第119話 運命の輪
陽は大分傾いていた。日暮れまでに天河を越えられるのか。空を仰ぎながら
彼の後方には、延々と長く伸びる行列が続いている。地平の先にまで長く続くこの行列は、皇帝が気紛れに言いだした行幸の列に他ならない。
劉朋は、帝国宰相劉飛の息子である。血の繋がりはないから、正確には養子になるのだが、劉飛は妻と死に別れてから再婚もせず、他に子もなかったので、いずれはこの劉朋が、家督を継ぐのではないかと、巷ではそう噂されている。彼は、皇騎兵軍では准将の位に就いていた。
剣の達人であった劉飛の仕込みのお陰で、劉朋は、皇騎兵軍の中でも、三指に入る剣の腕を持つ。実力的には、指揮官職でも十分にこなせるのだが、何しろまだ十七という若さであったから、取りあえず准将という辺りで落ち着いている。そんな劉朋が、此度、行幸の護衛の任を仰せつかった。この行幸の総責任者である、皇騎兵軍少将、
その話を聞いた時には、皇帝の気紛れの行幸になど、近衛が付いていけばいいものを、皇騎兵の精鋭を選りすぐって、まるで戦にでも行く様な重装備で、街道を行くなど何の酔狂かと思ったものだ。
ちなみに、
「戦の経験のない者ばかり、たまにはこういう演習も悪くはないだろう」
とは、彼の上官でもある朱凰の言である。
その朱凰は、大貴族璋家の一人娘である。幼い頃からお転婆で、娘らしく育ってほしいという親の願いも空しく、長じた今は、女だてらに皇騎の兵で、しかも中隊指揮権を持つ将官にまで上り詰めた。
それがどういう訳か宰相である劉飛に心酔していて、かの人が右と言えば、右。左と言えば左と、実に素直に言う事を聞く。 此度の行幸の件も、元帥である
そんな経緯で、行幸の行列は華煌京を後にしたのだが、何しろここ百年程の間、この様な事は行われておらず、 又、精鋭と言われている皇騎兵軍においても、その半数はすでに戦の経験のない者になっており、勿論、この様な行軍の経験もなく、その進む速度は、誰一人として思いも寄らない程に遅いものであった。
馬を飛ばせば、日没までに河南に入る事は出来る距離である。が、この行列の遅さでは、到底、辿り着けないだろうと思う。
恐れ多くも、陛下の河南入りが、日が落ちてからという訳にもいかないから、その手前で、野営をしなければならない。その場所をどの辺りにするのか、そろそろ決めなければならなかった。
天河を越えるか否か。丁度、劉朋がその算段をし始めた時である。
河南の方より、疾走する騎馬が二つ、まさにこの行列を目指して近づいてくる。鎧などは付けていない軽装であるが、腰に剣を帯び、何より、その好戦的な表情に、劉朋は思わず手綱を引いた。
「全軍停止、構えっ」
劉朋の声に反応して、先頭の小隊が、剣を抜き、又、槍を構えた。
「皇帝陛下の行列を遮るとは、貴様、何者か」
劉朋の誰何に、騎馬の男が手綱を引いて止まった。
「俺は、河南領官の名代で来た、杜陽という者だ。わざわざ陛下をお出迎えに来てやったのさ」
「河南領官の名代?その様な話は聞いておらぬが」
劉朋が訝しげな顔をすると、杜陽と名乗った青年が笑いながら言う。
「まあ、お出迎えって言うのは建前で。実は、帝国最強だという皇騎兵軍を見物に来た」
何となく……
こいつとは、関わり合いになりたくない。
劉朋は直観的に、そう思った。
だが、自分が先鋒を任されている以上、こいつが前方からやって来て、御卓を並べ立てるのを、ここは可及的速やかに何とかしなければならない。
「今すぐに、立ち去れ。さもなくば、馬を降り、この場にひれ伏して、気の遠くなる様な行列が行き過ぎるのを待つ羽目になるぞ」
「まあ、そう急くな。挨拶が終われば、すぐに消え失せる」
「挨拶?」
「ここにいる兵の中で、一番腕の立つ奴を連れて来い」
「何だと」
「俺の相手になる奴は、居ないのかと聞いている」
「馬鹿か、お前は。皇騎の兵が、お前の様な輩を相手にすると思うのか……」
そう言った劉朋の前で、杜陽が徐に、剣を抜いた。それを見て劉朋は思わず眉をひそめる。その白刃の煌きが、実に不快なものに思えた。
「……劉朋様、ここは私が」
側に控えていた副官が、彼に声を掛けた。
「いや。お前は手を出すな、
杜陽の剣を見据えたまま、劉朋が柄に手を掛ける。
……こいつ、強い……
そこから伝わってくる闘気に、劉朋は相手の技量の程を推し量っていた。
皇騎兵軍に対し、剣を向けた者を、このまま見過ごす訳にも行かなかった。
警告はしたのだ。後は、速やかに、これを排除する。それで、この厄介事とはおさらばだ。
劉朋がいきなり鐙を蹴った。杜陽とすれ違う瞬間に剣を抜き、これを横に薙ぎ払う。この一閃で、杜陽の首は飛んでいた筈だった。が、思いがけず、そこに、剣の交わる音が響いた。
「何……?……」
思いがけず剣をはじき返され、劉朋は言葉を失う。そのまま勢いよく走り抜けて、馬首を返すと、不敵な笑みを浮かべた杜陽の姿があった。
「お前、すっげぇ、速いな。全く、ゾクゾクするぜ。気に入った」
そう言って今度は、杜陽がこちらに突進してくる。劉朋は、勢いよく振り下ろされた剣を反射的に受け、そのまま数合、剣先を交える。そして、互いに息を合わせた様に、手綱を引いて馬を離した。
そこから先は、交わしては受け、受けては交わしの繰り返しが続いた。両者互角。二人の剣が軽快な音を立てては、幾度も交わる。
それを楽しんでいる様な杜陽と、それを実に不本意そうにしている劉朋。
そんな二人の顔が、大地を朱色に染める夕日の中で、入れ替わり立ち替わり、見え隠れする。
「只者ではないな、あれは」
そんな様子を見ながら、杜亮は思わず呟いていた。
「どうも、あれが、
不意に背後から声を掛けられた。肩越しに振り返ると、鎧を纏った女が、思わせぶりな笑みを浮かべて杜亮を見ていた。
「久しいの、白の」
「……お前、朱雀か」
「
「杜亮だ」
「どうやら、首尾よく黒鶯に叩き起こされた様だな。祝着な事じゃ。結構、結構。で、あれが深紅の姫の……?」
「ああ」
「中々、面白い器だな。さて、こんな所で何時までも、遊んでいられても困る。そろそろ、お開きにしてもらおうかの」
そう言って軽く鐙を蹴ると、朱凰は涼しい顔をして、二人が激しく剣を交える方へ近づいて行く。そして……
「そこまでだ。双方止めよっ」
到底おなごの口から出たとは思えない、ドズの効いた声が一喝した。
一瞬止まった動きに、すらりと剣を抜き放った朱凰は、杜陽の剣をいとも易く弾き飛ばした。 そして、あっけに取られている杜陽に向かって、
「その剣の腕、気に入ったぞ。只今この時より、そなたには、この私の副官として仕える事を許す」
そのまま馬を返し、悠然と列の後方に戻っていく朱凰に、杜陽は慌てて剣を拾い上げると、何事か声をかけながら、これを追う。そんな二人を呆然と見送る劉朋に、杜亮は軽く会釈をすると、杜陽の後を付いて行った。
乱入者が去り、その場に平穏が戻ると、劉朋は、野次馬と化して、この出来事を見物していた兵達に持ち場に戻る様に叱責を飛ばした。そして剣を収め、何事もなかったかの様に、自らも隊列へ戻った。その劉朋が、ぽつりと零したのを猩葉は聞いた。
「……全く、鬱陶しい」
猩葉が様子を伺うと、劉朋は眉根を寄せて難しい顔をしていた。
きっと、あの杜陽とかいう若者は、否応なしに、劉朋の境遇に変化を強いる。猩葉が感じた以上に、劉朋は、そう感じている様だった。
……運命の輪に……繋がれた……
その時、劉朋の胸には、そんな憂鬱な思いが広がっていた。
……そなたは、いずれ、お互いの存在の全てを掛けて、戦うことになる者と出会う。
かつて遥玲に告げられた予言の言葉が、苦味を伴って記憶の底から浮かび上がる。
……あいつだ。間違いなく、あれがその予言の者……
沈む夕日に血の様な禍々しき赤き色を見て、劉朋の心はどこまでも重く沈んでいった。
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