第121話 湖水特使
それから半月程して、河南城に湖水からの特使が到着した。
城門の前で、それを出迎える河南領官の警護をしていた劉朋は、十人ほどの使節の中に、青毛の馬に騎乗してやってきた黒鶯の姿を見つけた。
劉朋が見据える前で、馬を下りた黒鶯が、ふと彼に視線を向けた。二人の目が合った所で、その口元に、一瞬、意味ありげな笑みが浮かぶ。 劉朋は思わず、それに当惑した様な顔をしていただろうか。しかし黒鶯の視線はそのまま劉朋の上に止まる事はなく、すぐに自分を出迎えに出ている河南領官、杜狩へと向けられた。
「領官様直々のお出迎え、恐れ入りましてございます」
好意的な笑顔を見せながら、黒鶯は杜狩と握手を交わす。二人はそのまま、互いに社交辞令を交わしながら、皇帝の待つ広間へと移動して行った。
燎宛宮の開放的な広間とは違い、元来、砦的な機能を優先させて作られている河南城のそれは、思うよりも薄暗く、重々しい印象を与える。日中でも蝋燭を灯し、それで漸く明るさを保っている。
その奥に据えられた玉座に座り、一人の男が、河南領官に導かれて広間に入って来た黒鶯の所作を見分する様に眺めていた。その探る様な視線を感じながら、黒鶯は頭を垂れたまま玉座の前に歩み寄ると、床に平伏した。
「雷将帝陛下には、ご機嫌麗しく、此度、この様なご拝謁の栄誉を賜りました事、誠に恭悦に存じ奉ります。本来ならば、領官自ら参るべき所、この様な代理を立てし事、何卒ご容赦頂きたく……」
「ああ、その事は気にせずとも良い。そなたは黒鶯と言ったか。
「はっ」
言われて顔を上げた黒鶯は、自分を見据える皇帝を逆に見分する。
「遥玲は体の具合が優れぬそうだが、加減は如何か」
「はい。何分にも、長く星導師を務めました体。湖水の外に出るは、何かと難儀な事が多く」
「そうか……遥玲は、この帝国には欠く事の出来ぬ存在。せいぜいその身を労り、養生する様にと申し伝えよ」
「はい。有難きお言葉、誠に痛み入りましてございます」
言葉を交わしながら、黒鶯は、皇帝として目の前の玉座に座っている男の、その身の内の気配を探る。そして、今まで漠然と感じていた違和感をはっきりと確認した。
……こいつ……天光の守護を受けていやがる……
天光星、即ちそれは緑星王の星だ。
遥玲に、皇帝の星を読ませると、毎回、その結果に微妙な差異を生じた。燎宛宮に緑星王がいるのは分かっていた。それが、常に天極の傍らにいる事も。だが、その正体が何なのかが、どうも掴めなかった。今回の河南行幸で、その緑星王が動いた。そして、天極が燎宛宮に留まっているにも関わらず、こいつは皇帝としてこの玉座に座っている。つまりそれは……
……こいつは、偽帝だという事だ……
それをあろう事か、緑星王が守護している。
……何を考えているんだ、全く……
星王とは、どうしてこう気まぐれなものなのか。力を削ぐべき者に、力を与えてどうする。助かる見込みのない者に、薬を与えて、命を永らえさせる様な真似をして。その苦しみをいたずらに引き延ばすだけだとは思わないのか。
……人の思いというものは、星を操る様に簡単には動かす事の出来ぬものだ……
瑶玲の言葉が胸に去来する。
……思い。思いか……
星王の魂は、その、人の思いに同調する。
何と厄介な事だろう。
「時に、黒鶯……」
「はい」
皇帝の声に黒鶯の意識は、目の前の現実に引き戻される。それから、湖水の様子などについて、辺り障りのない遣り取りがあったが、それに受け答えながら黒鶯の頭は、すでに別の事を考えていた。
……まあ、折角こうして出向いてくれた訳だからな。そこは上手く使わせて貰うか……
緑星王がどの程度の抵抗を示すかは分らないが、そこは赤星王を上手く焚きつけられれば、問題ない。そして赤星王が動けば、蒼星王も目覚めざるを得ないだろう。
黒鶯の中で、一つの計画が組み上がっていく。
皇帝との拝謁を終えて、広間を後にする黒鶯の、その口元には、満足そうな笑みが湛えられていた。
そして、その夜。
河南城の中庭では、領官の杜狩が、黒鶯たち湖水の使節を歓待する宴を催していた。形ばかりに顔を出していた皇帝が、宴の半ばで退席してしまうと、杜狩は、黒鶯の卓に息子たちを呼び寄せてこれに引き合せた。
「こちらが兄の杜亮。そちらが、弟の杜陽です」
杜狩に紹介されて、まず杜亮が手を差し出した。その手を取って黒鶯が、少しわざとらしいぐらいの笑顔で握手を返す。
「よろしく。杜亮殿……ようやく、お会い出来て嬉しく思いますよ。八卦の修行をしたことがおありとか……」
「修行などと大仰なものではありません。子供の遊び程度のもので」
「それでも、あなたは大きな力を手になさっている」
黒鶯が仄めかしているのは、巫族の匠師の事なのだろう。相変わらず、何でもお見通しという訳か。そう思うと、杜亮には少し面白くない。
「その力、ぜひとも役に立てて欲しいものですね。……この河南の為に」
「……」
それは、何かをしろという謎かけなのかと思う。
この河南の為に。
その一言に、何か含みを感じた。
「そして、あなたが杜陽殿ですか。お噂はかねがね」
言って黒鶯は、今度は杜陽とにこやかに握手を交わす。
「噂?」
怪訝そうな顔をした杜陽に、黒鶯が笑顔で言う。
「この帝国で一、二を争う程の剣の使い手だと。そのお噂は湖水にまでも、届いておりますよ」
そう褒めそやされて杜陽の表情が緩む。それを確認する様に間を置いて、黒鶯は更に続けた。
「一体、あの劉飛様とどちらが上か、見てみたいものですね」
「……劉飛?そいつは、強いのか?」
黒鶯が水を向けると、杜陽はいとも易く、その話に食いついた。
「ええ。恐らく、この帝国で一番の剣豪であるという話です。ほら、あなたと朱花の双刀と言われる劉朋殿。劉飛様は、彼の父であり、その剣の師でもあるとか」
「劉朋の……」
「それに、朱凰様はその剣の技量に惚れこんで、かのお人に心酔なさっていると。そんな話も聞こえておりますよ」
劉朋の師であり、あの朱凰に敬意を払われる程の剣の腕。そう聞くと、杜陽の心の内には、浮き立つ様な感情が湧いてくる。そんなに強い奴なら、何が何でも手合せをしてみたい。
「どこに行けば、そいつに会える?」
身を乗り出してそう聞いた杜陽に、杜狩がたしなめる様に言った。
「何を寝ぼけた事を言っている。劉飛様とは、この華煌の宰相閣下の御名ではないか」
「宰相?って……あの宰相か?燎宛宮にいる」
「ああ、そうだ。その宰相だ」
「宰相閣下か……」
「お前ごときが、軽々しくお会い出来るお方ではないのだぞ」
「まあまあ、杜狩様」
黒鶯が、その盃に酒を注ぐ。
「ここは酒席にございますれば、そう目くじらを立てずとも」
注がれた酒に口を付けて、杜狩が吐息を漏らす。
「全く、こいつは世間知らずで……」
ぼやく杜狩を片目に、黒鶯は杜陽に盃を空ける様に促した。杜陽が勢いよくその中身を口の中に流し込むと、新たに酒を注ぐ。
「なればこの話は、今宵、この場限りのもの。酒の席の戯言としてお聞き流し下さいます様……そう、単なる机上の話として」
黒鶯が、そう注釈を付けて話を始めた。
「杜陽殿、如何にすれば、かの劉飛様と手合せ出来ると思いますか?」
「手合せったって、相手は燎宛宮にいるんだろう?俺なんかが、行ったって会えるかどうか」
「では、かのお人が燎宛宮から出てくれば如何です?そしてこの河南へ来れば」
「そりゃあ、河南に来ればな」
「ならば、河南に来るための策を、一つ講じてみましょうか?」
「策?そんなものがあるのか?」
また空になった杜陽の盃に、間を空けず酒を注ぎながら、黒鶯が言う。
「宰相とは皇帝に仕える臣下です。宰相が燎宛宮にいるのは、そこが皇帝の居城だからです。では、もし、この河南城が皇帝の居城となればどうでしょう?」
「宰相もこの河南の城に?」
「その通りです。始皇帝陛下の時代は、実際、そうだったのですからね。雷将帝陛下が、この河南城を居城にするとおっしゃれば……」
「それはつまり……遷都という事か?」
「ええ。陛下が、この河南を新たな都に定めるとおっしゃれば、その臣下である宰相も、宮廷共々この地に来る事になりましょうね」
「遷都か」
そう呟いて杜陽は、酒に口を付けた。
……遷都。
酒にしたたか酔い、ぼやけた頭の中に、その言葉がふわふわと漂っていく。
それは、心に湧きたつ、抑え様のない闘争本能を満足させてやるための鍵となるものだ。そう思いながら、杜陽は夜の帳に包まれた城壁を何となく見上げた。
……居るんだよな。今。あそこに……皇帝陛下が……
黒鶯は、これはあくまでも酒の席の戯言だと言った。でもそれは、もしかしたら、手を伸ばせば届く夢ではないのか。
そこにいる皇帝に、一言、遷都の言葉を言わせるだけでいい……
側で焚かれている篝火に、吸い寄せられた蛾がその羽を焼かれ、はかなく地に堕ちて行く。その冷酷で鮮やかな紅炎に煽られる様に、杜陽の心はざわざわと落ち付かない気分に支配されていく。その気を散らす様に、杜陽は立て続けに盃を干した。
そんな杜陽の姿を見据えながら、杜亮の方はどうにも気が気ではない。
……何だか、その気になって来てるぞ、あれは……
「おい、杜陽。そろそろ……」
そう言って腰を浮かせた杜亮を、黒鶯が押し留めた。
「お前、いい加減にしろよ……」
自分を睨みつけて、小声でそう抗議した杜亮に、黒鶯はそれをたしなめる様に軽く首を振る。
「これが、俺達の使命って奴だろう。お前こそ、もう少し自覚を持て。この俺が、わざわざここまで出向いて、手ぶらで帰ると思うのか?」
何時しか酔いつぶれて、眠り込んでいた杜狩が、がくりと体勢を崩した。その勢いで盃が地に落ち、派手な音を立てて砕けた。その音に、我に返った様に、杜陽が言った。
「ああ、俺が連れて帰ろう」
しかし、そう言って立ちあがった杜陽も、大分酔いが回っていた様で、足元がおぼつかず、ふらついて、卓に片手を付いた。
「お前は、ここで少し酔いを覚ましていろ。父上は、私が連れて帰るから」
「ああ……」
杜亮にそう言われて、杜陽はそのまま素直に腰を落とした。
「まあ、杜陽殿は酒もお強いのでしょ?今しばらく、私にお付き合い下さいよ」
黒鶯が陽気な声でそういうのを背に聞きながら、杜亮は父を連れてそこから離れた。
「春位、夏位……」
囁く様なその声に応じる様に、前方の暗がりに八卦師の気配が現れた。
「お前たちは、ここに残って、何かあればすぐに知らせろ」
肯定の応えを残して、八卦師はまたその気配を消した。
……何が始まる。奴は、一体あれに、何をさせようというのだ……
何かに縋るように見上げた夜空には、蒼く冷たい光を帯びた星が一つ、
「……
それで、黒鶯がこの河南に来たのか。
この時期を選んで。
しかし、相手はあの深紅の姫だぞ。その身に纏う炎は、近寄る者を容赦なく焼き尽くす。黒鶯だって、それを知っているのだろうに。
そもそも大人しく手駒になどなろう筈のない駒だ。それに下手に手を出せば、黒鶯だとて只では済まないだろうと思う。あれは、手にした者にも災いをもたらす……諸刃の剣だ。あの周藍でさえ、赤星王を宿す杜陽の行動には不干渉という立場を取っているというのに。
「……無茶はするなよ。黒鶯」
あの炎の激しさを知る杜亮は、思わずそう呟いていた。
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