第111話 予兆

――大陸歴二六八年、春、湖水。


 窓一つなく、光を遮蔽したその部屋の中央に、遥玲ようれいが佇んでいた。そもそもは闇に閉ざされた空間なのに、部屋全体が、微かにほの明るく、遥玲の姿が確認出来るのは、床に描かれた大きな占術盤の上に浮かぶ数多の星の光のせいである。

 しばし、盤を見据え精神を集中していた瑶玲が両手を広げ、占術盤の上にかざした。その手に操られるかの様に、盤上の星たちが、一斉に動き始める。その中で、南のかたを指す場所に、ひときわ明るく、赤みを帯びた星が浮かび上がった。


 その美しさに、傍らにいた黒鶯こくおうは、思わず感嘆の声を漏らした。その深紅は、気品のある気配を纏って他を圧倒する。ただ、黙ってさえいれば、その近寄りがたき美しさは、崇拝の対象にもなるのであろう。だが、彼女の容赦ない冷酷な気質は、実に、それを全て台無しにしていると言えた。


「あのじゃじゃ馬が……十八年振りに、ついに戻って来るか……」


 それは、この帝国を滅ぼす星。

 天闇星てんあんせい

 火司かしの女神の星だ。


「……この年半ばには姿を見せよう。それから三年掛けて、その光は極大にまで強くなる」

「では、赤星王に施した封印も、風前の灯という訳だな」

「あ奴が真に目覚めた時、そこに立ちはだかるものがあれば、容赦なく薙ぎ払うだろう。間違いなく、大きな戦になろう」

「まあ、そうならない為に、我らがここにいる訳ですからね」

「如何する」

「そうだな……安全策として、障害物は退けておいた方が無難か」

「では、燎宛宮を……?」

「二つに割る。あそこには、力が偏りすぎているからな。いずれかの星王に、燎宛宮から退いて貰おう。それと……蒼星王の方もそろそろ起こしておくかな」

 そんな思案顔の黒鶯を、遥玲がやや冷めた目で見据えている。


「黒鶯」

「はい?」

「人の思いというものは、星を操る様に簡単には動かす事は出来ぬものだ。覚えておくといい」

「はあ……まあ、それは承知している積りですが」

 殊勝な顔をしてそう答えた黒鶯に、遥玲はつい笑みを漏らす。


 子供の頃から、利発な子だった。言葉を発する様になるのも格段に早かった。そして、まだ三つにもならない内に、自分は玄武としての使命を果たす為にこの世に生を受けたのだと、そう宣言された。同じ頃、白星王の存在を感じ取った遥玲は、自分はこの子の母親というよりも、その仕事を補佐するべく側に置かれた存在なのだと認識した。


 以来、この国の未来を定めるべく、黒鶯の求めに応じて星を動かしてきた。だが、そうして人の運命を操るうちに、人の運命を決めるものは、外からの強引な力ではなく、その者が持つ、内からの強い意志なのだと思うようになっていた。それは、八卦師といえど、触れる事の出来ない不可侵の存在……。そしてその存在故に、物事は動いていくのではないかと。

 八卦など使わずとも、人の意思は星さえも動かす。そう言ったら、言い過ぎだろうか。


「恋の一つもせぬお前には、まだまだ、積りのままなのであろうな」

「母上……」

 黒鶯がいかにも嫌そうに、顔をしかめた。

「折角、この世に生を受けたのだから、この母に孫の顔でも見せてやろう、という気にはならぬものかの」

「……そのっ、お話は、事が落ち着きましたら、いずれ又という事でっ」

 目下、人生最大級の苦手な話題を振られて、黒鶯は慌てて礼をすると、空中に八卦の陣を描き、あたふたと部屋から退散した。





 同じ頃、燎宛宮でも、八卦の占術盤を前に、翠狐すいこが星を読んでいた。

「やはり、南、ですね」

 傍らにいた天祥に、確認する様に言った。

「不審な影、か。どう思います?」

 天祥が隣にいる劉飛に見解を求める。

「南……か」

 劉飛がしばし、思案する様に押し黙った後、口を開いた。

「実はな、湖水に、不審な動きがあるという報告が来ている」

「湖水?」

「どうも租税の帳簿に細工がされている様でな。本来こちらに来るはずのものが、他に流れている様だと。今、その行方を調べさせている所だ」

「成程、きな臭い匂いはしている訳か……しかし寄りによって、南とは」

 天祥が難しい顔をする。その横で、翠狐が盤上の星を手繰りながら、呟く様に言う。

「何せ南は、天闇星の支配域ですからねえ……何事も無く済めばいいですけど」

「……赤星王が目を覚ますかも知れないと?」

「天闇星は、唯一、その出現に法則性がない星なんですよ。大抵、いつも、何の前触れもなく、いきなり現れるんですがね、どうも、今回はその気配を感じるんです」

「気配?」

「ええ。全てを灰燼かいじんに帰す様な、恐ろしく大きな力の気配。本来なら、気配を気取られる事などあり得ないのに、力が大きすぎて、隠しきれなかった、みたいな?」

「……」

 翠孤の言に、劉飛と天祥が共に腕組をしたまま、占術盤の一点を見据えて思案顔になる。


「湖水で何かあった場合、都からでは、距離がありすぎて、対処が間に合わない可能性が高いです」

 天祥の意見に、劉飛も頷く。

「ああ。それに湖水は、何かと河南と関係が深い。この二つが手を結ぶ様な事になったら、厄介なのは間違いないしな。何か手を打って置く必要がある。……姫英きえいに、河南方面で演習でもさせてみるか」

「もし、湖水が本気で燎宛宮からの造反を考えているなら、皇騎兵軍の移動は、それ自体が、事態を加速させる要因になる可能性があります」

「演習という名目では、駄目か」

「……もっと、それらしい名目が欲しいですよね。皇騎兵軍が河南へ行っても警戒されない様な……例えば……そう、皇帝陛下の行幸とか」

「行幸?」

「それなら、皇騎兵軍が護衛と称して付いていてもおかしくはないですよね?」

「皇帝陛下の行幸って、お前が河南へ行くのか?」

「ええ。行って、この目で確かめて来ますよ。南で何が起ころうとしているのかを」

「……良案ではあるが、危険過ぎるだろう。皇帝自らとは」

「大丈夫。私には、緑星王が付いています。それに、戦をしに行く訳じゃないですしね」

「それはそうだが……」

 他に良い策も出なかったので、天祥のその言葉で、方針は決まった。

「留守は頼みます。それから、妃達の事も」

「ああ、こっちの事は心配いらない。任せておけ。しっかし、この案は、妃様方に、酷く責められそうで、気が重いぞ。 目一杯、腕の立つ護衛を山ほど付けてやるから、ご心配には及びませんと言って、納得して下さるかどうか」

「そこは、宰相閣下の腕の見せ所でしょう」

「気易く言ってくれる」

 劉飛は肩をすくめて、翠狐と共に、そのまま執務室へ戻って行った。

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