第28章 蒼雷覚醒

第120話 朱花の双刀

 河南に駐留中の皇騎兵軍の兵舎は、河南の街を貫く運河のほとりに設けられていた。その窓からは、緩やかに流れ行く運河が見えた。

 街へ出て、羽目を外す兵たちが多い中、劉朋りゅうほうは休みになると、大抵、書物を手にその窓辺に腰かけ、飽かずに運河を眺めている事が多かった。街へ出ると、どういう訳か、決まって杜陽とように出くわす。それが煩わしかったのだ。


 彼の兵士としての能力は抜群に高い。

 剣の腕も感心するところではある。

 だが、どうしてもあの性格は受け入れ難かった。


 自分がこうと思ったら、周りなどお構いなしに、思うままに突き進む。その傍若無人ぶりが、劉朋にはどうにも癇に障るのだ。おまけに、こちらのそんな感情もお構いなしで、杜陽の奴は、顔を見れば親しげに絡みついてくる。 更に、その目付も兼ねていると思われる、杜陽の兄、杜亮とりょうと、その兄と妙にウマがあってしまった様子の朱凰しゅおうが、これにもれなく付いてくる。果たして、この面子で酒を飲んで、美味いと思うか。答えは即答で否だ。

 そんな訳で、劉朋は兵舎に引き籠っている事が多かった。



 水面に蜻蛉とんぼの尾が触れて、綺麗な波紋を描いた。それに気を引かれて、何気なく見ていると、数匹が、代わる代わるに、水に波紋を描いていく。 時に羽を掠める程に近づき、時に相手を拒絶する様に間合いを取りながら。そうして描かれた波紋は、生じた先から儚く消えていく。


……我らの存在とは、この波紋の様なものか……


 激しくぶつかり合って、そこに波紋を生じても、時が立てば、水面は何事もなかった様に、穏やかに陽の光を弾くばかり。後に何を残すでもない。


……ならば人は、何の為に、存在するのか……


 思うともなくそんな事を考える。

 河南の夏特有の、生温く湿った空気が、劉朋の額を撫でて行く。その風を感じる毎に、額からは汗が滲み出してくる。到底、心地よいとは言えない風なのだが、劉朋はただ、その重たい空気に身を預けていた。ゆったりと流れる河南の運河の水は、湖水地方の、夏でも冷気を含む清涼感のある水とは、大分印象が異なるのだが、それでも、そこにある水の気配は、劉朋を郷愁へと誘った。


……かなでは、どうしているのだろう……


 湖水を出てから八年。気紛れに現れる黒鶯こくおうがその息災を伝えてくれていたが、結局、奏とは、あれから一度も会っていない。

 奏と一緒に居られればそれでいいのに。ただそれだけの願いすら叶わない。

 奏と再び会う為に、自分はどれ程の遠回りをしなければならないのか。そう思うと、遣り切れない気分になる。


……奏と会う為に皇帝になる、か……

 現実味のない夢想に、劉朋は自嘲する。

 黒鶯の言をそのまま信じた自分は、何と幼かった事だろう。



 あの頃は、何も分かっていなかった。ただ黒鶯の言葉を信じ、それに翻弄されて、奏との関わりが断ち切られるのを黙って受け入れるしかなかった。

 何時までも馴染めない都の暮らしに、自分が偽りの存在なのだと気づいたのは、何時の事だっただろう。ただ、黒鶯の動かす駒の一つとして、そこに配されているに過ぎないのだと気づいたのは……それでも、その場所から逃げ出す事は出来なかった。逃げ出せば、二度と奏とは会えない。全てが曖昧で偽りに満ちた世界の中で、皮肉にも、それだけが確かな事だったからだ。


……そなたは、いずれ、お互いの存在の全てを掛けて、戦うことになる者と出会う……


 かつて、瑶玲に告げられた予言の続きはこうだった。

 それは、そなたの大切なものを脅かす存在となる者。それを退けねば、そなたは、その大切なものを守る事が出来ない、と。


……私の、大切な、もの……

……といえば、奏の事しか思い浮かばない。

……奏と、杜陽と、私……


 三者にどのような関わりがあるというのか。

 奏と自分。

 自分と杜陽。

 今分かっているのは、その関係だけだ。


……なぜ杜陽が奏を……


 出会った事もない二人を結ぶものと言えば、この自分以外にない。それとも、自分の予言の解釈が間違っているのか。

 そもそも、杜陽は予言の者ではなくて、ただの煩わしい存在に過ぎないのか。

 この暑さのせいか、頭の芯の辺りに、鈍い痛みを感じた。未来に対する漠然とした不安がそれを増幅させる。


……何かが……


 自分の手の届かない所で、何か起ころうとしている。そんな思いに囚われる。

 早くそれに気付けとでも言う様に、その痛みは次第に大きくなっていく。

「……」

 思わずこめかみに指を添えた。そこに頭の中から声が聞こえた。


……欲しいか。天動てんどう蒼玉そうぎょく……瑠璃を守る力が……


「……天動の蒼玉……」

 その言葉の響きに、胸に言い様のない、せつない思いが広がる。大切なものを失ってしまったのだという、悔しさと、遣り切れなさとが混然として劉朋を押し包んだ。

「おい、劉朋いるか?」

 扉に合図もなく、その声と共に、杜陽がいきなり姿を現した。杜陽の姿を見た途端、その訳の分からない感覚と、あれほど感じていた頭の痛みとが、一瞬にして吹き飛んだ。



 劉朋の中には、杜陽と対峙する時には、常に全神経をそちらに集中していないと、何をされるか分からないという危機感の様なものがある。 故に、その姿を見ると、体がもう反射的に臨戦態勢を取ってしまうのだ。どんなに疲れていようが、具合が悪かろうが、持てる力を総動員して臨戦態勢になってしまう。 劉朋が、杜陽といると妙に疲労を感じるのは、そのせいかも知れなかった。


「何事だ、騒々しい」

 いかにも迷惑そうに言った劉朋に、しかし、杜陽は相手の様子など意に介さずといった具合に、嬉々とした顔で言う。

「湖水から、皇帝陛下のご機嫌伺いに、特使が来るそうだぞ」

「特使?湖水の……」

「ああ、さっき湖水領官から親書が届いたらしい。この数カ月、幾度も来訪の催促をしていたからな。 湖水領官の体調が思わしくないとかで、先延ばしにしていた様だが、代理を立てるという事で、ようやくそれに応じた様だ」

 そう聞いて、劉朋は黒鶯の姿を思い浮かべた。


 湖水領官の代理といえば、やはり彼が来るのだろう。その姿を最後に見たのは、劉朋が皇騎に入る前のことであるから、ここ数年、その姿を見ていない事になる。

 もし、黒鶯が特使としてこの地に来るというのなら。自分が、今ここにいるのと時同じくして現れるというのなら。それは、やはり何か意味のある事なのだろう。

 黒鶯は又、きっと、何か大きな波を巻き起こす。



「朱凰様が、その件で打ち合わせをしたいそうだ。で、休みのところ申し訳ないが、城へお呼び出しという事で。ご足労頂けますでしょうか、劉朋様」

「取って付けた様に、そこだけ敬語にされても、全く敬意を感じないのだがな」

「俺は、俺よりも上の奴にしか敬意を払わない。お前は、俺とタメじゃねえか。実力が同じなのに、階級だけ上っていうのが、そもそも間違いなんだろうが」

「あのな。実力があっても、実績がなきゃ、話になんないんだよ。そういう御卓は、手柄の一つも立ててから言うもんだ」

「けっ。たく、面倒くせえ。これだから、軍隊なんてもんは……って、おいっ、待てよ」

 杜陽の戯言を無視して、勝手に部屋を出て行く劉朋を杜陽の言葉が追いかける。返事をするのも面倒で、劉朋はそのまま歩を進める。


 すると杜陽の靴音が近づいてきて、その横に並んだ。その存在は、いつの間にか、我が身と共に、朱花しゅか双刀そうとうなどと称されている。ちなみに、朱花というのは朱凰のあだ名である。つまり、彼らは一対で朱凰の懐刀と見られているのだ。それがまた、劉朋には鬱陶しいところでもあった。


 兵舎の入口には猩葉しょうようの姿があった。劉朋の姿を見つけると、これに軽く黙礼して、何時もの様に少し間を開けて後方に従う。そんな猩葉の様子を、杜陽は肩越しに一瞥したが、何も言わなかった。


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