第122話 黒鶯の失態
踏み出す足は、まるで柔らかい絹を踏んでいる様で、足の裏に伝わる感覚は実に頼りない。自分は酔っているのだと。杜陽はそう思う。
杜亮が帰ってしまってから、黒鶯とまた別の話で大いに盛り上がり、酒の方も大いに進んだ。
そしていつしか、その気になっていた。
その気にさせられていた。
皇帝に、遷都の言葉を言わせるという……
これは、酒の席の戯言の続き。現実の事ではないから、試しにやってみても悪い事はない。
そんな気分になった所に、黒鶯がささやいた。
「試しにやってみましょうか」
言われて杜陽は素直に頷き、二人連れ立って今、皇帝の寝所へ向かっている。 という次第である。
「大丈夫ですか?」
壁に手を付きながら、おぼつかない足取りで廊下を歩く杜陽に、傍らを歩く黒鶯が声を掛けた。
「あ?ああ……問題ない」
こいつは、自分よりも年下のくせに。あれだけの酒を飲んで、全く乱れていない。その事が、杜陽の気分をまた幾分か高揚させていた。
面白い奴だと思う。こんな楽しい酒を飲んだのは、久し振りだった。大抵の者は、酒豪である杜陽より先に酔いつぶれてしまうのだ。だから、彼はいつも、一人で物思いをしながら酒を飲む事が多い。
これまでに、杜陽と酒を飲んで潰れなかった人物と言えば、唯一、周藍がいただけだった。
「お前、気に入ったぞ」
杜陽が上機嫌で黒鶯の肩を抱く。
「それは、ありがとうございまず。さ、もうそこですから……」
黒鶯が目指す扉を指し示すと、杜陽はそこに立っている人物に気付いて、陽気な声で話し掛けた。
「よお、劉朋、何してんだよ、こんな所で。宴にも顔を出さずに、仕事かあ?相変わらず、真面目な奴だな」
いきなり現れた杜陽と黒鶯に、劉朋の他、そこにいた猩葉をはじめ数名の兵は、一様に怪訝そうな顔をしている。
「……お前こそ何をしている。この様な場所で。ここは、陛下のご寝所だぞ」
「ああ、何だ。今宵は、お前が警護当番か。それは御苦労さま」
「大きな声を出すな。酔っているのか、お前は」
「いんや。酔ってない。酔ってない」
杜陽が顔の前で、大げさに手を振る。その言動がもうすでに、しっかり酔っ払いのものだ。
「何でも良いから、早く家に帰れ」
「あ、ああ。家ね。うん、帰る。帰るさ。用が済んだらすぐな」
そう言いながら、杜陽が扉に手を掛けた。
「何を考えている、止めぬかっ」
劉朋が鞘の付いたままの剣をその顎の下に差し入れて制止する。劉朋の行動に、杜陽が剣呑な視線を向ける。
「邪魔はするなよ?陛下とちょっと話をするだけだからな」
「そんな事が許されると思うのか。お前、自分が何を言っているのか……」
言い掛けた劉朋の肩に、黒鶯が手を掛けて、そっと耳打ちをする。
「お前、命が惜しかったら、ここを動くな」
その台詞と同時に、劉朋は体の自由を奪われた。見れば、その場にいた兵たちは、すでに意識を失い、床に崩れ落ちていた。
「縛術……一体、何のつもりだ黒鶯」
「すぐに分かる。お前は、ここにいろ。いいな?……いいぞ、杜陽、扉を開けろ」
黒鶯の言葉に頷いて、杜陽が二枚の扉を大きく開いた。
部屋の中央に、雷将帝が剣を手に佇んでいた。まるで彼らの来訪を待っていたかの様に、その落ち着いた瞳は杜陽達を見据えている。
「何か、言い忘れた事でもあったのか、黒鶯」
問われた黒鶯は、そこに何か違和感の様なものを感じながら答える。
「実は、陛下にお願いしたき儀がございまして……」
……何だ?……
自分は、何か大事な事を見落としている。黒鶯は、そんな思いに囚われる。
「今宵は、無礼を承知で、こうしてまかり越しました」
「願い、とは?」
「遷都だっ!」
杜陽がいきなりろれつの回らない声を出す。
「遷都?」
雷将帝が怪訝そうにそちらを一瞥して、黒鶯に確認する様に繰り返す。
「はい。実は、陛下にはこの河南に、遷都して頂きたく、何卒」
「……それが、湖水の意志だというのか?」
「はい……」
「それが、力ずくにでも成し遂げたい、お前の願いなのか?」
雷将帝がふと笑う。
その場違いな笑いに、今度は黒鶯が怪訝な顔をさせられた。
「命を寄越せ、ぐらいは言ってくるのかと思ったぞ……」
「出来れば、そうしたかったのですが、どうもそれは難しそうだと判断いたしました」
「成程。賢明だな、星見の一族は。しかし、残念ながら、遷都は受け入れられぬ。だいたい、動こうにも、もうあれは、あの場所からは動かせぬ」
「そう……ですか。しかし、陛下は、今、この河南にいらっしゃる」
「それはつまり、私を都へは帰さないという事か?」
「はい。陛下には、この河南で遷都の勅命を出して頂きます」
「それで遷都が成るか?」
雷将帝が嘲笑を含んだ笑みを漏らす。その様子に、黒鶯が眉根を寄せる。
「そもそも、お前、湖水の星見だというなら、私が本物の雷将帝でないことぐらい気付いているのだろう?」
「……」
「だったら、この私が、皇帝の影に過ぎず、今ここで、勅命など出しても、燎宛宮が動こう筈がないのだとは思わないか?」
「あなたが何者かなど、今は問題ではないのですよ。河南には陛下がいらっしゃるという事実は、もうここにあるのです。その陛下の勅命を無視するのだとすれば、燎宛宮の宰相は、その時点で謀反人になるという事なのですよ。お分かりですか?」
「色々と考えるものだな。だが、お前が何と言おうと、勅命は出さない」
「ならば、それでも構いません。あなたには、ただ、ここで大人しくしていて頂ければ、それ以上は望みません。後は、こちらで勝手に手筈を整えさせて頂きます」
「……燎宛宮と、戦をするというのか」
「それは、向こうの出方次第、ですが」
黒鶯の返答に、雷将帝が呆れたように笑う。
「そうか、お前の言い分は分かった。だが、むざむざ戦などさせる訳にはいかない……だから、例え、深紅を使い力ずくで来られようが、その願いは、却下だ」
雷将帝の言った、深紅の一言に、黒鶯が思わず眉根を寄せる。杜陽が深紅を宿すものだという事を、こいつは知っている。 彼が、その理由を思いつくよりも先に、雷将帝は、手慣れた仕草でその目の前で剣を回転させて宙に円を描いた。
「
その声と共に、空中に光の防御陣が現れた。と、同時に光の矢が黒鶯と杜陽の上に降り注ぐ。
「なっ……九方包囲、光樹の陣」
咄嗟に防御陣を張った黒鶯は、思わず叫んでいた。
「八卦師だと、馬鹿な」
雷将帝が八卦師。勿論、本物ではないとはいえ、これは、思い切り不意を突かれた。
「杜陽、奴を足止めしろ。ここで飛空術を使われたら、逃げられてしまう……杜陽?」
そこに佇む杜陽は、黒鶯の陣に弾かれ砕け散る光の矢を、魅入られた様に見据えている。その身がほんのりと紅い光を帯びている。
……覚醒だと?こんな時に……
「杜陽っ!」
黒鶯の叫び声に、杜陽が剣を抜き放った。するとその剣から、炎が噴き出した。
「まさか……」
杜陽が炎の纏わる剣を、思い切りよく振り下ろした。その炎が、そこに飛び散る光の塊を両断する。瞬時に、室内が火焔に包まれた。
その炎の中に、鮮烈な緑色の光が生じる。そこにいた筈の雷将帝の代わりに姿を現したのは、緑星王だった。そして、その身に纏う緑の光が、何かを挑発するかの様に、更に濃くなっていく。 それを見て、杜陽が不敵な笑みを浮かべた。
「止めろ、杜陽っ!」
彼は黒鶯の声などもう聞いていなかった。
深紅の閃光が部屋に走った。
炎を纏った女神の姿がそこにあった。
そして、その女神の冷徹な瞳が、黒鶯を捉えた。
「……この身を自由にしようなど、人の身の分際で、身の程を弁えよ」
そう言われた瞬間に、黒鶯はその身に衝撃を受けた。
「ぐあっ……」
激痛に思わず手をやった黒鶯は、そこにあるべき筈の腕が無くなっている事に気づいた。勢いを増していく炎が黒鶯の体を嬲る様に、その触手を伸ばしてくる。 それを呆然と見ながら、しかし、あまりにも大きな動揺に、体は固まった様に動かなかった。巻き上げる炎の渦が身に迫るのをただその瞳に映しながら、黒鶯の意識はそのまま遠退いて行った。
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