31.前夜
パティは眠れなかった。
ピカピカの大理石の床。大きな出窓。
ふっかふかのベッドに、妙に大きな枕。
王都に連れてこられ、王宮で寝泊まりするようになって二日目の夜だった。
初日こそ旅の疲れもあり勢いでそのまま眠ることができたものの、今日に限ってはちょっと難しそうだとパティ自身も感じていた。
一向に眠気がやってこない。そもそも目が閉じようとしてくれない。
衝撃が凄すぎたのだ。
見学させてもらったフィーロの工房での光景が頭から離れない。
フィーロの工房は、紡績、糸染め、織り、裁断、縫製までを一手にこなす大きな工房だった。広いスペースに所狭しと資材や織り機が並んでいる。染料の独特の匂いが鼻を刺激する。
工房では三〇人ほどの従業員が作業をおこなっていた。糸を紡ぐ人、染める人、布を織る人、裁断する人、縫製して服にする人。たくさんの人が働いていて、フィーロはそれを総括している。広い工房内を常に歩き、指示を出し、秒単位で目まぐるしく仕事をこなしてゆく。
それだけではなく、打ち合わせや企画会議もあるらしく、ひっきりなしに出入りするよくわからない人たちと話をする。とはいっても堅苦しいものではなく、笑ったり、怒ったり、相手を褒めたりすかしたりしながら必要な素材を手配し、新たな契約を交わしてゆくのだ。
パティはそんなフィーロの後ろをひたすらついて歩いていた。歩きながら目に耳に飛びこんでくる膨大な量の情報に、ただただ圧倒されていた。
糸は太さや色でいくつもの種類が並べられていて、その量に思わず息を飲む。染めの種類も多く、専門の職人たちが糸をどんどんと染めて干してゆく。布を染める技法もあり、一枚の白い布を半ばまで青い染料に漬けることを繰り返してグラデーションを描き、春の空のように染め上げる技法なんてもう本当に魔法のようだった。
そんな中、パティが一番びっくりしたことがある。
上着のデザインの話を取引先の経営者と詰めていたときのことだ。
「二号の織り機、ストップだ!」
フィーロはテーブルに広げられた布地を確認しながら、織り機を一切見ることなくそう言った。
即座に織り機は止められ、工房内がにわかにざわつく。
「糸が違う。確認しろ」
フィーロがそれだけ言うと先方との談話を再開する。
しばらくすると、織り機を使っていた従業員がフィーロの元に謝りにやってきた。指示と違う番手の糸を使用していたのだそうだ。
なぜ彼は見もせずに糸の違いがわかったのか?
パティはその疑問をフィーロに問わずにはいられなかった。
「そりゃわかるさ」
フィーロの指がパティの耳に触れる。
「糸が違えば、すれる音が違うのさ」
彼の耳は、この喧騒にまみれた工房の中で、がしゃがしゃと派手な音を立てる織り機から聞こえる微かな糸擦れの音を聞き分けていたというのだ。
「……!」
パティはその時の驚きを的確に表現する言葉を持ち合わせていなかった。
ベッドを抜けだしたパティは、寝室のドアをそっと押してみた。
家のドアと違って、音もなく開いた。
広く長い廊下には誰もおらず、しんと静まり返っている。
一部屋だけ、ドアの隙間から光が細く漏れている部屋があった。あそこまで行くには暗い廊下をかなり歩かなければならない。
ごくりと唾を飲み込む。
(おばけとか、いないかな……?)
そんなことを考え肩を竦めるも、恐怖よりも好奇心のほうに軍配が上がる。
パティはゆっくりと足を前へと進める。こつんこつんと小さな足音が廊下に反響する。
だんだんと細い光の元へと近づいてゆき、とうとうドアの前まで辿り着く。
そのドアは少し、開いていた。
パティが隙間から覗くと見覚えのある痩せた背中が見えた。本棚から本を取り出そうとしている。二冊ほど取り出して机に戻る。
やっぱりヅッソさんだ。パティは少し嬉しくなった。
馬車が苦手な魔法使いのお兄さん。口下手で面白い人。
パティは扉を静かに引いてみた。机に向かっているヅッソは案の定、彼女に気付かない。
ちょっと思いついて、パティは足音を立てない様に静かに部屋に入った。そのままそろりそろりと机に近付いてゆく。
ヅッソは彼女に反応することなく、本に目を落としている。軽く頷きながら羽根ペンに手を延ばそうとしたときにパティは大きな声を出した。
「わっ!」
驚いた魔術士は羽根ペンを取り落とし、バランスを崩して椅子ごと後ろに転倒する。その様子にきゃはきゃはと少女が笑う。
「ど、どうしたんだいこんな夜中に?」
身体を起こして椅子を元に戻し、打ち付けた後頭部に手を当てながらヅッソは言った。
「ヅッソさんは何してるの?」
パフィが机を覗きこむ。本にも紙にも難しい文字が並んでいる。彼女は読み書きはまだ少ししか出来ない。
「これは記録を残しているんだよ」
ヅッソは、竜の腫瘍発覚から今日までの出来事について紙に綴っていたのだ。
「こうして書いて本にしておけば、読んだ人が物事の詳細……あ、えっと、詳しいことを知ることができるからね」
「でも、お話ししちゃえばいいんじゃないの?」
パティが疑問を口にする。どうしてわざわざ本にしなくちゃいけないのか彼女には理解できなかった。
「別にそれでも構わないよ。でも本にしておけば、十年経っても百年経っても、たとえば僕が死ぬことがあっても情報が残る」
「うん」
「そう言う意味では君も情報の媒介として、あ、いや、んー、運び手? いや、えっと、おばあちゃんの歌を、おばあちゃんが死んじゃっても君は歌えるよね?」
「うん」
「でも君が死んじゃったら誰も歌えなくなっちゃう」
「ボクが死んだら……」
「あ、いや、そうじゃなくて。君は本と同じぐらい素晴らしい……いや、違うな」
「時間のこと?」
「あ、それだ。そうだよ。そういうこと。本にしておけばたくさんたくさん時間が経ってもちゃんと伝わるってことさ」
「本て偉いんだねー」
「君も大きくなったら、おばあちゃんの歌を本に書くといいよ。
「でもボク、字が……」
「勉強すればすぐに覚えられるさ。歌より簡単だよ」
パティが眉を寄せ、困ったような顔をする。どうやら読み書きは苦手のようだった。
唐突に睡魔がやって来て、彼女の口から欠伸が吐いて出る。
「ほら、もう寝なきゃ。部屋まで連れて行くよ」
「はあい」
良いお返事をした後、パティはもう一度大きな欠伸をした。
ヅッソは彼女と手を繋ごうとして、躊躇って、やっぱり手を繋いで書斎を出た。
ランタンを手に深夜の廊下を歩く。二人の足音だけが暗闇に響く。
「明日からは当分山登りだ。大丈夫かい?」
「うん。だいじょうぶ」
村では山は遊び場であり生活の場だった。不安はない。
客人用の寝室に辿り着くと、ヅッソはパティをベッドに促した。
少女は横になるなり目を閉じ、すやすやと寝息を立て始める。
「……でも本当に、君がいてくれてよかったよ」
独り言のように呟き、しばらく彼女の寝顔を眺めた後、ヅッソは部屋を後にした。
書斎に戻り、羽根ペンを手に取った。
明日にはもう出発する手筈になっている。
再び山頂へと向かい、巨大な竜を手術する。
この先、何があるか分からない。今日までの事をなるべく書き記しておきたかった。できるだけ感傷的にならず、あった事実をそのまま文字に書き起こしてゆく。
ドゥクレイ医師の診断に始まり、大魔導師キュオリの助言を得て竜斬とミスリルの剣を手配した。早い段階でそれを扱える辣腕の少年剣士に出会えたのは僥倖だった。マーフォークの湖底図書館では必要な資料を手に入れることが出来たし、新たな壁であった血の問題も、天才魔術士”歪め屋”ケティエルムーンとの契約、
――あとは実行するのみだ。
不安はある。だが怖気づいたところで意味がない。
心のざわめきを落ち着かせるように、羽根ペンで紙にインクを乗せてゆく。
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