第115話 さらわれた杜亮
翌日になっても、杜陽が戻っていない事を知った琳鈴は、落ち付かない気分で、屋敷の中を行ったり来たりしていた。
兎に角よく遊び歩いていて、数日戻らないなどという事は珍しくもない事なのだが、昨日の今日で、やはり気にならない訳がない。 下男を何人も走らせて、思いつく限りの立ち回り先を探させたが、午後になっても、その居場所は掴めないままだった。
思いあぐねた琳鈴は、城にいる杜亮の元へ赴き、自分の軽率な発言のせいで、杜陽が家出をしたかも知れないと打ち明けた。 事情を聞いた杜亮は、明るい顔で心配はいらないと言ってくれたが、気がつけば杜亮は深刻な顔をしており、琳鈴は改めて事態の深刻さを思い知らされた。
それから琳鈴は、杜亮と共に、街中を文字通り走り回った。だが、やがて夜の
落ち付かない気分を抱えて、次第に重くなっていく足を引き摺りながら歩く。後悔で一杯の体からは、溜息が引っ切り無し出続けている。そんな琳鈴を気遣う様に、杜亮が声を掛けた。
「先生は、もう屋敷に戻っていて下さい。夜も更けて来ましたし、この辺りは物騒ですから」
「でも……」
杜亮が、琳鈴の乱れた髪をそっと撫でて整える。
「先生が責任を感じる事はないんですよ。杜陽はもう、子供ではないんですから……」
言いながら、杜亮が器用に琳鈴の髪から
「こんな風に、髪を振り乱して、追い掛け回す事なんて、ないんですよ」
「でも私、杜陽に謝らなければならないもの」
琳鈴の言葉に、杜亮が少し嘲笑を含んだ笑みを浮かべた。
「ずるいですよね。何もかも、先生に押し付けて」
杜亮の表情とその言葉に、琳鈴は戸惑う。
「本来なら、私たちが成人した時に、あいつが養子だっていう話は、両親がすべきだったんですよ。それを、あいつの様子を伺いながら、先延ばしにしている内に、今まで来てしまった。で、結局、その厄介な役までも、先生に押し付けてしまった訳ですよね。父も母も……」
「そんな事は……」
「先生は人が良すぎるんですよ。もっとご自分を大事になさった方がいい……嫌な事は嫌と言える様に」
杜亮の指が、琳鈴の顔の輪郭をゆっくりとなぞり下りて行く。そしてそのまま、そっと小さな唇をなぞった。その指の感触に、心臓があり得ないぐらい、大きな音を立てた。その刹那、琳鈴の脳裏を、不意に深紅の瞳が過った。消した筈の恐怖が心の端を掠める。
「嫌……」
消え入りそうな琳鈴の声を聞き止めて、杜亮が手を引いた。
……そこはかとなく、気まずい空気が流れる。
「ち、違うの、今のはっ、そういう嫌ではなくて……」
慌てて弁解する琳鈴の姿が可笑しかったのか、杜亮が堪え切れずに噴き出した。流石にここで笑っては失礼だと思ったのか、慌てて顔を背けて、必死に笑いを噛み殺そうとしているが、その甲斐もなく、結局、杜亮は、彼女の目の前で肩を揺らしている。
「わ、笑う事はないと思うんだけど」
「いや、だって、ここでそんな風に返されるとは思わなくて。そりゃ、嫌なら嫌で……構わないんですけど」
「だから、嫌って、そういう意味じゃ……」
言った琳鈴の方も、何だか混乱してきている。まさか自分は、条件反射の様に、そう言う事に対して恐怖心を感じるのか。あの深紅のせいで。
……そんなのって、あんまりじゃない……
こんなんじゃ、まともな恋など出来はしない。そんな事を考えながら、大きなため息を落とした所で、杜亮に呼ばれた。
「先生……」
その声に緊迫感を感じて顔を上げた琳鈴の腕を、杜亮がいきなり掴んで体を引き寄せた。
「え、何?」
驚いて視線を巡らせると、琳鈴の身を隠す様に立ちはだかった杜亮の向こうに、黒装束に身を固めた数人の男たちの姿があった。 その剣呑な視線は、明らかに自分たちに注がれていて、琳鈴は思わず杜亮の衣を掴んでいた。
「杜家の楓弥様のご子息、杜亮様とお見受けいたしますが」
男の一人が言った。
「だったら何だ?」
「我らに、ご同道頂きたく。何卒」
「今は、お前たちに付き合っている暇などない。どこぞで遊び呆けている愚弟を迎えに行く途中なのでね」
杜亮の返答に、男たちは互いに視線を交わす。
「では、力づくでお連れするという事で」
一人が言うと、男たちが二人を取り囲む様に散った。
「光樹の陣、九方包囲、光縛」
男の声が言うと、眩い光の帯が四方に伸びて、杜亮の体を絡めとろうとする。
「八卦師かっ」
杜亮が琳鈴を庇いながら、辛うじて光をかわす。
「結界、星型の陣」
杜亮の声と共に、二人の周りを光の壁が覆い男の術を遮蔽する。
「……大丈夫?」
琳鈴が心配そうに訊くと、杜亮が自信無さげな笑みを浮かべた。
「どうでしょうねえ。私が使えるのは、防御陣だけですから……助けが来るまで、力が持てばいいんですけど。こんなに大勢で来られては、何とも」
「情けない事言うんじゃないの。あんな奴らにかどわかされるなんで、私は断じて嫌よ」
琳鈴の台詞に、杜亮が失笑する。
「何だか、余計な事を言ってしまったかな……嫌の数が急に増えた……」
「え?」
聞き返した琳鈴の唇に、杜亮の唇がそっと触れた。
「……」
その余韻を感じる間もなく、容赦のない声と共に、渦を巻いた風が光の壁を切り裂いた。
「五行操術、桜花風塵っ」
風に弄られて、杜亮が挿し直した
「杜亮っ」
しかし、そこに伸ばした手は届く事はなく、琳鈴は一人、暗い闇の中に放り出された。
「おいっ……おいっ」
すぐそばで馴染みのある声がして、体を揺さぶられた。
「先生っ」
そう呼び掛けられた瞬間に、琳鈴は覚醒した。目の前に杜陽の顔があった。
「何してんだよ、こんなとこで」
……こんなとこ?……
言われて、半ば朦朧としながら、琳鈴は辺りを見回す。歓楽街の外れの、裏道の暗がりに、板塀に寄り掛かる様にして座っていた。 ふと頬を掠めたそよ風が、道に落ちていた桜の花びらを撒き上げた。それを見た途端に、琳鈴の思考が正常に働き出す。
「あなたこそ、何しているのよっ!こんな所でっ」
琳鈴の剣幕に、杜陽が口ごもる。
「何って程の事もないけど……」
「あなたのせいで、杜亮はっ」
「兄貴?」
「連れて行かれてしまったのよ。何だか訳の分かんない八卦師に」
「何で兄貴が」
「知らないわよ……知らないけど……」
喋る内に感情が昂って、堪え切れずに琳鈴は涙を零す。
泣いている場合じゃないのに。早く、杜亮を助ける方法を考えなくてはならないのに。どうしていいのか分からない。
「先生……」
泣きながら小刻みに震えている琳鈴の体を、杜陽がそっと抱き寄せた。その温もりに、琳鈴は言い様のない安心感を感じた。そして堪え切れずに杜陽の胸に顔を埋めて、ただ、泣いた。
「お願い……助けて……杜亮を助けて」
泣きながら、琳鈴はうわごとの様に、そう繰り返していた。
そして……
「大丈夫だから。兄貴は、きっと俺が助けるから……だから、安心しろ」
耳元で囁かれた声に、安堵する様に、琳鈴の意識はまた、遠のいて行った。
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