35.発動

 登山四日目。

 悩みのタネであった雨もひと段落し、約一日の遅れはあるものの順調に往路を進んでいた。

 パティの熱は一晩で峠を超え、翌日には平熱にまで下がり、今ではすっかり元気を取り戻している。今朝なんて、元気過ぎて毒キノコに触れそうになるのをスモークに怒鳴られると言う場面もあったほどだ。

「……山って、高いのね」

 振り返って景色を眺めながら、クレナが呟く。

 雨上がりの澄んだ視界のはるか向こうに王都が見える。平原の真ん中に築かれ繋げられた壁が、梨の実を縁取ったように歪な円を形成しているのがこの距離だとよく分かる。

「高いから山なんだよ。平地より著しく高く盛り上がった地形を山と呼称するんだから」

「はいはい」

 ヅッソの蘊蓄を軽くあしらい、クレナは再び前を向く。

 山頂に突き刺さるように落ちる恵みの滝が、小さいながらもはっきりと見える。さすがにまだ距離があり、川の水に触れてもその恩恵を受けられはしない。

 今は山の中腹まで登ってきたことになる。山はこのあたりから傾斜を上げ、さらに空へと近づいてゆく。

 ここから山頂への道は、真っ直ぐに切られているわけではない。

 箱を背負う兼ね合いもあり、あまり傾斜がきついと登るのに支障をきたす。中腹以降は西へ東へ蛇行しながら登っていくことになる。


 昼を過ぎ、一行は東向きになだらかに登るルートを歩き続けていた。

 スモークは集団の最後尾を任されていた。

 先頭は隊長が担っており、集団のペースメーカーの役割をしている。丁度、箱組の二つの箱で集団を挟みこむような格好だ。箱と箱の間をヅッソ、クレナ、フィーロ、トリヤの四人が自分たちの足で山道を登っている。医者とヤク中と子供は前方の箱の中だ。今回は山頂へ物資を届けるわけではないので三名程度であればこうして箱に乗せて運んでやることもできる。後ろの箱には手術に必要な道具や資材が詰め込んである。

 彼らの頭上に、一羽の鳥が飛んでいる。

 さほど大きくはない。

 全長は三〇センチほどで、黄褐色で黒い鱗状の斑が密にある。

 トラツグミだ。

 夜鳥であるトラツグミがこの時間帯に飛んでいることも珍しければ、渡り鳥が生活圏を離れ高所で単独で飛んでいることも珍しかった。

 トラツグミは彼らの後方に降下し、木の枝にとまる。

 野鳥の前をスモークが横切る。

 その首には女物の翡翠のネックレスが確認できた。

(……よしよし。ひとつぐらいは仕事してもらわないと)

 無論、このトラツグミはシェリーである。

 兄であるスチルマンのヅッソ暗殺失敗を受け、こうして彼らの元へとやってきたのだった。

 現在地は人里からはるかに離れた山の中腹。条件は整ったと言えた。

 シェリーは枝から滑空し、傍らの草陰に降り立ち変身を解く。

 小さな鳥の身体が一瞬硬くなる。硬直の後、身体は液体化し伸長して体積を増やす。液体は次第に人型を形成してゆく。薄汚い羽根が消失し、栗色の髪と肌色の身体を取り戻す。

 元の姿に戻ったシェリーは、草のカサカサと鳴る音が予想外に大きく感じられ全裸のまま目をきゅっと閉じた。幸いなことに気付かれた様子はなく、ほっと胸を撫でおろす。

 シェリーはもう一度ターゲットを確認すると、なるべく低い姿勢を保ったまま魔創語を小さな声で並べた。短いコマンドワードだった。あれを発動させるにはそれだけで十分だった。

 スモークの首にかかっている翡翠の玉がシェリーの言葉に反応し、鈍い光を放つ。スモークはそれに気付かない。翡翠の玉はぬるりと伸び、小さな蛇のような形になる。

 小さな翡翠の蛇は細く節のある両手を生やす。ネックレスの鎖に掴まり、揺らした反動でスモークの右腕へと飛び移る。男の右腕に爪でひっかくようにして掴まった。

 ん? とさすがにスモークがこれに気付く。

 右腕に薄緑色の細長い物体が蠢いている。

 山には毒を持ったワームもいる。慌てて振り払おうとするも、翡翠の蛇は爪を立ててこれに逆らう。そして蛇は己の身体を急速に延ばし、その身体をぐるぐると右腕に巻き付けてゆく。

「なっ、なんだよこれっ!」

 言い終わる頃には翡翠は縄のように長くなり腕に幾重にも巻き付き、そのほとんどを覆っている。爪のついた両手も伸びて指先にまでまとわりつき、スモークの右腕は翡翠ですっかり覆い尽くされてしまう。

 腕を巻きながら這いあがった尾は上腕を越えて肩まで到達している。

 蛇は針のように細く鋭く尖った翡翠の尾をスモークの頚椎へと突き刺した。

 それと同時にスモークの瞳孔が開く。肩の力が抜け、首はがくんと下を向きうなだれる。箱から伸びている棒が肩から落ち、支えを失った箱がガタンと派手に傾いた。

「おーい何やってんだよスモークの旦那ぁ」

 そう言って、同僚のノーザが冗談交じりに振り向く。その首に翡翠をぐるりと纏った腕が伸び、すごい力で締めあげる。

「あ……が……」

 人間離れした怪力にノーザは呼吸をすることができない。

「何やってんだよ!」

 同じく後方の箱を支えていたグレンが大声で叫ぶ。

 一同が一斉に後ろを振り向く。

 彼らが見たのは異様な光景だった。

 目の焦点の合っていないスモークがノーザの首を右腕一本で締め上げ、持ち上げているところだった。

 ノーザの顔はもうすでにチアノーゼを起こしており、紫色に変色し口から泡を吹いている。

「放せよおっさん!」

 真っ先に動いたのはトリヤだった。

 斜面を駆け降り、その勢いでスモークに体当たりをする。

 スモークの巨体もこれにはさすがに耐えきれず、バランスを崩して倒れる。その衝撃で右腕がノーザの首から離れた。だがノーザは舌をべろりと出したまま動かない。

「んだよその腕っ!」

 トリヤがスモークの右腕の翡翠に気付く。

 スモークがゆっくりと起き上がり、その腕が今度はトリヤに迫る。

 掴みかかろうとしてくるのをしゃがんで避け、右に転がる。

 瞳孔の開いたままのスモークがトリヤの方を向く。角度が変わり、ヅッソにもフィーロにもスモークの薄緑の右腕がはっきりと見えた。

「ヅッソ! なんだよありゃ!」

 フィーロが叫ぶ。

 だがヅッソは首を横に振る。まだあの右腕の正体を見極められない。

 その叫びに反応したのはスモークだった。

「……ヅッゾォ? ヅッゾオォォ! ゴロズゥ!」

 唸るような恐ろしい声だった。

 開きっぱなしの瞳孔が魔術士の姿を捉え、人間離れした速さで一直線に向かってゆく。

 箱組の連中もクレナもフィーロもその突進に対し、避ける以外の術は持ち合わせていない。

「ゴロズ、ゴロズゥ! ヅッゾオォォォ!」

 唸り声とともに振り上げられた右腕がヅッソに振り下ろされる。

 ――ギィン!!

 派手な金属音が響いた。

 草むらから飛びだしてきたトリヤがその右腕を剣の背で流したのだ。

 翡翠に覆われた右腕はミスリルで出来た刀身とぶつかり、僅かながらに火花を散らした。

「まじかっ!?」

 思わずフィーロが声を上げる。

 火花が出ると言うことは、あの翡翠の右腕は“竜斬”を付与され強化された刀身を削るだけの魔力と強度を持ち合わせていることを証明していた。

 つまり、真正面からやり合えば、剣が折れる可能性があるということだ。

「トリヤ、逃げろ!」

 フィーロが再び叫んだ。ここまできてミスリルの剣を失うわけにはいかない。

 とりあえずフィーロはヅッソを抱えるようにして森の中へ逃げ込んだ。他のメンバーも山道を離れ木々の間に身を隠す。

 ドゥクレイとケティエルムーン、それにパティは置き去りにされた箱の中で、息をひそめている。事態は把握できていないが彼らにはそれより他に方法がない。

 箱の先にかけられた魔物避けのランタンには、ちゃんと火が灯っている。

 この光源の元では、デ・ロ・ラシュより力の劣るあらゆる生命体から攻撃を受けることはないが、人形ゴーレムやその他魔法生物クリーチャーについてはその対象から外れることになる。メドゥーサの石化が肉人形フレッシュゴーレムに効果を及ぼさないのと同じ理屈だ。

 ゆえにスモークを乗っ取った翡翠の魔法生物クリーチャーは、ランタンの光が届く範囲でも、殺意むき出しでヅッソや他の人間を襲うことができるのだ。

 翡翠の右腕と対峙しているのは、トリヤひとりである。

 フィーロには逃げろと言われたが、そういうわけにもいかなかった。もし自分が逃げて、奴が箱の中の三人に気付く様な事があれば万事休すだ。

 ただ、事態を収束させる手段はまったくないわけではなかった。

 スモークを斬ってしまえばいい。

 だがトリヤにその選択ができるわけがなかった。元より人間を斬った経験などない上に、彼は大切な仲間なのだ。

「……これってめちゃくちゃヤバいってこと!?」

 剣を構えたままトリヤが後ずさる。

「ゴロズゥ……ヅッゾォォ」

 悪夢のような右腕が再び剣士に襲いかかる。

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