第113話 不出来な弟
扉を激しく叩く音に、
「琳鈴様、いらっしゃいますか?」
返事のないのに業を煮やした様に、外から催促する様な声が彼女の名を呼んだ。用件など、聞かずとも分っている。大方、また
「今度は、何ですか?」
ようやく扉を開けた琳鈴に、杜陽に付けた従者の男が慌てふためいた様子で、杜陽様が、酒場で
「
この男は、琳鈴よりも年は上の筈だが、そんな大の大人の尋常でないうろたえ振りに、琳鈴は失望のため息と共に、肩を落とした。
これで何人目だろう。少しは骨のある男を選んだ積もりだったのに、たかが喧嘩ごときで、これ程うろたえるとは、全く使えない。
……そりゃあ、杜陽の喧嘩が、かなり派手なのは認めるけれど……
また、新たに杜陽の従者を探さなければならない。そう思うと、琳鈴には頭が痛い。
「場所はどこです?」
外套を羽織りながら聞くと、怯えたままの従者をそこに残して、琳鈴は一人、夜の街へと出て行った。
五年前、杜家では二人の息子が十三になったのを機に、成人の儀を行った。その日から、琳鈴は守役から解放され、大人の仲間入りをした杜家の兄弟は、領官である父の元で、共に立派に働いている。 ……筈だった。
兄、
そして父から謹慎を言い渡されて、屋敷に戻って以来、働きもせず、日々、市中を遊び歩いている。
初めは、子守役の延長で仕方なく、その後を、琳鈴が付いて回っていたが、やがてその出入り先が、女では入りづらい場所になるに付け、屋敷の下男を従者として付けた。 が、誰も彼も、杜陽の豪放ぶりに付いていけず、この五年で、二桁を数える程の従者が、屋敷から去っていった。
……こんな時に、
杜陽の後始末に呼び出される度に、琳鈴はそう思わずには居られない。
その周藍に仕込まれた剣の腕のお陰で、恐らく、力では、杜陽を屈伏させられるものなど、この河南にはいない。本人もそれを知っているから、その増長は留まる所を知らないのだ。
河南領官である父、
杜亮が屋敷にいれば、杜陽を上手く宥めて連れ帰ってくれるのだが、杜亮がいない時には、唯一その扱い方を心得ている琳鈴が、こうして出向く羽目になる。
我ながら、損な役回りだと思う。
だが、敬愛する杜夫人、
「琳鈴だけが頼りなのです。頼みますよ」
などと言われてしまっては、嫌とは言えなかった。
そもそも楓弥さまの様な夫人になるのだと憧れて、この杜家に行儀見習いとして来たというのに。いつの間にか、その道から大きく反れて、というか、すでに、そちらの方とは無縁の道を歩んでいる感がある。間違いなく、婚期は逃してしまったと言える。
……もう、来年は
浮いた話の一つもない。そう思うと、
唯一の肉親である兄も、そういう話には無関心で、いい歳をして独り身なのだから、妹の婚期の事など、考えた事もないのだろう。実際、そういう兄だ。
少しでも楓弥さまに喜んで頂きたくて、少しでも楓弥さまのお役に立ちたくて、あの珍獣どもの扱いを覚えてしまったのが、間違いだったのだと、今更ながらに思う。
そんな後悔の念に苛まれながら、足もとのおぼつかない酔っぱらいの行き交う歓楽街を歩いていた琳鈴は、その人の波の中に、覚えのある顔を見つけた。
どん底にあった気分が、一気に高揚する。
「杜亮さまっ」
琳鈴が声を掛けると、それに気づいた杜亮が笑みを返した。その笑顔に、不貞腐れて、ささくれた心が一気に癒される。
「丁度良い所に……実は、杜陽さまが……」
皆まで言わない内に、琳鈴を制して杜亮が言った。
「ああ、分かってる。城を出る時に、杜家の放蕩息子が、また騒ぎを起こしているって話を聞いたから。場所は?」
「あ、はい。こちらです」
琳玲は杜亮を案内する様に、先に立って歩き出した。現金なもので、先刻までは、一歩一歩があれ程重かったのに、杜亮が隣にいるというだけで、足取りも軽くなっている。
こんな気持ちを、恋と呼ぶのかは分らない。勿論、杜亮は杜家の嫡子であるから、結婚となれば、それに相応しい家の娘を娶るのだろう。琳鈴だって、十以上も年下の杜亮と、そういう事を望んでいる訳ではない。ただ……一緒にいると、心が落ち着く。そして、それを、とても心地よく感じる自分を、今は大目に見てやってもいいのではないかという思いが強かった。
……夢を見るぐらいは構わないわよね……
現実には、もう叶う当てのない夢なのだから、その位は許されるだろうと。琳鈴は少し浮かれながら、杜亮と二人、街を歩いた。
二人が目的の酒場に行き着いた時には、もう騒動は終結していた。店は半壊状態で、その瓦礫のそこここに、男たちがのされて気を失っている。 野次馬をかき分けて、店の中に入ると、杜陽は卓の一つにうつ伏せて、意識を失っていた。
あの杜陽を、打ち倒した者がいたのかと、琳鈴は色めき立ったが、店の主人の話では、元々泥酔していた所に、大立ち回りをしたせいで、酔いが回って、最後の一人を打ちのめした途端に倒れてしまった様だという事だった。
杜亮が、何時もの様に、淡々と店の賠償の話などを済ませ、人を雇って杜陽を担がせると、二人は帰途についた。
「……何時までも、世話が焼けて。全く、困ったものですよね」
歩きながら、珍しく杜亮が愚痴めいた言葉を零した。ただ、それにそのまま頷く訳にもいかないから、苦笑しながら琳鈴は、さりげなく話を逸らす。
「杜陽さまには、何かなさりたい事が、おありなのではないでしょうか……」
これは琳鈴の
「そうですね……それがまだ、見つけられないで、苦しんでいるのかも知れない」
「苦しんで?」
「何となく。私も同じだから」
「杜亮さまも?」
何の問題もなく、日々を過ごしている様に見える杜亮が、そんな事を考えているとは、意外だった。その理由を問う様な琳鈴の視線に、杜亮は、思い切った様に口を開いた。
「私は、近くこの河南を出るかも知れません」
「え……」
突然の宣告に、琳鈴は言葉を失った。
「星が……」
言いながら、杜亮が空を仰ぐ。
「そう告げているから。多分。この身に、何か変化があると」
抑えきれない動揺に戸惑いながら、琳鈴も又、杜亮の見ている空を見上げた。
「もうずっと前から、今の場所は、自分がいるべき場所ではない気がしていた。だから、変化が来るというのなら、私はこの河南から外へ出たいと思っている」
「でも、杜亮さまは、杜家の嫡子じゃありませんか。それを……」
「私がいなくても、杜陽がいますから」
「でも、杜陽さまは、杜家のお血筋では……」
「琳鈴先生」
琳鈴が言いかけた言葉をたしなめる様に、杜亮がそれを遮った。
「だから、私に何かあった時には、杜陽を頼みます」
「い……嫌です。そんな……」
「先生……」
杜亮が、懇願する様に言うのを、琳鈴は大きく首を振り、精一杯の拒絶の意思を示す。
そんなの酷すぎる。
勝手にそんな事を決めて。
勝手に頼んで。
勝手に押しつけて……
思わず溢れそうになった涙を堪える為に、琳鈴はきつく唇を噛んだ。口を開いたら、泣き出してしまいそうで、それから屋敷に着くまで、琳鈴は黙ったままだった。
そんな琳鈴の様子を察したのか、杜亮もまた、それ以上は言わず、黙ったままだった。
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