34.発熱
再び雨に見舞われた。
登山開始から二日目のことだった。
初日の霧雨とは違うしとしとと降り続ける地雨であった。夕方から降り始めた雨が次第に強さを増し、足止めを余儀なくされた。
モルト隊長の判断の元、進行を断念しルートを西向きへと変更した。野営のためであった。そこには過去にも何度か使っている洞窟があった。
箱組は基本、野営の準備についてはスモークに一任している。適当な場所を確保し大きなテントを張り、見張りを二人立てて交代で休息を取るのがいつもの流れだった。テントは大きく多少の雨であれば十分にしのぐことができた。
今回、時間的に遅れることになるルートを選択せざるをえなかったのには二つの理由があった。
大人数のためテントを三つ張らなければならなければならず、悪天候の中でそれだけのスペースを確保できる見通しを立てられなかったこと。
そしてもうひとつ。
パティが熱を出したのだ。
洞窟は天井が高く、雨風を凌ぐにはうってつけだった。
雨の勢いは次第に増してきている。この様子なら明日の朝までは続くに違いない。時間的なロスを受けることになっても隊長がこの洞窟での野営を選択したのは正解だったな、とスモークは思った。
スモークは荷を解き、テントの設営を開始した。
屋根のある場所でもテントは張る必要があった。冷えから身を守るためである。冷えの要因は地面と風である。野営において、この二つから身を守るためことが重要だった。
テントで風を防ぎ、マットで地面の冷えを防ぐ。
スモークは淡々と設営を進めてゆく。
「手伝うよ」
モルト隊長がスモークに声をかける。
「大丈夫ですよ。ゆっくり休んでて下さい」
スモークはぶっきらぼうにそう答えた。機嫌が悪いわけではない。笑顔を作ったり愛想を振り撒いたりするのが苦手なだけだった。
隊長はそうか、ありがとうとだけ言って、皆の所へ戻っていった。
ここまでの道中、少女を背負って歩き続けたのは隊長だった。疲れもあるだろう。それを労う気持ちはあるものの、うまく伝える方法をスモークは持ち合わせていない。
そんな野暮ったい男の話を嬉しそうに聞いてくれる女のことをスモークは思い出す。
酒場であった栗色の髪の女。
スモークはテント設営の手を休め、首にかけた翡翠のネックレスに触れる。その女性からの貰い物だった。
山から無事に帰ってくるためのお守りだと彼女は言った。
もう一度会う約束はしなかった。山男とはそういうものだとスモークは思っていた。無事に帰って酒場に顔を出す。運が良ければまた会えるだろう。
「……約束、しとくんだったな」
柄でもないことを呟き、一人で赤面する。
それをごまかすように軽くストレッチをしてからテント設営を再開した。今日は三台も組まなければならない。なかなかの重労働だ。
夜になってもやはり雨は止まなかった。
洞窟の外ではざあざあと音を立て降り続いている。
「……ごめんなさい」
パティは言った。
テントの中、マットの上に横になり毛布に包まっている。
「目が覚めたのね」
傍らのクレナがそれに答える。
同じく毛布に包まりながら、うまく眠れずにいたのだった。
二人には小さなテントを割り当てられていた。見張りの順番も彼女らには回ってこない。箱組とヅッソとフィーロで回す予定だった。
「……ボク、みんなに迷惑かけてる」
少女は小さな声で言って毛布に潜った。自分が体調を崩したせいで皆の足手まといになってしまったことに責任を感じていた。
「しょうがないじゃない。ちゃんとあったかくして寝て、早く元気になることね。失態は取り返すものよ」
クレナは甘やかすようなことは言わない。いや、甘やかされたことがないからその術を知らないと言った方が正しいかもしれない。
パティは小瓶をぎゅっと握りしめた。
工房を見学した際に、フィーロから貰ったものだった。
中には藍色の染料が入っている。
フィーロに初めて出会った時の立体裁断のズボン。その糸の染めに使われていた美しいインディゴブルー。工房でずっと眺め続けていたら分けてくれたのだ。小さな硝子の瓶に入れてもらった。栓をして針金で括ってあり、ひっくり返してもこぼれないようになっている。以来、紐を付けて首から下げてお守りのように肌身離さず持っている。
パティはふーっと息を吐いた。自分の呼気が熱い。でも一番酷い時よりは幾分かましにはなってきている。
「……しったいを、とりかえす」
毛布の中でクレナの言葉を自分に言い聞かせるように呟く。
工房の見学の時、フィーロは自分の事を子供扱いしなかった。理解できるできないにかかわらず聞いたことは丁寧に説明してくれた。子供だと思ってはぐらかしたり面倒くさがったりしなかった。一人の大人として扱ってくれた。ならば自分も大人にならなければならない。
姉の元を離れ、パティは自分が違う場所で違う空気を吸っていることを日々感じている。
夏の日のツタのように、少女は急速に成長する。
テントの外。
ヅッソとフィーロの二人に見張りの順番が回って来ていた。
二人は魔物避けのカンテラを挟むように座り、小さな声で話をしている。
「……じゃあ、どこかで仕掛けてくるってことか」
フィーロの台詞にヅッソが無言で頷いた。
新興国の王、フーゼル・アードベックについてだった。
どこからか竜の腫瘍の情報を知り、船を出してまで王国に揺さぶりをかけてきたのだ。竜の手術を行うに際し、このまま安穏と見過ごしてくれるとは到底思えなかった。
ヅッソが真っ先に思いついたのは、何者かがメンバーの誰かと入れ替わって潜入している、だった。
“完全変化”の魔法が使えるのであれば、他人にそっくりに化けることは容易になる。フーゼル側に腕の立つ魔術士がいるのであれば、潜り込ませ、妨害を企てることも可能になる。ミスリルの剣を盗み出すことも考えられるし、テントの中など魔物避けのカンテラの範囲外であれば殺害もできるはずだ。
「……でもそれ、ちょっと無理がないか?」
ヅッソの仮説にフィーロが難色を示す。
見た目をそっくりにしたところで、どのくらい人を騙せるものなのだろうか? 習慣、癖、過去の記憶などを徹底して受け継がない限り、その言行には看過できない不自然さが付き纏うに違いない。
魔法で他人に化けて登山生活を行い寝食をともにするリスクは、そのメリットに対してあまりに高すぎるように思えた。逃げる手段やその他のリスクヘッジを考えても“完全変化”での潜入は 愚策とすら言える。それだったら出発前に街中で仕掛ける方がまだましだろう。
「……だとしたら」
一体どうやって……。
ヅッソの疑問にフィーロは答えようもない。
見えない敵に不安だけが募る。
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