第114話 恐怖と怒りと失言と
喧嘩慣れしているとはいえ、酔った体で、両手に余る程の男たちを打ち倒した杜陽の体には、そこかしこに傷跡があり、結局その手当をするのは琳鈴の役目になった。先刻、杜亮の言った言葉が、未だ琳鈴の中で納得出来ないまま漂い、その心を掻き乱していた。
杜陽の傷に、一つ一つ薬を塗り込み、包帯を巻いていく。今日はその作業が、殊更厭わしかった。しかも、眠り込んでいる杜陽から、耳障りな高いびきが聞こえる度に、酒臭い呼気が吐き出されて、その事が又、琳鈴の感情を逆なでしていく。
手当を終える頃には、憎悪の感情が募り、殺意にも似た感情が芽生えていた。ふと、布を裁断する為に使った小刀の冷たい光が、琳鈴の目に止まる。暗い感情に支配された心は、衝動的にそれを逆手に掴み、何かを考えるよりも先に、目の前に横たわる男の体に振りおろしていた。
何が起こったのか分らなかった。
気がついた時には、小刀を握った手は強い力に抑えつけられて、体は床に引き倒されていた。すぐ目の前に、杜陽の鋭い瞳があった。
琳鈴の体は、杜陽に組み敷かれて、動くことすらままならない。という状況である。
「離して……」
琳鈴の声に反応する様に、杜陽の瞳が、すうっと細くなり、そこに血の様な深紅の色を宿す。そして、ぞっとする様な嘲弄を含んだ声が言った。
「私に手を上げるとはな。命が惜しくないのか、お前は……」
……これは誰……?……
瞬間にそう思っていた。
これは杜陽ではない……
そんな琳鈴の戸惑いを面白がる様に、杜陽が酒臭い息をその顔に吐きかける。思わず顔を背けた琳鈴を、杜陽の手が顎を掴んで強引に引き戻した。嘲る様な表情が、ゆっくりと琳鈴の上に降りてくる。そしてまさに唇が触れようとした、その刹那。
杜陽の左の頬に、琳鈴の渾身の張り手が炸裂した。
「いってぇ……何すんだよ、先生」
その声に、体に圧し掛かっていた重たい空気が、一瞬にして、かき消された。
自分の下で、琳鈴が顔を蒼白にして、表情を強張らせたままこちらを凝視しているのに気づいて、杜陽は困惑する。
「……ていうか……何してんの?先生」
「早く、退きなさいよ、馬鹿っ!」
そう言われて、身に覚えのない事とは言え、どうやら自分が琳鈴を押し倒している様だという現状を理解した杜陽は、慌てて琳鈴の上から飛び退いた。
「悪い……その、酔っぱらっていたとはいえ……あの……」
身を起こした琳鈴は、杜陽に背を向けると、両の手で自分の身を抱く様にして縮こまり、肩を震わせていた。
……泣いてんのか……
そう気づいて、杜陽は狼狽し言葉に詰まった。
こういう場合、どうしていいのか分からない。これまで、手慣れた商売女しか相手にした事がないのだ。お互いに同意の上で、払った金子の分、遊ばせてもらう。そんな軽い気分でしか女を抱いた事はなかった。それが、よりによって自分は、この世で、一番冗談が通じない相手を押し倒してしまったらしく……
……でも、
杜陽がそんなお目出度い思考を巡らせている一方で、しかし、琳鈴の状況は、かなり深刻だった。
怖かったのだ。
とにかく怖かった。
生まれて初めて死を意識した。
あからさまな殺意に晒されながら、弄ぶ様に嬲られた。あそこで杜陽が正気に戻らなければ、自分は間違いなく殺されていた。
その恐怖感は筆舌に尽くし難い。そこから解放されて、身の安全を感じると、大きな虚無感襲われた。その場から逃げ出したいのに、体が言う事を聞かない。琳鈴はただ、身を固くしてうずくまるしか出来なかった。
更に、感情の制御までも出来なくなっていた。ただただ、涙が溢れて止まらなかった。異常な状況に晒された体が、必死に元の状態に戻ろうとしているのを感じた。
ただ抗わず、じっとなすがままにしていた。やがて、流した涙の分、気持ちの昂りが溶かされていった様に感じ始めると、琳鈴の心の底からふつふつと沸き上がって来たのは、怒りだった。
そもそも、自分がこんなに怖い目にあったのは、誰のせいなのか。
何もかも、この杜陽が、ここに居るからだ。
「あなたがここに居るから……」
だから、杜亮が河南を出るなんて言い出すのだ。
杜陽が居なくなれば、杜亮だって河南に留まる筈だ。
……そう、この河南を去るべきなのは、杜亮ではなく、杜陽の方だ……
その思いが感情を爆発させた。
「あなたは、どうしてここに居るのっ!」
琳鈴の突然の激高に、杜陽は面喰った様な顔をしている。そんな戸惑った様な態度が、琳鈴の怒りを更に煽る。
「ろくに仕事もせず、遊び呆けて。この家に不満があるのなら、さっさと出て行ったらどうなのっ?あなたなんか、どうせこの家とは何の縁もない、拾われ子のくせに!」
琳鈴の言葉に、杜陽の表情が固まった。
「……拾われ子?……」
杜陽が呟く様に繰り返した言葉に、琳鈴は、はっとして口を閉ざした。言ってはならない事を言ってしまった。自分の軽率さに、心が動揺する。
「それ、本当なのか?」
琳鈴は、意外な程静かな杜陽の口調に戸惑う。何と答えていいのか分らない……。
「……」
しかし琳鈴の沈黙を、杜陽は肯定の答えと受け止めた様だった。
「そっか。それでなのか……」
自分に言い聞かせる様に呟いて、杜陽が低く笑った。
「それでか」
「あの……違うの。杜陽?今のは、ね……」
声を掛けた琳鈴に、一瞬向けられた杜陽の顔は、口元だけは笑ってはいたものの、どこか悲しげだった。その瞳の奥に、涙を見た気がしたのは、琳鈴の気のせいだったのだろうか。しかし、それを確認する間もなく、杜陽は、開け放たれていた窓を身軽に飛び越えて、外へ飛び出して行ってしまった。
「杜陽っ」
追いすがる様に叫んだ琳鈴の声に、振り向きもせず、夜の闇の中へ消えた杜陽は、そのまま戻る事はなかった。
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