斬の章
32.霧雨
初日は雨であった。
箱組の連中は手慣れた様子で長旅の準備を行っている。いつものようにばらした箱を手際良く馬車に積んでゆく。
ヅッソが空を見上げる。
灰色の雲が空を覆っている。今朝から降り続ける雨のせいで遥か山頂の滝の様子はここからでは確認できない。
雨は細かな霧雨であった。
だんだんと暖かさを増してゆくこの時期に見られる特徴的な雨だった。
「こんな日に限って雨だなんて……」
クレナがぼやく。お気に入りのマントが濡れてしまうのが嫌なのか、早々に馬車に引きこもっている。
「仕方ないさ、天候には逆らえないよ」
ヅッソが口をとがらせている魔術士に声をかけて気遣うが、返ってきたのはあっかんべーだ。
山の麓までは四台の馬車で送ってもらうように手配した。
診断を行ったあの一か月前の登山よりもメンバーが増えたからである。
箱組の八名、ドゥクレイ医師に加え、裁縫屋フィーロ、少年剣士トリヤ、幻術士クレナ、元魔導士ケティエルムーン、幼き紡ぎ師パティ、そして宮廷魔術士ヅッソ。総勢一五名の大所帯となった。
嫌な時期になったな、と箱組の隊長であるモルトは思った。
雨の事だった。雨の山は難しい。
そもそも山の天候は変わりやすいので雨に降られること自体は珍しいことではない。だが振り続ける雨は厄介だ。登山ルートを難解にし、登山者から体温と気力を奪ってゆく。
テント係のスモークも頭を悩ませていることだろう。この状況で一五名分のテントを設営できるだけのスペースを確保するのはなかなか骨の折れる作業になりそうだ。
スモークだけでなく他の連中にも負担を強いることになる。雨でぬかるんだ山道を箱を担いで登ってゆくのはかなりの苦行になる。しかも初心者を何人か引きつれてである。食料の調達や体調の管理も難しくなってくる。
まあそれも山か、とモルトは思った。
思い通りにならない。一筋縄にはいかない。だから山は山なのだ。
裁縫屋は糸車を馬車に載せながら口笛を吹いている。
旅立ちの日に雨が降るのはいつものことだった。
雨は世界を濡らし、色を変える。
どこかに出かけるのに雨はうってつけなのだ。
フィーロは大きなつばのついた真っ赤なハットを下から指で跳ねた。
水滴が躍る。口笛が鳴る。
ドゥクレイは馬車の中で酒をちびちびとやっている。
往復で二十日間の長丁場である。酒瓶の中の液体は減りこそすれ増えることはない。いささか寂しいが節約は必要だった。
瓶を傾けながら、あれだけの巨大な竜を手術するのはおそらく世界初じゃろうな、とドゥクレイは頬を緩める。
初めて飛竜を開腹したときもかなりの騒動になった。騎士団の連中を説得し、書類をいくつも書かされた。成功した時の連中の掌を返したような態度が愉快だった。医療とはそういうものなのだ。
腫瘍が良性なら手術自体は単純なものになる。あとは血と皮膚と大きさの問題だけだ。ただし、炎症でも起こして癒着したりしていたらまた話が変わってくる。こればっかりは腹を開けてみなくちゃわからない。
楽しみだな、とドゥクレイは思う。
分からない、というのは彼にとってはとても楽しいことなのだ。
トリヤは剣に手を延ばす。
鞘から少しだけ抜き、刀身の輝きを見つめる。
とうとうこの日がやってきたな、とトリヤは思う。
稽古だけはずっと欠かさずにやってきた。
走り込みとスクワット、素振りだけでなく老師の行っていた一六種類の型を全部やっている。そして大事なのは木登りだ。木登りはいい。腕も手首も足も背も腹も全部いっぺんに鍛えられる。
竜の皮膚を斬るには速さが必要だとヅッソからは言われている。
それは正直やってみなくちゃわからない。
トリヤにとっては伝説のデ・ロ・ラシュに会えること自体が嬉しくてしょうがなかった。
ここ数日の王国での暮らしで世界の広さを知った。街には人が溢れ、様々な場所から色んなものが集まっている。
世界を知りたい。トリヤは純粋にそう考えるようになっていた。
高い山に登り、でっかい竜に会い、誰もしたことのない手術を手伝う。
最高じゃないか。
ちん、と微かな音を立てて剣は静かに鞘へと収まる。
彼の期待と幸甚とともに。
ケティエルムーンは飢餓状態にあった。
せっかく手にしたキスメアはフィーロに取り上げられ、一日の使用回数が決められてしまったのだ。
“竜の血を繊維に”を成功させてからというもの、毎日のようにキスメア漬けになっていたケティエルムーンは三日目にとうとう起き上がれなくなった。それをフィーロに助けられた。以来、彼のケティエルムーンへの態度はいっそう厳しくなった。手術を成功させるまでは依頼主として管理させてもらう、と一喝され、せっかくの大量のキスメアは今、フィーロの管理下にある。
手術さえ終われば好きなだけ吸える。
それだけがケティエルムーンの希望であった。
朝一で一回吸わせてもらった。次は昼過ぎだ。
彼に出来るのはその時が来るのを馬車の中でただじっと待つことだけだった。
もう、雨だなんて……。
クレナは馬車の中でまだ愚痴をこぼしている。
雨は嫌いだ。
スラム街で暮らした過去を思い出す。
旅人が減り商いも早く仕舞われ上がりが少なくなる。地下道も湿度が上がって寒くても暑くても不快になる。いずれにせよ良い思い出がない。
今日だって、せっかくのお気に入りのマントが水を吸って重たくなってしまった。髪も濡れ、褐色の頬に張り付いている。
それでも今回の手術に着いて行きたいと言ったのはクレナ自身だった。
後学のため、再び兄弟子に同行させてほしいと師に自ら申し出たのだ。クレナはそれを言った自分自身に驚きを隠せなかった。
大魔導師キュオリは理由を問うこともせず、ふふっと笑って快く送り出してくれた。
――王国の命運を賭けた大手術に立ち会いたかっただけよ、きっと。
クレナは膝を抱え、目を閉じた。
パティは連ねられた馬車に胸を躍らせていた。
一番前の焦げ茶の馬車馬が、濡れた鬣をぶるぶると振るう。
それを見てきゃっきゃとはしゃぐ。
「あまり濡れると風邪引くぞ」
フィーロに言われ馬車の中に入るが落ち着かず、すぐに顔を出す。
馬車の屋根からぼたたっと水滴が落ちてパティの髪を濡らした。
それさえも可笑しい。きゃははと笑う。
がたん、と不意に揺れた馬車に小さな身体がころりと転がった。
馬車が動き出したのだ。
――旅が、始まる。
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