしまったり、なんなら話しかけられてしまうようになった。酒場でも男に声をかけられることが多くなった。

 クレナにとってこの変化は、あまり良い傾向ではなかった。盗みで貯めた、いくばくかの貯蓄のある内に、次の方向性を見つけなければならないとクレナは考えていた。

 そんなある日、酒場で一人の若者がクレナに声をかけてきた。

 壁の内側の若者だった。恐いもの見たさに壁を超えてスラムにやってくることは、酔狂な一部の若者達の一種のステータスになっていた。

 若者はクレナに声をかける。無視されるが話を続ける。壁の内側の珍しい食べ物や裕福な生活を矢継ぎ早に口にするが、クレナは一向に振り向かない。

 今度、久しぶりに魔術修練員の募集があるんだぜ、と若者は言った。

 クレナの頬が動いた。若者もそれを見逃さない。俺が口聞いてやろうか? と畳みかける。

「その話、聞かせてもらえる?」

 クレナは軽く微笑んで若者とグラスを合わせた。

 闇に住む汚れたネズミに、日の当たる世界から一本の細いロープが垂らされた瞬間であった。


 少女の台詞を聞いていたかのように、ヅッソ達の足元をタイミング良くヒメネズミが横切った。

 ヅッソが怪訝な表情を見せる。――この塔の最上階にネズミ? ありえない。

 小さな白いネズミは踵を返し二人に近付いてくると、そのままクレナの足を駆け登り、肩の上に乗った。少女は動じない。少女はヅッソと目を合わせたままネズミの長い尻尾をつまみ、口に放り込む。

「おっ、おいっ!」

 ヅッソが動揺する。――あんた、ネズミ食べたことある? 少女の不可解な問い掛けが脳裏に反芻される。

 少女はネズミをしばらく口に含んだあと、長い尾を引っ張るようにして口から引き出した。

 ヒメネズミは、長い柄のついたペロペロキャンディーに姿を変えていた。

「……幻術、か」

 ようやく気付いたヅッソに、あかんべーをする少女。

「あっはっは。丁度いい、行く時はおまえも付いていけ。魔術士クレナ」

 そう、彼女は魔術士であった。

 ヅッソは幻術の出来映えから、彼女が修練員を終え魔術士の資格を有していることに納得した。

 幻術は難しい。魔法としての難易度はそこまで高くはないのだが、活用するにはもう一つの能力を必要とする。想像力だ。

 発動時には、どのような幻影を産み出すかを咄嗟に判断し、術に織り込まなければならない。

 この部屋にネズミを出現させるのであれば、赤い部屋の反射光を勘案し少し赤みを帯びさせ、なおかつ影を計算に入れ具現化する必要がある。無論、静物より動物の方がより難易度が高い。

 彼女はそれをヅッソの目の前で、術を使ったことを悟らせない最小の動きでやってみせたのだ。褐色の少女が魔術士クラスであることは、術の出来から考えれば当然だった。

「はーっ!? こんな唐変木に? 私が?」

 大魔導師の唐突な指示に、クレナが大きな声をあげる。

「良い修業になるぞ」

 キュオリに微笑まれ、少女は下を向いた。先程までの勢いが鎮火する。しばらくして小さな声で、「御意」と答えた。それを聞いて大魔導師が嬉しそうに頷く。

「お前らの事はわしから一報入れておくとしよう」

 大魔導師はまた、ふふっと笑った。

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