メーヘレンたち

@teiya

第1話

   メーヘレンたち




まったく馬鹿らしいと思ったよ最初は。でも他に縋りつけるものが何もなかったから仕方なく、それを五回読み通して、面倒だと思うことはすべて排除しながら、こうして漫喫のパソコンでこの文章を書いてきたのだけれども、それはただの暇つぶしであって、いや「人生は暇つぶしだ」ってどこかの落語家が言っていたことを思い出しながらこの文章を書いてきたのだけれども、ああ隣から嗚咽、飲み過ぎて終電を逃したどうしようもないようなヒューマンビーイングたちが発する音で眠れもせず、溜息をついたら、その音が何だか異様にこの場に馴染んだような気がして、何度も何度も故意に溜息をついていたら、「うるせえんだよ」って怒鳴る声が角の方の部屋から聴こえてきたというのはどうゆうことなのだろうと、今のは自分宛ての言葉だったのだろうかと、一応溜息を止めて訝っていると、然り、それは自分宛ての叱りだったようで、なんて綴るばかりで暇つぶしの文章も書くことがなくなってきたのは明らかなので、久方ぶりにフェイスブックにアクセスしたら、大野木がバンドを始めたとかいって、どこかのライブハウスで撮ったらしい出演者全員らしい写真をアップしていて、あいつは働くつってメーヘレンズをやめたくせにそうして新しくバンドをやっているのに加え、何よりも、見たこともないような満面の笑みでカメラを覗きこんでいるのが気に食わない。「いいね!」97件。なんだかとことんメンバーの近況を調べてやりたい気持ちがふつふつと湧いてきて、今度は池原のページを見てみると、昇格しました、なんてスーツ姿で何を讃えているとも知れないぺらぺらの賞状を大事そうに抱えている。莞爾と笑い、「いいね!」が141件もついている。何がいいんだ。工藤はというと、子どもの写真ばかりアップしていて、それも、頬を擦り寄せたり、高く抱え上げたバックに太陽、挙句の果てには、一緒に目を瞑って家族三人で眠っている写真なんてもんまであるが、撮影しているのだから本当に眠っている訳がなく、作為が見え見えで気色悪いこと甚だしい。どれもこれもありきたりな親バカを露呈してるだけなのに、こちらは「いいね!」が56件。友達の少ないあいつにとっては記録更新ってなとこでありましょうか。

ふと思うた。自分が近況をアップしたらどれだけの「いいね!」がもらえるだろうか。そこで、ろくに風呂にも入れずニキビの増えた顔を撮影して、シャッター音にヒューマンビーイングの咳払いを浴びせられながら頑張ってアップしてみたが、一時間たっても二時間たっても一向に「いいね!」がつかない。頑張ったのに。

 


 ♪



おい、まじかよ。満員電車のおっさんの脇の下で、河野翔平は、充電切れのiPodに気づき、思わず言葉を口にした。隣のおっさんは怯えたようにチロリと横目で彼を一瞥し、わたくし脇臭いますか、とでも思ったのだろうか、1ラウンド目のまだセコンドに忠実なボクサーのように脇を締め、窓に映る自分のフォームを確認する。何度も。また、ほら。窓のなかで視線が交わる。怯えたように俯くのはおっさんの方。慣性で身体が動いても、脇の隙間は開けないように心掛けているようで。

「ちげえよ」

今度はわざと言葉を声に出した。いらつきから生まれた言葉のはずなのに、愛のあるツッコミのような半笑いの態。自分の声など聞きたくない。

河野はこの三年と少し、何の努力もなく最終学年まで進み、通学中にはいつでもiPodで音楽を聴くようにしていた。それは不変な習慣であった。儀式と呼ぶ方が適している気がするほど、だ。

だって家に忘れて取りに帰ったことが何度もある。或いはそのまま帰ったことも何度もある。後者の方が多い。

一日の始まりに聴くのは、悪魔を憐れむ歌。『ベガーズ・バンケット』。河野のiPodにはアルバム一枚しか入っていない。これしか要らないからだ。これがあれば十分だからだ。それ故に彼のiPod Classicはいつでも腹を空かしている。申し訳ない。誠にもってごめん。

儀―式儀式……儀式……、あれ?

とうとう見切りをつけられたのだろうか。iPodが反応しない。

今思うとこれが全ての始まりであった。

そうか、そうだ。

次の駅に停車すると、彼は揺れる身体を利用しておっさんの腕を内側に押し込んだ。よく頑張ったなと、ゴングの後、コーナリングで肩を叩くトレーナーってな感じで。激しめに。そんな彼の思いも虚しく、おっさんの表情には、的外れな緊張感が増しただけであったが。

降り、キオスクで携帯の充電器を購めた。予期せぬ千円を超す出費は、アルバイト嫌いの彼にとっては手痛い出費であるのに関わらず。

「あ、レシートいいです」

「あ、そのままでいいです」

発言のタイミングを見計らうためか、河野はいつでも見知らぬ人に言葉を発する時、最初に「あ、」を付ける癖があった。地声が小さい彼は、今から喋りますということをそうして相手に示さなければ、気付いてもらえないとこに二十三年生きてきて重々知っていたのである。

電車で早速、開けにくくて仕様がないプラスチックのケースを無理やり破った罰としての指からの流血には目も向けない男、を心掛けながらも、裏腹に動く二つの目を自分とは関係のない器官だと信じこんだところでやっと、コネクターに充電器を差し込んだ。左頬に生ぬるい風。ちょうどやってきた相も変わらずの向上心のない満員電車に乗り込み、電源が入るのを待ったが一向に画面が光らない。とうとう空腹に耐えかねて開き直ったのか。

あ、発狂したいなと思ったが止めた、というのも隣が長身の美女だったからで、彼は自分が小柄だからであろうか、無い物ねだりで長身の女性を好んだ。電源の入らないiPodと静かに格闘しながらも大学最寄りの渋谷駅につくことができたのも、長身美女のお陰でなんとか気を紛らわすことができたから。

ありがとう。

例によってこのまま帰ってしまおうかと思ったが、そうもいかないのは、今日は名前を書くだけでほぼ百パーセント単位がもらえる、頂ける、「存在論入門」のテストがあるからである。「存在と時間は素晴らしい著書だと思います」と書いただけで最良の評価がもらえた人がいるという逸話すらある。彼はそれを信じる。都合のいいことだけを信じて生きるのが、人間の自然のあり方である。

残念なことに満員電車を出ても満員は続く。いつでも街もが満員なのだ。どうしてこうも人は一箇所に集まりたがるのだろうか。邪魔だよ邪魔。人の海人の海人の海……、なんてちんけな表現の内側で、河野は自分もまたそのなかの一人であることに気づかず、雑踏の中では誰も気に留めないことをいいことに言葉にならない音を吐露しながら、んぜんぜ宮益坂を駆け上った。途中下車のせいで時間がない。迫る。テストさえ受けりゃ単位をくれるくせに、あの教授は頑なに遅刻だけは許さない。その頑固さが、あの教授を悪い意味で有名にしたほどに。走る。運動不足の彼にとっては難行苦行、あらかた祟りである。駈ける。鞄を肩に掛ける。テスト用紙に名前を書ける。書けるか賭ける。なんて落語「代書屋」のさげに逃げても、笑えやしない。

正門をくぐり、二号館の前で時計を見るとちょうどぴったんこ試験開始の時間であった。なんとか間に合った。んぜ。河野は安堵しながら教室の扉に手を掛けたが、あれれ開かない。押してダメなら引いてみろって、どう見ても引き戸を押してみても開かない。はーん、鍵が閉まっているらしい。教室を間違えたか、冷や汗を拭う間も無く、背伸びして隙間から室内を覗き込むと、唯一友人と呼んでもよいであろう工藤の姿が目に入った。こちらに気づいて笑いを堪えている。ふむふむ確かにここであっているが、他に講じるべき手段も見当たらず河野が何度も扉にチャレンジしていると、「うるさいですけど」という甲高い声。でました。この声のせいで気持ちの良い居眠りにさえできないんだよね、いつも。とともに扉が開き、教授がひょっこり顔を覗かせた。

「だめだよ、あなたは遅刻したの。だめ。言ったじゃない遅刻は一番だめなの。だめ」

こいつはいつでもゲイのような粘っこい喋り方をする。

「そこをなんとか」

「いいえ、だめ。ぜったい。だめです」

激昂してきた教授は最後にきっぱり言い切って、扉を締め、抜け目ないね、がちゃりと施錠までしたのであります。キャラに固執することが己の存在意義のようで。

最悪であった。どう計算しても一つ落とせば単位の足りない河野にとって、無機質な施錠音は警報そのもの。朝から嫌な音しか聞いていないんですけど。

iPhoneが鳴った。ポーンと鳴った。これまた好きな音ではない。感情のない人をなめたような音だから。

〈なんというか、残念だったね笑〉

工藤からだ。どうして遅刻はだめで試験中にメールするのは良いんだかわからねえよ。なんというか理不尽じゃんか。なんというかと言うまでもなく理不尽じゃんか。

河野は工藤の試験、うん、そうなんだよね、〝工藤の試験〟が終わるまで仕方なく図書館で眠ることにした。三階の窓辺に仮眠をとるのに最適なふかふかなソファがあるのだ。ソファというよりソファーと言いたくなるようなソファがね。河野はもうどうでもよくなっていた。乳酸を溜めながら三階まで階段を上り、歩きがてらに適当な本を手に取って、沈み込むようなソファに座ると、沈み込んだ。というのは比喩でもトートロジーでもなく、真に沈んで込まれたって意味で、いや何をそんなに熱弁しているの、ってだって本当に沈み込んだからなのだよ。こうして語尾を優しくすれば誠意が伝わるかな。伝わるよね。あの教授みたいな粘り気を排除したさらさらな優しい口調でさ。

ソファの上で脱力し、目を瞑ると重力が狂い、沈み、光の透けた瞼の裏で踊るカラフルな泡を追いかけていると、泡が高速で遠ざかり、吸いこまれるように、すっぽりソファの中に落ちたのであった。ソファがV字に折れ曲がり、床の中に突き刺さったんです、って供述した、ってな感じで。





どこで生まれたとかいつ生まれたとか、私は何も知らないのです。いいえ、そうゆうんじゃなくて。だから違うって。お前もそうでしょう。みんな知らないのです。怖いよね、怖い。何が一体本当なのか、知りもしないのに信じているのだもの。はあ、ってそんな魂を抜かれたときのような音ださないでよ。お前その音聞いたことあんのかよ。ない。知りもしないのに信じるってのはさ、そりゃあもう宗教みたいなものなのに、あれ、みんな無宗教って言ってよね? 友達みんな。工藤も池原も、就職するっつってバンドを辞めた大野木もね。辞めたかどうか確定してないはずなのに、みんな、「辞めたんだよな?」って訊くと寂しそうに頷くんだなあ。ありゃ見てて面白くなるよ。まるで獅子舞を脱いで置いた時のような首の動作でさ。末期みたいなんだ。何が一体本当なんだよ。一体本当、字面が気持ち悪いね。バランスが悪い。リズムが悪い。

一体何が本当なんだよ。

多少まし。

「キレるなよ」

「私は別にキレた覚えは御座いませんけれども、とりあえず早くリフを作れよ。そうしなきゃ歌えないじゃん」

「だってなんか同じようなもんしか思いつかないんだもん」

ああ確かにお前の作る曲はいつもキーがAで、それ故にお前はいつもネックの真ん中らへんを押さえているね。そうしなけりゃ首が折れ曲がってしまうかのように。レスポールはそんな獅子舞みたいにアンバランスじゃないんだよ。

声が声にならずに鳴っている。空気を揺らさず鳴っている。

「聞こえないよ」

そりゃそうだろう、この声が住む世界にお前はいないのだからね。入れるなら入ってみろよ。いいやお前が入ってこれないことぐらい、指の動きを見てればわかるさ。脳からの信号で動かしておりますみたいな動きだもんな。前から言おうと思ってたんだけどさ、小指をもっと使ったらどうだい、四弦を小指で押さえる訓練が足りないんだよ。鍛えな。楽器屋に行けばちょうどいいの売ってるから。なんか一見握力つけるような器具で、指力、っていうのかなあ、指を鍛える器具。それが億劫なら移植しな移植。その小指を全指に移植しな。ってかその汚らしい爪切れよ。

「いや一本しかねえから」

そんな堅苦しいことばっか言っちゃって。少なくとも右手にもう一本あるじゃんか。何指と交換すんだ、って、そりゃ薬指だろ。お前、そこばっか使ってんだから。

一番動く指を取り替えるなんて嫌だよ。短けえし、小指。

泣くなよ泣くな。弦が錆びるだろ。てかもう錆びてんだよね、手汗が凄いんじゃないの?

「いや褒めてねえって」

指の背で拭うな拭うな女々しいから。マスカラもしてねえのに。マック買ってきてくんねえか。いやLだろ、一個で分けりゃいいじゃん。ほら指に塩がつけば涙も拭えなくなるだろうし。いやそのためじゃなくて、食べたいから買ってこいっつってんだよ。

「明日卒業出来るなんて清々するよ」

お前それ本気で言ってんのか? ってこのやり取りオードリーの漫才みたいじゃんか。そんでさ、それを言うなら、①清々するよ②明日卒業出来るなんて、の順にしてくれないかな。そっちのほうが卒業に対する清々感が伝わるからさ。

できりゃあ何も話したくないんだよね、さっき言ったでしょ? あの世界のなかでは喋る必要もないんだ。というか空気が振動しないから喋っても意味ないんだよ、凄いよな。そう、これは褒めのほうの凄い。

「日本語って難しいね」

「ただの言葉だろ?」

「お前の蒸発した涙で喉が潤うよ。ありがとう。歌には蜂蜜入れた紅茶がいいんだってさ。昔なんかのテレビでライブ前のスマップが飲んでるの見たし」

「それ手本にするやつ間違ってねえか?」

「いいんだよ。紅茶、紅茶」

「池原、こいつが言いたいのはつまり、紅茶買ってこい、ってことでそれ以外にはなにもないんだよ」

「さすが言わずして分かるね。音楽の趣味が合うだけのことはあるよ。まあこちとらメロコアだけは好かないけどね」

「メロコア馬鹿にすんな。てか喋っちゃ意味ねえんだろ」

「まあな」



昔この星に人間て奴らが住んでたらしい

お互いの意思を伝えるものを言葉っていうらしい

身体に巻いてた蚕の糸を服っていうらしい

頭は良かったのに考えることは馬鹿だったらしい

絶滅

地上に現れて消えてった

絶滅

地球に厭きられて捨てられた

何かを求めて頼りにしたものを銃っていうらしい

骨になってまで握られてたものを金っていうらしい

結局は自分のことそれしか考えてなかったらしい

絶滅

地上に現れて消えてった

絶滅

地球に厭きられて捨てられた

最後の最後に見つけたものを愛っていうらしい



ハーモニカでチロチロとね、横に振るんだ、顔は横に。ノーと言えるなあ、日本人なのに、とかなんとか思いながらね。

「マックはどうした?」

「お前が歌い始めたんだろ」





はるか頭上で床が閉まると、音のない街に紛れ込んだ。河野は宮益坂をダッシュしている。大学の奴らはみんなこれを宮益ダッシュと呼んでいる。宮益ダッシュなう。なんてツイートをよく見る。でもそれって嘘じゃんか。走りながらツイッターするかね? 普通。しないよなぁ。

遠くで消防車の音がする。あれれれ音が聞こえ出しちゃった。慌てることもなかったろうが慌てて耳をほじろうとすると、ただ単にヘッドホンをして音が聞こえなくなっているだけであった。ノイズキャンセリングしちゃったんだね。してくれたんだね。ありがとう。でもヘッドホンからは何にも流れていない。走りながらポケットからiPodを取り出してみると、電源が切れている。画面が光る気配は、―ない。

大学に入ると図書館の前で人だかりができている。生き倒れだろうか。いや違う。その奥、人だかりの背景に三階の窓から、黒い煙がチンアナゴのように立ち昇っている。火事火事火事火事、四方八方からそれ以外忘れてしまったかのように、同じ言葉が聞こえてくる。

消防車の音が近づいてくる。

「おい、河野」

背後から工藤の声。

「火事だってさ。でもよかったな。お前テスト来てなかったろ。中止だってさ、中止。あの先生がまたちゃんと時間とって試験するとは考えらんねえし、みんなに単位くれんじゃないかなあ。代わりにレポートとかにして」

「うひょーだな」

「うひょーだろ」

彼の思考が不協和音で無理くり作られたグルーブのようにこんがらがった。本が燃えるぱちぱちという音が間を縫う。不快。頭痛が痛い、なんて言ってしまうほどに不快。もう一度iPodを確認した。真っ暗な画面があるだけだ。あの火事のなかに投げ込んだら目を覚ますだろうか。河野はポケットにあっても邪魔なだけなそいつを鞄に入れた。その時、鞄に本が入っていることに気がついた。あの時図書館で手に取った本だ。これこそ燃えるべき本であったのではないか。何の思い入れもなく河野は一冊の本を救ったことになった。なんだか笑けてきた。

「どした」

「いや別に。さて、どうすっかねえ、スタジオでも行くか」





みんなだせえと言った。河野と同じ意見だっが、好き嫌いは分かれるようだ。彼にはそれが不思議でならなかった。それはみんなの服装を見ればわかる。どこかに確かな共通点のある、どこかの雑誌で見たことのあるような格好だらけだ。いやそんな格好しかない。河野はお洒落には無頓着だった。というよりお洒落という言葉に出来るだけ接近しないことが河野の最大限のお洒落なのだ。(あれれ、自分もお洒落になってしまっている。なんてことに気付いたのは、これを読み返している今になってからであります。)

卒業式には行かなかった。理由は単純明快で、卒業できなかったからである。留年が決まると、河野はその日のうちに中退届を提出した。もう少し止めてくれてもいいと思ったが事務員は淡々と処理をこなした。悔いは何もなかった。寧ろ一つの窮屈な、大学生という枠から抜け出すことは快感ですらあった。しかし問題がないわけではない。

まずのしかかったのは両親にどう話すかという問題だった。時がなんとかしてくれるだろう。そう思い、その通りになった。河野は親に、アルバイト先であるビジネスホテルに就職したと嘘をつき、彼らはそれを疑わなかった。姉は夢がある訳でもなく海外で暮らし(後に彼女は、海外での留学を活かし、日本の化粧品会社に就職するが、当時、傍から見れば流浪しているようにしか見えなかった)、弟は芸人になると言って、ちょうど河野の留年が決まった頃に、養成所を卒業した。そんな娘、息子だらけだからであろう、一流企業とは言えないビジネスホテルへの就職を、寧ろ両親は喝采した。その日の夜、「祝」のチョコがついたケーキの画像が送られてきたほどに。

電話で就職を伝えた後、実家に戻る気にはならなかった。どんな顔をしていればいいのか分からないし、何より、実家というのは、親の脛を齧っている人間が、何を言っても無意味で、自分の存在価値を見失ってしまうのだ。バンドで飯を食っていこうと考えているときに、自信を喪失させてくる空間に出向くことは、余程のことがない限り避けなければならなかった。

問題はそれだけではない。就職を伝えると、両親からの仕送りが途絶えた。河野は、間もなく引越しを強いられ、家賃四万五千円の四畳半に住み移った。持ってきたものは、日用品に加え、高価なものはギターと、音楽編集ソフトが入ったノートパソコンだけであった。学生時代に買い集めた本やCDは全てまとめてブックオフに売ったが、三日分の食費程度にしかならなかった。自分が心底好きなものたちが、こんなにも安価に売り払われることを知り、今から自分が売りだしていこうと考えているものに、どれだけの値打ちがあるのだろうと、心底不安になった。それでも河野にはバンドしかなかった。そう思っていた。やりたいことはそれだけで、毎日早朝に起きて、スーツに着替え、ぺこぺこ新入社員を演じることだけは、想像するだけでも耐えられなかった。

そして一番の問題は、池原と大野木である。

バンドにとって、この二人、即ちリズム隊の脱退は、バンド活動を休止するしかほかになかった。

二人はともに、一般企業に就職した。池原は介護用品を扱う営業マンとして、大野木は誰もが知る大手食品メーカーに職を得た。大野木は慶応ボーイだからであろうか(偏見でしかないねこりゃ。全然だめじゃんか。)、就活が始まると、それまでですら顕著であった音信不通を貫き、喧嘩もできないほど静かにバンドを抜けていった。それに対し、池原の就職は予想外であった。

 「一番阿呆なお前が仕事するとはね」

 「いや働きはするけどバンドは続けるよ」

 三人でスタジオ練習を終え、その帰り道、河野は別れたばかりの池原に電話した。

 「お前は要らない」

 ただそれだけ伝えて、切った。ぷつり。

 こうして、メーヘレンズは河野と工藤の二人になった。

 工藤は銀座のカフェでアルバイトを始め、そのスタンスは幸い、バンド十割で、働くことへの関心など九牛の一毛たりともないとのこと。一人になることだけは避けなければならない。河野は池原が抜けたその日から、工藤のことをそれまで以上に気に掛けるようになった。工藤が作った手癖だらけなリフにもギターの持ち方にも一切文句は言わなかった。

 メンバーを集めよう。

 確かに今考えればその言葉が最初にあるべきだった。でもあの頃の二人は、暗黙の了解で、バンドメンバーに関する話はしなかった。したくなかった。

 それでも一人になると、河野はメンバー集めのことばかり考えては焦りを募らせた。

 助言を求められるのは安達さんだけだった。バイト帰りに新宿のライブハウス「マディサウルス」に行くと受付にはガタヤマが退屈そうに座っていた。河野とタメのPA見習いである。

 「ひさしぶり。ちょっと安達さんと話したくてさ。今日いる?」

 「いらっしゃるよ。ただ今まだライブ中だから、ちょっと待たないと話せないと思うけど。見てけば? 今日は、トリのピリ辛マー坊のドウフってバンドがやってるよ。けっこうシンプルなバンドだから、河野も好きだと思うよ。メーヘレンズと比べるとちょっと静かだけど」

 「ふうん。いや、でもなあ、金使いたくないし」

 「……しょうがないねえ。五百円でいいよ。おれが何とかしとく」

 「悪いね」

 河野は通常三千五百円のところ五百円だけ払い、ドリンクチケットを受け取って中に入った。

 ステージ上では、この日のメインでトリのピリ辛マー坊のドウフが演奏している。フライヤーかなにかで名前だけは見たことがあったが、曲を聴くのは初めてだった。シンプルというガタヤマの言葉通り、簡単なコードに、無理のない脱力系のボーカル、エイトビートに矢鱈と歪ませたベースが絡んでいる。

幸せそうだな。嫌味ではなく、バンドメンバーがしっかり揃っている彼らをみて、河野は無意識に独りごちた。

 客入りは決して良いとは言えず、足の指まで使えば数えられるほどであった。

 慣例としてのアンコールを終えた後、その日の出演の全てが終わった。

 事務所に居るという安達さんのと話すため、ドアをノックした。

 「おう河野君やないか。あれ、マー坊のドウフと知り合いやったっけ?」

 「初めてみました。たまたま寄ったらやってて」

 「調度ええな。今度対バンさせようと思ってたんや。メーヘレンズと相性よさそうやし」

 ロック好きなら誰もが知るメジャーバンドでギタリストを努めていた安達さんにバンドの名前を覚えていただいているだけで、河野は恐縮した。恐らく自分が有名だとかメジャーの経験があるとかいうことは、この人にとって何でもないことなのだろう。

 「珍しいな。自分出えへんのに来るなんて」

 にやけながら嫌味を込めた調子で安達さんは言うが、河野には全く嫌な気がしなかった。

 「メーヘレンズの件で話があって」

 「なんやねん。らしないなあ、堅苦しいわ」

 「いや、バンド二人辞めたんです。なんていうか、就職とかで。そんでどうしよっかって今なってて。さすがに二人じゃバンドできないですし」

 似合わないと言われた河野は、できるだけ安達のイメージに添うように、堅苦しくならないように心掛けた。

 「ほう」

 「ほう、って」

 「そんなんようある話やん。それにバンドってな二人でも十分できんねん。まあ、自分が話したいことはそこじゃないんやろうけどな。で、誰が辞めたん?」

 「ベースとドラムです」

 「あらま。まあ二人でやらへんなら、探せばええやん。曲作る奴となると厄介やけど、あれやんな、自分作ってんやろ。そんなら簡単やんけ」

 安達さんが言わんとしていることはすぐにわかった。この言葉を聞きたくてここに来たのかもしれない。

 「いやあでもいい人いなくて」

 「まあ焦るなって。まだ学生やろ」

 「卒業しましたよ。まあ、正確に言うと卒業できなくて中退したんですけど」

 「ははははは。そりゃらしいわ。そんなら、やりたいこととちゃうかもやけど、弾き語りせえ。バンドの前座みたいになってまうけど、そんなかでメンバー探したらええやん。空いてる日ぃ、ブッキングしよか」

 「弾き語り……ですか。やったことないっすよ」

 「できるて。普段のを二人でやればいいだけやん」

 「はあ。まあ来月ならいつでも予定合わせられます」

 「そうこなあかん」

 話はとんとん進み(ブッキングマネージャーである安達にとってはただの商談に過ぎなかったのだろう)、来月の土曜日に弾き語りの予定が入った。その日のうちに工藤に連絡し、後日スタジオでアレンジをすることになった。

 河野は帰途、電車のなかで口ずさみながら、iPhoneのメモに歌詞を書き、家に帰ると、早速弾き語り用の曲作りを始めた。常にオンにしていたエフェクターを切り、クリーンでSGを鳴らす。楽器本来の音のはずだが、今ではこちらのほうが新鮮に感じられる。



 絵画を見るように雑踏を眺め

僕の居る街が僕の居ない街に

本当も嘘もどこにもなくて

ただ良いように信じてるんだろう

暗闇に火を灯し笑い合うことが

出来る気がしてコーヒーにミルク

入れてみたけど変わらなかった

黒から白には変わらなかった

まるで下手くそな夢の国

心通わぬ夢の街

さあさあさあみんなで

真っ白な絵具手にとって

描き直してみよう

乾くまで時間は掛かるけど

乾くまで時間は掛かるけど



 こうして『夢の街』というアコースティックな曲が完成すると、慣れないホルダーにハーモニカを挟み、Soundcloudに録音・アップして、URLを工藤に送った。間もなく返信が来た。返事の内容は見るまでもなかった。工藤はいつでもワンクリックばりの感覚で「いいね!」というに違いなかった。否定的なことは一切言ってきたことがない。いままでこうして曲を作ってきて、例外は一度もないのだ。河野にとっては非常にやりやすく、申し分ないのだが、あまりにいつも肯定ばかりで、工藤は無理して趣味を合わせているんじゃないかと、不安を抱かずにはいられなかった。



 弾き語りライブは適温の風のように過ぎた。興味の湧かないバンドの前座のような形で、客足もまばらな状態のまま、感覚としてはスタジオで練習しているような気分で演奏した。工藤が慣れないディレイを使い、必要以上にゆったりとしたテンポで四曲。出来は良かったが、誰も自分たちのことをパンクロックバンドのメンバーだとは思わなかったであろう。河野は客席から、また安達さんから褒められれば褒められるほど、遣る瀬無い気持ちになった。

 「俺がやりたいのはこんなんじゃない」

 帰り道で河野は工藤に言った。バンドでライブをした後とは比べ物にならないほど、体力があり余っていた。好きなことをやって心地よい疲労感のある帰り道の方が、ずっと足が軽い。レスポールを背負う工藤よりも、いつもの鞄にハーモニカしか持っていない河野の足のほうが引き摺っていた。

 「でも楽しかったじゃん。褒めてもらえたし」

 いつもの楽観主義を徹底して工藤は言った。楽しいことは素晴らしい。蓋しその通りだよ。でももっと楽しいことがあるのに、努力を怠って中途半端な楽しさで満足している工藤に苛立った。いいや、俺も変わらない。今日の弾き語りをやろうと言ったのは自分なのだ。結局俺も同じじゃないか。

 河野はその場で立ち止まった。この状態でいくら前に進んでも、辿りつけるのはたかが知れている。豆乳プリンのような柔らかいだけの場所だって。

 「おれ、ちょっと寄るとこあるから」

 行くあてもないが、河野は独りになりたかった。このまま工藤といては口論になってしまいそうだった。今は癇癪を起してはいけない時期なんだ。

 家に帰る気も起らず、その日は漫画喫茶で頭に入ってこない漫才を見て寝た。




 

 工藤がユリと付き合ったのは、大学二年の秋。夏フェスで顔見知り程度であったユリを見つけると、吊り橋効果だろうか、二人はすぐに打ち解け、惹かれ合った。

 ユリは工藤の周りには珍しいバンド好きで、それが幸いして、ネット配信が主軸の音楽番組を制作する会社に就職した。

 大学時代のスターバックスでのバイト経験を活かし、工藤は銀座にある小洒落たカフェで働くようになったが、それがユリには気に食わなかった。

 一浪しているユリは同級でこそあれ工藤の一つ上で、二十四歳。結婚を考えずには人と付き合えないと言った。工藤はみんなが就活をしている間、ユリに適当な嘘をついて、就職する気がないことを隠していた。

 その嘘が時間とともに露わとなると、ユリは河野に連絡をよこした。

 〈どうにかしてよ。〉

 様々なメールが河野に届いたが、言いたいことを要約するとそれだけだった。初めのうちは就職するように説得してと言っていたが、次第に工藤が就職しない理由を河野のせいにするようになった。

 「あのさあ、あいつが決めたことなんだよ。彼氏の決めたことに賛同できないなら、別れりゃいいじゃん」

 直接話を聞いてほしいと言われ出向いたファミレスで、河野は激高し、ユリは唇をケチャップ色に染めながら涙を浮かべた。

 その夜、ユリはコンドームに爪で穴を開けたらしい。

 次の日も、そのまた次の日も。だという。

 それを知ったのは随分後のことだ。今となってはどうでもいい。



「どうしよう」

 工藤が河野への電話は初めてのことだった。工藤はいつでも河野の後ろへ回り、自分からものを言うことはなかった。

 ユリの陰謀が成功したことを伝える電話に、何も知らない河野は呆れるしかなかった。

 「どうすんの」

 「どうしよう」

 五音の応酬が続いた。

 工藤が結婚すると言う出すまで、時間は掛からなかった。

「おめでとう」

 それはメーヘレンズが一人になることを悟らずにはいられない賛辞であった。

 バイトしかやることがない日々が河野から正気を拭っていたころ、弟の修斗からメールが届いた。

 〈今日ネット番組に出るから見てよ。投票式でこれで勝ち上がれれば、テレビに出れるの。投票はクリックするだけだから〉

 修斗は高校の同級生とコンビを組み、一年間の芸人養成学校を卒業した後、数々のオーディションを受けながら、夢追い人として順風満帆に見える日々を送っていた。

 その日もまたバイトであった河野は、夜勤の前にパソコンを持ち、職場の近くのマックでその番組を見た。

 修斗はスーツで漫才をしていた。何やらお決まりの、掛け合いがあった後、バンドをやりたいという話になる。

「何をよ? ほら、あんじゃん色々と、パートが」

「そりゃやっぱりフロントマンでしょ」

「ほう、つまりボーカルだと」

「左様左様」

「お前こないだカラオケ行ったらジャイアンレベルだったくせに。なら何か歌ってみろよ」

修斗は咳払いをして腹の前で手を組む。

「ほーたーるのーひーかーりーまーどのゆーきー」

キーが出鱈目だ。修斗は真面目に歌えばそこそこ上手い。「チョイス! 蛍の光って、チョイス!」

選曲のことばかりで的外れなツッコミが飛ぶ。

「まま、歌なんて下手でもいいんだよ。楽器はある程度弾けなきゃならないけど」

「ボーカルってのは自由な身だな」

「そうでもねえよ。ボーカルにも楽器が必要でね」

そそくさとポケットからハーモニカをとりだして、口に添える。

「これ、ハーモニカ」

「見りゃわかるよ」

「いやだからこれだって」

「だから見えてるって」

「ちげえよ。これ全体。おれ全身。おれ全部がもう楽器。こうして口にもってくるとね、シャキーンって、ほら」

「困ったねこりゃ。相方やめようかしら」

「ほれ、早く抓めよ、ほれ」

顎で乳首を示す修斗。

困惑の表情で相方が修斗の乳首を抓る。

「目を覚ませぇ!」「ピーーーーー」

相方の一喝とハーモニカの音が重なる。

その後、捩りに応じて修斗はハーモニカの音色を変えていく。相当練習したのだろう。綺麗にベンドを鳴らす。

「こりゃ驚いた」

相方が言う。

「…………」

目を見開いたまま放心する修斗。

「おい、どうした」

 相方が肩を叩くと修斗は固まったまま倒れた。

「大変だ」

 あたふたした後、思い出したように人工呼吸を始める相方。

「ピーーー ピーーー」

口に息を吹き込むたびに修斗の身体から音がする。

客席の方を大袈裟に振り返って相方が一言。

「ハーモニカになっちゃた! って! ボーカルは!」

 何が面白いのだかわからなかったが、客席は受けているようだった。

 彼ら、コールドターキーズの漫才の後、何組か芸人がでてネタを披露した。どれも箸にも棒にもかからない陳腐なネタばかり。

 全ての出番が終わり、投票タイム。

 河野はネタも憶えていないコンビに投票して、パソコンを閉じた。その大小に関わらず日の目を見る弟に、そうして好きなことを人前で披露できている彼らに嫉妬して。

 バイト先に行くと、退屈なことだらけだ。もうかれこれ三年以上このホテルでバイトをしている。河野は夜勤で、することといえば、残り少なくなった客のチェックインと、本社への報告、事務的な処理、帰り際に眠い目を擦りながら数十人のチェックアウト。いつだってその繰り返しである。

 それでも朝が滅法苦手な河野にとって夜中に働けることと、夜勤手当によって時給が良いことだけは救いだった。

 就職しないということを知ると、支配人は河野に社員になることを勧めた。三年以上バイトで働いていると、特別に最終面接だけを課し、それを通れば社員登用へ到る、なんちゃら制度があるとのことだ。何度も誘いを受けるが、彼はその度に「ありがとうございます」と適当な笑みを浮かべるだけで、話を進展させようとはしなかった。当然だ。やりたいのはバンドだけ。



一体何の為 働いてるの 一体何の為 働いてるの

やりたいのはバンドだけ やりたいのはバンドだけ

一体誰の為 働いてるの 一体誰の為 働いてるの

やりたいのはバンドだけ やりたいのはバンドだけ

君を抱くよりも気持ちいいバンドだけ

やりたいのはバンドだけ



 帰り道、鼻歌から新しい曲が出来た。頭のなかで数えると、コードは四つだけ。

 もともと難しいコード進行や音を多用した複雑な曲には興味がないが、それにしても酷い歌詞。酷いよこりゃ。

 ふとステージの上で漫才をする弟の姿を思い出した。

 弟がああして人前に出て、自分がこうして地団太を踏むばかりなのは当然のことなのかもしれない。





 工藤が職を得るには、簡易的な履歴書とともに二度の面接をするだけでよかった。面接官は、工藤が結婚するということを伝えると、どうやら断りきれなくなったようで、当日に言ってはいけないはずの採用結果を、ドアノブに手を掛ける工藤の耳にささやいた。

 こうして工藤は喫茶店の正規社員となった。月給二十万円にも満たなかったが、ユリと共働きをすればなんとかなるはずだ。

 休憩時間には子どもの名前を考えた。

 ユリは二人の名前からとって、翔(しょう)李(り)はどうかと提案したが、勝ち負けにこだわりだしたらよくない、と工藤が断った。

 何を聞かそう。音楽による胎教には意味がないという話を専門家がしていたことをテレビで聞いたことがあるが、工藤はベビーベッドの横にラジカセを置く姿を思い浮かべた。なぜだか時代遅れなラジカセが、それには最適のように思えた。

 「ビートルズを聞かせれば愛のある子に育つんじゃない?」

 「ユリはビートルズを知らないね。ジョンレノンは今人のイメージばかりだけど、それは彼の一面でしかないんだよ。これ知ってる?」

 工藤はiPodをスピーカーに繫げ、『コールド・ターキー』を流した。

 「これはね、直訳すれば『冷たい七面鳥』。ヘロイン中毒の禁断症状を歌ってるんだ」

「翔李がヤク中になったら困るわ」

ユリは真顔でそんなことを言った。どうやら彼女のなかでは既に子どもの名前は決まっているようだ。

「そういえば、河野君ってヤク中みたいな目してるよね」

ユリは急に河野の悪態をついた。

「ひどい物言いだな。あいつは煙草しかやらないよ」

「煙草も薬物みたいなもんじゃない」

「まあね。でもじゃあさあ、煙草は認められてて、大麻が認められてないのっておかしいと思ったことない?」

「そりゃラりるからでしょ」

「大麻はそんなに身体に悪くないよ。煙草よりいいっていう論文もあるぐらいだし」

「じゃあなんで」

「大麻って吸うとやる気がなくなるんだ。だらーんって」

ユリはただ頷いて続きを待った。

「アメリカの陰謀なんだよ。あれ吸うと戦争もやる気起きなくなっちゃうから」

「ふうん」

「そうだ。こりゃいいよ。子どもの名前、タイマにしよう。平和な子が育つよ」

「冗談はよして」

「ビートルズを聞かすなら、それも同じようなもんだろ」

 ユリは呆れたようにiPodを手に取り、カーペンターズを流した。

 

 

 河野のiPodは依然として壊れたままであった。それでも念のために鞄のなかに忍ばせていたが、直ることはなかった。

 自然と街の音を聞く羽目になった。

 河野は大学時代に「サウンドスケープ」に関するゼミに所属していた。直訳すると「音の風景」。風景を意味するランドスケープという単語を元にした造語である。

 ゼミではよくフィールドワークとかなんとか言って、街の音を聞きに行った。そうして聴こえた音をリストにする。街には、人の歩行音や、車のクラクション、街頭演説、スクリーンから流れる広告、鳩の羽音、怒声、嬌声などが溢れ、その全てが研究材料となった。渋谷のスクランブル交差点に立ち聴こえてくる音といったら、せいぜいそんなものだ。

 「どんな音が聞こえましたか」

 教授が訊く。

 すると、同じ音たちを聞いていたはずなのに、各々、全く違うリストが出来上がっている。人の感覚なんて適当なもんでありますなあ。河野がこのゼミから学んだことはそれだけであった。要は取捨選択。無意識にそれを繰り返すのが人間なんだ、それしかしてないのが人間なんだ、と。鼓膜の振動という物理よりも、そのなかから何を選ぶかという心理が全てなんだ、と。

 あいつは結婚を取って、バンドを捨てた。

 成り行きに任せて生きる。それが彼の座右の銘であった。けど、バンドだけは捨てないよ。



 なんて素晴らしい構造だ

勝手に脚が前に出る

なんて素晴らしい転び方

勝手に腕が前に出る

仲間になろうよ今日ここで

扉は風が開くだろう

納豆食べるか食べないか

粘々させて感じよう

その時が来ればその場にいるもんだ

いつだって成り行きに任せよう

今日も成り行きに任せよう



 退屈な音風景をバックに、一年ほど前に作った歌が頭のなかで鳴りだした。途端に街が発する音は排除される。

その時が来ればその場にいるもんだ、じゃん。うん。

 いつになればまたバンドとしてライブハウスに立てるのだろうか。

 さてさてまたまた出勤時間だねーっと。

 何の面白味もない仕事。接客業でありながら〝愛嬌も何もない大人の仕事〟。アーティストという言葉は気取っていて好かないが、その一人となろうとする人間が、ホテルで愛想笑いを振り撒いていていいのだろうか。太宰治がフロントで明るく元気に「いらっしゃいませ」。ありえないよ。いや。道化を演じる彼ならありえるだろうか。もう。考えるのはおよし。でも。そもそも誰かの生き方を真似していては、それ未満で終わるしかない。やろう、アルバイト。何かの素養になるかもしれない。

 河野は寄りかかれもしないぬかるんだ畦道のような思考とともに、不快な歩を進めていった。アルバイトに向かって。

 繰り返される。

意味のないようなことでも、いずれ表現の種になるかもしれない。とはいえ。雑草の芽さえ発しない種だろう。

「やりたいことをやるには、その周りに在るやりたくないことをひとつひとつ潰していかなければならない」

いつだか安達さんが言っていた。

蓋しその通りであるなあ。だって。親からの仕送りが途絶えたことで、金欠が無視できなくなってきた。一度ライブをやれば、数万が飛んでいく。もし人気のあるバンドだったら、チケ代で賄えるが、そうもいかない。今まで四人で集めてきた人数を、一人で集めなくてはならない。無理である。もっと社交性があれば、集客など苦でないだろうが、河野は社交的な人間を毛嫌いしていた。具体性のない、滲んだ顔顔顔が、頭のなかで踊りだした。奴らは大衆音楽で狂騒して満足できる類だ。ガンガンに音を鳴らしながらトラックが通る。人気男性ダンスボーカルグループの新曲を、PRせんとする荒業。数打ちゃあたっちゃうんだ。奴らは振り向くのだ。ほら見て、写真なんか撮っちゃってるよ。思う壺じゃんか。呟きが世界に広まる世のなかで、バンドワゴン効果の得意顔。アンダードッグのままでいる。いてやる。それしか好きになれないから。それは選択肢を失って「いる」んじゃなくて「いたい」からそうしているのであって、客が来て、「いらっしゃいませ」。





特にテンションを上げる理由もなく、淡々と仕事をこなしていると、なるほど勤勉な人間に見えるようで、真面目を装うというのは実に簡単なことですなあ、という思いに至ったのは、彼女、社員、丹羽が河野くんは仕事できはる、それに比べてあかんよ、副支配人のくせに墨田は、なんて突拍子もない罵詈雑言を彼女の先輩である墨田の陰で繰り出してきたからで、その時河野の頭脳に、やる気がないから静かに暮らしているだけ、なんて本音がちらちらしたがどうも口に出す気にならないのは、何やら自分の中に、真面目に思われることが然程嫌なことじゃないということが知れたからで、一体俺は何てちんけなことに満足しているんだと、自分の中の満足、そのハードルの低さに苛立ちを覚えたが、それすらも隠して、えーそうかなあ、ちゃちゃっとやらないと気が済まないたちなんだよ、なんて言ってしまうと、彼女が、社員になればええのに、なんて珍妙なことを言い出したからである。それからというもの、彼女は、本心を一度露呈したことから大阪生まれとは信じがたい従来の人見知りの堰が切れたのだろうか、何ら魅力もないプライベートを縷々早口でまくしたてるようになり果てた。あーめんどくせえ、と彼女のいないフロントで呟きつつも、眼元口元がにやけているのはこれ、彼女が職場の誰もが認める美女らしいからで、らしいなんて他人行儀なのは、彼の好みとは違ったショートカットの小柄な女だったからなのだけれども、しかし、あれ、なんで? ドキドキしちゃってるよ俺、と河野は恋に落ちたのであった。ところがやはり……俺の居場所はここじゃない、と職場に根を生やすであろう社員との会話はできるだけ避けたい彼は、彼女をあしらうことに努めて参る所存だったのだけれども、時の流れ、成り行きというのは不思議なもので、こうしてデートすることになったのであーる。

河野は全く興味のない大衆向けの映画を観て、「面白かったね、特にあの主人公が人参で作った矢で悪党を射るところなんか最高だったね、葉が翼みたいになって飛んで、抜けなくてさ」「え、河野君ってドSなん? 意ガーイ。なんかイメージと全然ちゃうねんけど。ズルいで、ギャップは。ズルい」「ふーん。なるほど君は俺が好きなのかい? 」極めて台詞口調で言った河野に、酒と恥じらいが併合した赤らなんだ顔で、静かに彼女は、うん、と頷いたのであーる。

なんだか大声を出したくなった河野は次行こうと、半身残った病の木肌のようなホッケを尻目に、カラオケに出向き、ショーケンの『大阪で生まれた女』を歌ったところまでは覚えているのだけれど、それ以降の記憶がない。

こうしてうちのベッドで隣に彼女が寝ていることから推測すると、どうやらまあそうゆうことなのらしいけれど、これってもしかして付き合ってるっていうことになったりしちゃったりしてるのだろうか、という論に至った途端、どっと煩わしさがのしかかってきて、あっ、てんで、たしか「チンするだけで温野菜」なんて優秀なプラスチック製容器を以前百均で買ったときに合わせて買った冷蔵庫にあるはずの人参で例の矢を作ってこいつに射ってみようかしらん、と思案していると、ふにゅさりろむと彼女が訳の分からない寝言を蟻の巣様に開いた小さな口の穴から発したのを見て、聞いて、かわいいなあなんて思ってしまったのは如何なる因果であろうか。

どうした俺。

ふと、いつだか言われた「たまにはラブソングもやればいいじゃん」という安達さんの幾分ぶっきらぼうな言葉を思い出して、これも修行の内、修道の内と自身を会得させたのであった。

変わらぬ姿勢の裸体を隣にして、朝、夢うつつの状態で蟻に化身、彼女の巣の中に入っていくのを想像した。が、すぐに止めた。どうやらそこまでの愛情は彼にはなかった。

知らぬ間にセットしていた彼女の携帯のアラームが鳴ると、社員は大変よぉ、と欠伸まじりに言って、慣れたような動作でシャワーまで辿りつき、ショートカットはドライヤー要らず、なんてペタンコな髪でうちを後にし、そそくさと職場に向かっていった。

夜、よし、さてって例のラブソングってやらを作ろうとギターを抱えて、とりあえずGコードを鳴らしてみたけれど、何を歌えばいいんだかてんでわからない。

君が好き。

愛してる。

この二つの言葉は、河野が嫌厭していた、それこそ大衆音楽に頻出する決して使ってはならぬ言葉なのであって、では? というところで思考が途絶え、日本酒をがぶがぶ飲んで狂酔の挙句、E7をかき鳴らし、典型的なブルース進行で君が好き、愛してると繰り返していたはずなのに、



君が嫌い

だって君はショートカット

愛してない

何においてもショートカット

君が嫌い

生き急ぐのがお好きだね

愛してない

手短にさようなら

ショートカットにさようなら

ショートカットにさようなら


いつやら自己採点で百点満点中二点の愚劣な歌が出来上がっていたのである。彼女のことを好きではないのだから、当然か、でも、―。

とうとう俺は歌も作れなくなったのであろうか。

悲嘆に暮れる河野に救いの手を差し伸べてくれたのはジョーストラマーの言葉だった。

「発表の場がないと曲は降りてこない」

「発表の場がないと曲は降りてこない」

「発表の場がないと曲は降りてこない」

 どちらのものとも知れない精液の白い跡が残ったシーツの上で、彼は唱えるように繰り返した。とまらない涙を白い痕跡の上に落として擦ったりしながら。

 発表の場。何よりもまずそれを作らねばならぬ。しかし金はない。そこで河野は即決、ストリートでやることにした。ところが気が進まない、というのもやはりバンドでやりたいからで、ストリートではまたアコースティックになってしまうことで、一人だし、雨だし、とその日はやり過ごし、翌日快晴、SGを背負って、ピグノーズの電池稼働可ミニアンプ片手に、渋谷駅モヤイ像前までやってくると、先客がいてラブソングみたいなラブソングを歌っている。いやがる。吐き気とともに差し出された流浪は誰からの贈り物? 河野は、家路を頭に描いたが、発表の場、それさえあれば、発表の場、もうよしどうにでもなれという心意気で、発表の場、過去に数回お世話になったライブハウス前まで行き、ほんでは始めましょう、と気合を入れギターを肩にかけ、マイク不在につき地声で、大声で、歌ってみるとこれ頗る気持ちがいい。階段があって地下のライブハウスにはちょろちょろと出入りする客があり、酔っているのか河野の歌に合わせて腰を振ったり、小川直也のハッスルを早送りしたような動作を繰り返すなどするハッピーな野郎が多く、ありがとう相乗効果、気分がどんどん乗って騒いでいると、地下から、名前は忘れたが見覚えのあるマネージャーが出てきて「なに晒しとんじゃボケ」と一喝、河野の無視に続いて「おいお前、お前だよ、聞いてんのか、この二階はラブホテルなんだよ。そんなところで大声出されたら苦情くるからやめろ」

とろこがね、時既に遅しなんだよ。酩酊していた河野は適当な歌を取り繕ってへらへらに返答すると、マネージャーは止まらぬ河野に近づきピグノーズの電源をぽちと切って、シールドをがすぽンと抜いた。しゃりしゃしゃりしゃしゃりしゃりりん、とこれ弦の音、が虚しく鳴ると同時に河野のテンションも一気に下がり、「あ、その、す、すいやせん」と強気になり損ねつつ言って、小走りでその場を後にしながらふと思ったのは、上がラブホテルだから大声出すなというのはなにゆえ?

角を曲がりライブハウスが見えなくなると、ゲップのような笑いが突沸した。これほどまでに無意識に大笑いするのはいつぶりだろうか。生理的な笑い。生きている、俺は生きている。そうして次第にそれが落ち着くと、これだ、これじゃん、とことん楽しんでやろうじゃないかと、気づいた時には次に向けて駆け出していた。

次。即ちタクシーを捕まえて「新宿まで」。

新宿界隈には、バンドマンなら誰もが知るライブハウスが所狭しと名を連ねている。河野自身も出演したハコもあればそうでない場所もあったが、選択する時間すら勿体なく感じられたので、とりあえず一番近いライブハウスまで行き、入口がどこに在るともしれないそのビルの前で、すっかり慣れた手つきでセッティングを終え、すっかり手に馴染んだリフを鳴らし、歌った。



 矢鱈滅多に迎合野郎

 好かれたいのさ迎合野郎

 誰にも嫌われたくないそうだろう

 言ってみちゃえよ迎合野郎

 あーあー朽ちてく

 もっと自由に心を放て言葉を叫べ

 さあ邪魔者 迎合野郎さよならだ

 八方美人な迎合野郎

 仮面だらけの迎合野郎

 それじゃあ奴隷と同じそうだろう

 自分殺しの迎合野郎

 あーあー死んでく

 もっと自由に心を放て言葉を叫べ

 さあ邪魔者 迎合野郎さよならだ

 迎合野郎さよならだ



 渋谷に対して客の出入りが全くないビルの前では、人通りも少なく、たまに通ったと思うとおばさんがこちらをチラりとみて、口元を不可解に湾曲しながら通りすぎていっただけであった。

 ここでは先ほど得られたほどの快感は得られない。

 河野はギターをケースに仕舞うのも面倒で、ビルとビルの間に、ケースを押しこんで、ギターを肩に掛けたまま、アンプをベルトに括りつけて、歌いながら街を徘徊した。足は、考える間もなく、次のライブハウスに向かっている。夜二十三時を回ったこの時間帯の新宿には、酔っ払いがゆらゆらと足踏みして音楽に身を任せて、踊っているように見えるけれど、彼の歌とリズムが合っていないのはどうやら歩く人人人が、それぞれ全く違った自分にしか聞こえない音楽を聞いている証拠でありまして、俺も聞いてみたいなあ、ってちょうど前方に見えたコンビニに入り、んざんざいうアンプに手惑いながらも金を払い、紙パックの鬼ころしを買い、半分ぐらい一気に啜り、上着のポケットにそれを忍ばせながら徘徊の続き、客の不入りをきにせず歌えるなんてすんばらしいね、だけど誰も彼には耳を向けない、いや向けない、って言葉でいっても同じだから困っちゃうけれど、後者は不可の意味なんですよ、わかってましたかそうでしたか、人々は相変わらず傍から見れば曖昧な、自らとしては確実なのであろうダンスをしていて、それに触発されるように彼にも酒が回ってきて、Eコードばかりじゃかじゃかするばかりで、歌うべき歌がでてこないのだけれど、そんなこたあないよなあ、だって今まで当たり前のように一時間のライブをこなしてきたじゃないか、ええ、どうなんだよ、とまたE、曲名がやっと頭に浮かんだと思っても、それらは全て、リズム隊がいなくては成り立たないような曲ばかりで、ギター一本ではまったく歯が立たないのが容易に想像せられて、歌い出すことにも手の施しようがなく、EEE、歩道橋とその先にある高架が額縁役を買って出て切り取られた、月も星もない黒いばかりの空に、肥大した大野木と池原の顔がモノクロームで浮かび上がったときには、無意識にアンプの電源を切っていて、音のならないギターと、一挙に屈辱の念を催し、その場で座り込んで、鬼ころしを飲みほして、紙パックを潰し、弦に叩きつけても眠らない街と称されるこの街にとっては、蚊の鳴く声にもならなくて。

無力。どうしろっていうんだ。顎に溜まっていく涙を零さないように歯を食いしばると、それまで出鱈目な踊りをしていた人びとの足取りが規律的に、足並みが揃ったように見え、ただ自分だけが取り残されてしまった。彼らはみな同じ音楽を聞いていたのかもしれない。それはどんな音楽なのだろう。どうして自分には聞こえないのだろう。何をすれば聞こえるようになるのだろう。

パスポートがいるんだよ。それはね、会社だったり、家庭だったり、時には信念であるかもしれない。君にはそれがあるかい?

耳元で「存在論入門」の教授の不快な声で諭されたような気がした。辺りを見渡しても、投げ捨てた鬼ころしの紙パックが、転がり続けられもせずに虚しく佇んでいるだけであった。

その距離からして無論声の主ではあるまいが、遠くからこちらにずんずん歩いてくる人がいる。体型は教授と似通っていたが、その迷いない一直線の途中で街灯に照らされた顔に見覚えはない。

「大丈夫か? 水要るか?」

教授とは似ても似つかない嗄れた声で、河野の横まできたおっさんが言った。

酒が不得意な河野は、既に真っ赤ら顔になっていたのであろう。おっさんは憐れみながら憎むような目で親切にもキャップを開けた飲みかけのペットボトルの水を差しだしている。大丈夫じゃないし、胡乱で汚らしい水は要らない。河野は何も答えず首を横に振って、余計に重くなったように感じられるSGを抱えて立ちあがり、誰かにこの音は届くだろうかと靴を擦りながら、誰とも共鳴しない足音で帰路についた。





―本日は来て下さってありがとうございます。小汚いところですが、よろしくお願いいたします(笑)。

 よろしくお願いします。

―まずは今回、デビューアルバム『メーヘレンたち』が発売となった今の心境をお聞かせ下さい。

 まあ何も言うことはないんですよ。このアルバムに入っている曲はすべてずっと前に、それこそ学生時代に出来た曲ばかりで、何度もライブで演奏した曲ばかりです。だから、やっと形として残すことができたという喜びはありますが、今のメーヘレンズはこのアルバムの発売がなければ、セットリストも全曲変わっているはずですから。

―なるほど。俺たちはこんなもんじゃないと言う思いもあると。

いや「こんなもん」ですよ。僕らは変わりませんから。よく自らの音楽的な進化を語りたがる人がいますけれど、僕にはピンとこないんです。僕らはずっと留まっているんです、その場に。やっていることは同じですから。バンドが進化していくことは退化でもあるのではないでしょうか。

―といいますと。

僕らのことを好きな人がいますよね。それで当然嫌いな人もいる。僕らはある一点で演奏を続けているわけです。座標は不変なんです。不変でなければならないんです。それは好きな人は通るし、そうでない人は避ける点です。そこから動くことはあってはならないんです。敷衍していくのではなく、どちらかというと掘っていく感じですね。只管に。ほら僕らアングラですし(笑)。出来るだけ深くね。僕自身、いろんなことにチャレンジするバンドはあんまり好きじゃないんです。ああ今あのバンド聴きたい、って思った時に、アルバムからどの曲流してもその時の気分に合致するようなバンドでありたいんです。

―河野さんの言葉を借りると、例えばビートルズも〝音楽的な進化〟を試みたバンドだと思うのですが、ああゆうものはあまりお好きでない。

ビートルズは断然初期が好きで、後の方はあんまり聴かないですね。インドに行ったあたりからでしょうか。どうもバンドとして混沌とした感じがあるじゃないですか。そんで結局解散しちゃう。あれはメンバー一人ひとりが違う座標に立ち始めたんだと思います。そうなると当然ソロでやった方がしっくりくる。だから後期の楽曲を聴く時は、彼らのソロ曲を聴く時の気持ちのほうに近くなります。まあ彼らはその混沌をアイデンティティをして確立したのでしょうけど。

―なるほど。話は変わりますが、このバンド結成の経緯をお伺いできませんか。

いまですか(笑)。まあそうですねえ、まず工藤(ギター)と出会って、バンドやろうってことになったんです。そんで、昔バンドやってた仲間を二人でそれぞれ誘ったという形ですね。

―曲は全て河野さんが作ってらっしゃるんですよね。

はい。まず自分で作って、それを弾き語りで録音して、スタジオに入る前にメンバーに聴いといてもらうんです。でスタジオでバーンと。

―そうすると当然河野さんの音楽的趣向が第一にあるじゃないですか。それが原因でメンバーの方々が何か不満を持つこともあるかと思うのですが。

……そうなんです。だから僕は今こうして一人になって、メンバーもみんな何処かへ行ってしまって、バンドもできず、ふらふら彷徨っているんです。最後の砦であった工藤さえ、急に結婚しましたからね。ふざけるなですよ。いやまじで。



帰ってきた覚えのない自室のベッドの上、目覚めは最悪であった。工藤からメールが来ている。添付されているのは、子どもの写真。「翔(しょう)李(り)くんでーす」。生まれたらしい。そのせいでこちらは死んでいますけれどもそこんところはどうお思いでしょうか? 夢で見た胡散臭いインタビュアーの口調を真似して呟いた。頭ががんがんする。ベッドの横に鬼ころしの紙パックが、三つ転がっている。なかには飲みきっていないものもあり、ストローからこぼれた酒でフローリングがべたべたする。その更によこにギターが裸で横たわっている。ケースを持ちかえるのを忘れたらしい。頭ががんがんする。

アラームが鳴っているのは、仕事の時間を伝えたがっているからのようだけれども、これケースを持ちかえるのも忘れるような奴がちゃっかりアラームの設定はしたということはどうゆうことだろうか、無意識のなかでのプライオリティは音楽よりも仕事だと、そうおっしゃるんですね? インタビュアーが言って、聞いてないふりをするために時計の針を凝視し続けていると、動いていないように見える長針は動いていて、出勤時間を指したころには、床にこぼれた日本酒を舐めながら、おいちいおいちいなどと嘯いて、職場からの鳴りやまない着信音でダンスを踊ったら、アリ戦のアントニオ猪木のような体たらく。続いて丹羽からの着信。無視。

仕事を辞めたがっているんだなあ、ということはここの家賃も払えなくなるわけで、家を出るしかほかになく、鞄を引き寄せ、下着を入れようとすると、鞄のなかで何やら煌々と光っているものがある。眩しさにくらくらしながら目を細めて見てみると、それはiPodで、耳を澄ませてみると、イヤホンから音が漏れている。シャカシャカのサンバのリズム。直った! と喜んでみても喜びきれないのは、今さら直ったってもう必要ないからで、遅っせえからで、彼はiPodを枕の上に置き、布団を丁寧にかけてから、んじゃ、なんつって、家を出たのである。

銀行に行き、貯金を全ておろしたところ二十一万円也を鞄に詰め込み、よしこれで家賃が振り込まれる心配もなく、タダで家出ってのは言うは易く行うも易いなあ。

二日間マンガ喫茶でやり過ごし、そろそろ下着を替えようと、鞄を弄ると、底に硬いものがあって、危うく突き指。危ねえ、ってこの現状に較べりゃ突き指のひとつぐらいどうってことないよ、いやほんとって、取り出すと、「○○大学図書館」というシールが貼られた本がでてきて、あああんときのと思いだして、マウスをかしゃかしゃしてデスクトップの光でなんとか読めたタイトル、『この一冊であなたも作家になれる』。

まったく馬鹿らしいと思ったよ最初は。でも他に縋りつけるものが何もなかったから仕方なく、それを五回読み通して、面倒だと思うことはすべて排除しながら、こうして漫喫のパソコンでこの文章を書いてきたのだけれども、それはただの暇つぶしであって、いや「人生は暇つぶしだ」ってどこかの落語家が言っていたことを思い出しながらこの文章を書いてきたのだけれども、ああ隣から嗚咽、飲み過ぎて終電を逃したどうしようもないようなヒューマンビーイングが発する音で眠れもせず、溜息をついたら、その音が何だか異様にこの場に馴染んだような気がして、何度も何度も故意に溜息をついていたら、うるせえんだよ、って怒鳴る声が角の方の部屋から聴こえてきたというのはどうゆうことなのだろうと、今のは自分宛ての言葉だったのだろうか、一応溜息を止めて訝っていると、どうやらそれは自分宛ての言葉だったようで、なんて綴るばかりで暇つぶしの文章も書くことがなくなってきたのは明らかなので、久方ぶりにフェイスブックにアクセスしたら、大野木がバンドを始めたとかいって、どこかのライブハウスで撮ったらしい出演者全員らしい写真をアップしていて、あいつは働くつってメーヘレンズをやめたくせにそうして新しくバンドをやっているのに加え、何よりも、見たこともないような満面の笑みでカメラを覗きこんでいるのが気に食わない。「いいね!」97件。なんだかとことんメンバーの近況を調べてやりたい気持ちがふつふつと湧いてきて、今度は池原のページを見てみると、昇格しました、なんてスーツ姿で何を讃えているとも知れないぺらぺらの賞状を大事そうに抱えている。莞爾と笑い「いいね!」が141件もついている。何がいいんだ。工藤はというと、子どもの写真ばかりアップしていて、それも、頬を擦り寄せたり、高く抱え上げたバックに太陽、挙句の果てには、一緒に目を瞑って家族三人で眠っている写真なんてもんまであるが、撮影しているのだから本当に眠っている訳がなく、作為が見え見えで気色悪いこと甚だしい。どれもこれもありきたりな親バカを露呈していて、こちらは「いいね!」が56件。友達の少ないあいつにとっては記録更新ってなとこでありましょうか。

ふと思うた。自分が近況をアップしたらどれだけの「いいね!」がもらえるだろうか。そこで、ろくに風呂にも入れずニキビの増えた顔を撮影して、シャッター音に咳払いを浴びせられながら頑張ってアップしてみたが、一時間たっても二時間たっても一向に「いいね!」がつかない。頑張ったのに。

金がなくなるのが怖くて酒も買えず、またやることがなくなったので仕方なく『この一冊であなたも作家になれる』をぺらぺら捲っていると、末尾に新人賞応募一覧というものを発見した。それによると、翔によってバラバラだが、住所薄れは五十万の賞金が手に入るとのこと。安堵した。捨てる神あれば拾う神ありここにあり。書けばいいのである。小説とやらを書いて応募しようそうしよう。そうして受賞して「いいね!」を大量にもらおうそうしよう。

それまで書いていた暇つぶし用の文章をすべて消し、さて、とキーボードに手を乗せたところでどうしていいか皆目見当がつかない。ええとって第2章「書いてみよう!」を読みなおすと、〈登場人物の一覧を作り、プロフィールを作成せよ!〉と七面倒くさいとこを命令口調で言われ腹が立ったので、頭の中で済ませることにして、考えていたら、二秒ですべての登場人物のプロフィールが完成した。というのも、実在する人物をそのまま登場人物にすればいいじゃん、という実に頭のいい天才的な閃きをしてしまったからである。

〈三人称で、できるだけ書け書け書け!〉

ある日、また命令口調を発見し、河野翔平即ち自分を、それまで書いていた一人称から三人称に、ワードの「置換」機能を使い換えてみたが、なんだかヘンテコな文章になってしまっている部分が散見されるが大目に見よう。そうしよう。

その日からと言うもの、毎日こうして夜な夜なマンガ喫茶で文章を書いては、ワードファイルをクラウド上に保存し、昼は散歩な日々を送っている。

そもそもこんな本など信用していない。音楽を作るのだって、誰かに教えられたわけではないし、理論はちんぷんかんぷんで、楽譜さえ読めない。それでも曲は作ってきたのだから、なに、不安に思う必要はどこにもない。歌いたいように歌うように、書きたいように書けばいいのだ。

〈自由に書け! それこそが小説である〉

ほら、偉そうなのは気に食わないけど、ちゃんと書いてある。それでいいのだ、って本の言う通りにしているあたり、あれれこれってやっぱり本を頼りにしちゃってるのかしら。言う事なんか聞くかと言いながら、内心安心しちゃったりしてるんじゃないか。

書く。とりあえず書く。それしかないのだ。全ての道が断たれた現状を打破するには……というか暇を潰すには、それしかない。





客に理不尽な不平不満を浴びせられようが愛想笑いまでして無理に時間をやり過ごす仕事を辞めていく人が後を絶たないのは当然で、もう慣れっこになっているのだろう。数日で会社からの電話は途絶えた。きれいさっぱり。

二十四歳になって、初めて全ての枠が崩壊した。何の役を演じる必要もなく、どこに行こうが何をしようが自分の勝手だ。二十三というと、シド・ヴィシャスが死んだ歳から三年もたっている。他にも挙げようと思えばいくらだって、もっと若いころに死んだ奴らはいる。知りたきゃウィキペディアで調べろ。今さら恐れることも悔いこともないだろう。

それに対して、あいつらといったらどうだ。父を演じ、会社員を演じ、女性を演じ、母を演じ……みんな贋作家と成り果ててそれすら気付いている様子もない。

俺は違う。全然違う。―違うよな?

メーヘレンになってたまるか。

―違うよな?

 少なくとも夢見る自分自身の贋作家で、いよう。





―まずは第95回日本文学風新人賞受賞おめでとうございます。

ありがとうございます。

―まずは受賞のお気持ちをお聞かせ下さい。

 安堵と恐怖が入り混じっています。僕なんかが、という気持ちが一番強いのですが、受賞させて頂いたからには、今後も書き続けていきたいと思っていますし。

―どうして小説を書こうとお思いになったのでしょうか。

昔から本は好きで、それこそ本の虫というのでしょうか。学生時代は友達も少なかったものですから、遊びに行く相手もなく、休みの日になるとブックオフに行って、百円で買える適当な本を選んでは喫茶店に行き、今日はこれを読むまで帰らない、と意気込んでいましたね。今思うと根がひきこもりなんですよ(笑)。

―それは意外です。この小説は実体験が元になっているとお伺いしましたが、小説の中にはひきこもりの様子はないじゃないですか。

―古本を買いに行くぐらいの外出はできるタイプのひきこもりなんです。

―それってひきこもりとは言わないんじゃないですか(笑)。本を買いに出ていたわけですし。

うーん。そうかもしれませんね(笑)。自分ではひきこもりだと思っていましたが……〝自称ひきこもり〟ってことでどうか許して下さい(笑)。

―別に責めてはないですよ(笑)。そんな本の虫から逆に書きたいとお思いになったのは何がきっかけだったのでしょう。

 ああすみません、質問の肝心なところを忘れていましたね。それはこの小説とリンクする部分なのですが、就職やなんやらでバンドの活動ができなくなって、そうすると鬱憤は溜まる一方で、それまで歌として発散してきたものを、何か別の形で、と考えたんです。〝発散〟っていうよりは〝排泄〟に近いかもしれません。それで一人でできることを探していたら行きついたのが小説でした。そう言った意味ではうんこを人様に見せるわけですから、申し訳ないというか、恐縮です。

―何を仰いますか(笑)。話を戻します。今お話に出たように、この『メーヘレンたち』という小説は所謂私小説に分類されると思うのですが、自分の人生を小説に昇華しようとお思いになったきっかけは何かあったのでしょうか。

たしかにこの小説は実体験が軸となっていますが、殆どの私小説がそうであるように、全てが実話という訳ではありません。私自身メーヘレンズというバンドはやっていましたし、メンバーの名前は実名を使っています。You Tubeで「メーヘレンズ」と検索すれば、いまでも楽曲を聴くことができるはずです。その他の登場人物も実在する人ばかりです。

―それは興味があります。後で検索させていだだきます。では逆に創作した部分というのは?

それは読者の皆様の御想像にお任せします。

―では、どんな方々に読んでいただきたいですか。

 〝自称ひきこもり〟の皆様に、ですかね(笑)。

―(笑)今後の小説の着想というものはあるのでしょうか。

 いくつかあります。でもまだ書き始めてはいません。いまはただ只管に便意を催すのを待っている状態です。

―(一同爆笑)楽しみにしています。本日はお忙しい中ありがとうございました。

 こちらこそありがとうございました。



 インタビューを終えた後、氏は「こんな話でよかったんですかね」と小声で呟いた。その言葉は安堵と恐怖が入り混じっているという彼の本音であろうが、その目は既にしっかり先を見据えているように見えた。その瞳は今に至るまで、私の脳裏に焼き付いて忘れることができずにいる。今後の氏の活躍に期待を膨らませずにはいられない。最後に、氏が部屋を出られた際の一言を添えておく。

「トイレどこですか?」

〈了〉

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メーヘレンたち @teiya

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