第112話 星天公子
一人残された天祥は、ふと占術盤に目をやった。と、そこに一瞬、宝玉の様な艶やかで華やかな輝きを帯びた深紅の星が浮かび上がった。その美しさに引きこまれて、天祥は思わず視線を釘付けにされた。そして、そこに畏怖を感じて、何か身の竦むような感覚に支配される。息苦しさを覚え、金縛りにあった様に、身を動かす事が出来なかった。
……挑発のつもりか……
ふと聞こえた緑星王の声に、天祥はようやくその呪縛から解き放たれた。安堵の思いと共に、ほうっと息を吐く。
「あれが、赤星王……なのですね」
……怖いか?……
「……正直、怖いですね」
そこに、有無を言わせず、人を引き込んでいく強力な引力を感じた。それと対峙したら、自分を見失ってしまいそうな、そんな恐怖を感じる。それでも……
「それでも、私は守るべき人の元へ戻ってきますよ、必ず」
……お前は、それでいい……
その声と共に、天祥の体は、緑星王の穏やかな気に包まれた。緊張感も恐怖心も、ゆっくりと解きほぐされ、溶かされていく。
身近に運命を左右する、何か大きなものが迫っている。それでも、自分は又それを飛び越えて、その先にまで行くのだ。今までそうだった様に。
……そう、守るべき者たちの為に。きっと……
そんな思いを胸に、天祥は踵を返すと、
後宮の庭に、子供の歓喜の声が響いていた。八年前、入内と共に懐妊した珀優は、翌年、男児を産んだ。
これにより、珀優は皇帝の正妃となり、今は
その珀優の子、
帝国の財政状況に余裕がない中でのこの扱いに、宮廷では異を唱える者も少なからずいる。そんな声が上がること自体、由々しき事なのだが、現実問題として、ここ数年、雷将帝の皇帝としての威光に、陰りの様なものが見え始めていた。公子に対するその過剰なばかりの過保護な扱いに、多くの臣下が眉をひそめ、皇帝に対する信頼に影を落としていたのである。
その件に関して、劉飛は宰相として幾度か皇帝に諫言を試みてはいた。 だが、その原因が、天祥と珀優の不安の裏返しであると気づかされると、強く異を述べる事が出来ず、やがてそれを黙認する様になってしまった。
実は、星天公子は産み月よりもひと月近く早い早産で生まれた。丁度、その時、
先の太后と同じ天暮という星を守護星に生まれてきた公子に、誰もが複雑な思いを抱いた。劉飛の計らいで、公には、華妃様は予定通りのご出産で、公子の守護星は天光星であるとされたが、真実はそれを知る者の心に、重く暗い影を落としていた。
天祥は、国中から高名な学者を集め、公子が幼き頃から、その教育に熱を入れた。また、剣の達人でもある宰相に、忙しい公務の合間を見て、直々に剣の手解きをして貰ってもいた。まるで足りないものを補うかの様に、天祥は、皇帝の力の限りを尽くして、公子に思いつく限りの、ありとあらゆるものを与えた。
その甲斐もあって、御年七歳になる公子は、実に素直で聡明な子供に成長していた。それでも、天祥の中で、心に重くのしかかる、天暮という存在が消える事はなかった。
……この子供は、華煌という国と引き換えになる子供かも知れない……
かつて、緑星王に言われたその言葉を思い返す度に、言い様のない不条理な思いが心に広がっていく。
何故人は、天の星によって、これ程までに翻弄されなければならないのか。そもそも星王という存在は、人を守り導くべきものではないのか。
それが、きまぐれに輝く星に、その運命を左右される。そんなものに幸せを奪われる。それを、神が与えたもうた試練だと、人は甘んじて受けるべきなのか……と。
「父上っ」
毬を追っていた公子が、天祥の姿を見つけて駆け寄ってきた。天祥が、その小さな体を高く抱き上げると、公子は盛大に歓喜の声を上げた。
「また、重くなったな」
そう言うと、自慢げに毎日食事を残さず食べているのだという返事が返って来た。それを聞いて、天祥が笑うと、公子もはにかんだ笑みを浮かべた。
こうして、その存在の確かさを感じる度に、天祥は安堵し、そしてまた、星王という存在を、運命を否定したいという思いに繋がっていく。無論、自身に宿る緑星王という存在については否定できない。その力が、間違いなく自分たちを守護するものであるという事も信じている。だがその星王の力が、この世の全ての理を支配している神の力なのだという点については、未だ納得出来ずにいる。
地上の王を、天の星王が決めているという言われについても、又、然りだ。それが真実なら、星王に選ばれた王の治める国で、戦など起き様はずがないからだ。
それに、皇位を継いでいる珀優は、その身に黄星王を宿している訳ではない。星見の宮で、即位の儀を執り行った時に、星王から神託を聞き、
その真偽の程は、本人にしか分らない。そして珀優は、その時、まだ四歳だった。
果たして、幻覚や錯覚の類の事と、現実の事の区別が付いたのかどうかと考えると、天祥は、やはりその存在に疑問を抱いてしまうのだ。
その話題を持ち出すと、珀優は決まって不機嫌になる。この国を守護する神の存在を否定するなど、もっての他だと言う。そして、自分は確かに、黄星王と会って御印を得たのだと強く主張する。しかし……
『流れるような艶やかな黒髪を持ち、透き通る様な白い肌をした美しい女神の姿は、今もしっかりと、この目に焼き付いている。あの様なもの、忘れようとしても忘れられはせぬ』
何時だったか、そう言い切った珀優の言葉に、天祥の中の疑念は、却って大きくなってしまったのだ。
天祥は黄星王に纏わる話を、かつて緑星王から聞いた事がある。そこで聞いた話が真実だとすれば、珀優が会ったのは黄星王ではないという事になるのだ。
何故なら、黄星王は女性ではないのだから……
その事を知った時、自分達は、何か取り返しの付かない間違いを犯しているのではないか。そんな恐怖心に囚われた。自分達の拠って立つ所が、足元から崩れ落ちる。そんな思いに囚われた。
そこから逃れる為には、天祥は、どうしても星王という存在を否定しなければならなかった。星王が皇帝を定めるという理を否定しなければ、雷将帝の存在自体が否定される事になりかねない。 そして、それ以上に、星天公子の存在を守る為に、それが必要だったのである。
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