第25章 紡がれる絆

第107話 私の半身

 春の明るい陽の光を目にすると何時も、珀優はくゆうの心には姫貴妃ききひの姿が浮かぶ。姫貴妃と初めて会ったのは、珀優がまだ心の病を抱えていた頃だった。


入内して程無く、姫貴妃が体調を崩したと聞き、崔遥さいように頼み込んで、その様子を見に、妃官として春華の宮へ入り込んだのだ。その頃は、皇帝という肩書なしで、人と対する事がまだ怖かった。だけど、姫貴妃の婚約者であった天祥てんしょうを、自分が取ってしまったせいで、 姫貴妃は望まぬ入内をし、馴れぬ環境に気負い、そのせいで病を得たのだと思うと、居ても立っても居られなかった。


 だが、姫貴妃は、病だというのに、緊張して固くなっている新参の侍女に、とびきりの明るい笑顔を見せて、その緊張を解きほぐしてくれたのだ。 不慣れで手際の悪い珀優に、嫌な顔もせず、一つ一つ丁寧に、何をどうすればいいのか指示をしてくれた。


 そんな細やかな気遣いのできる姫貴妃を、珀優はすぐに好きになった。そして、いつも心を優しく包み込んで、温かくしてくれるその笑顔が好きになった。だから、その笑顔の為になら、自分は何でも出来る。姫貴妃の為になら、何だってしてやる事が出来る。……その筈だった。



 天祥から、崔遥が暗殺されて、その嫌疑が姫貴妃の父、姫英きえいに掛かったと聞かされた。

 そして、姫貴妃から、その笑顔が消えた。

 珀優は、天祥と二人、姫英の嫌疑を晴らすべく手を尽したが、状況は芳しくなかった。刑部の報告書を穴の開くほど読み、宮の八卦師に星を読ませてもなお、真実は見えて来ない。 宮廷に漂う閉塞感を何とかしなければならないのに、有効な手段を何一つ思いつくことが出来なかった。


 最も簡単な方法は、姫英を処断する事であった。真実がどうかという事は、この際、問題ではないのだ。宮廷の動揺を鎮めるための最良の策を考えれば、どうしてもその結論に行きつく。 天祥の意見も同じだった。だが、それだけは出来なかった。それは、勿論、姫貴妃の笑顔の為でもあったのだが、珀優自身、この事が、そもそもそうなる様に仕組まれている様な気がしてならなかったからだ。


 何か大きな力が、人の運命を弄んでいる。

 それは、珀優の勘とでも言うべきもので、根拠はない。だが、姫英を断罪する事に、珀優の心がどうしても納得しなかった。


「では、どうすればいい?」

 少し苛立った様に問うた天祥に、珀優は少し躊躇った後に、一つの名を挙げた。

「……力を貸して貰おう。劉飛に」

 その名に、天祥が僅かに動揺した気配が伝わった。珀優がかつて、劉飛を好きでいた事を天祥は知っていた。それ故に、彼が、劉飛という大きな存在を必要以上に意識している事を、珀優は知っていた。 だから、天祥が自分の影となってから、その心情を慮って、劉飛を意図的に皇帝の側から遠ざけた。軍関係の事は崔遥に一任し、劉飛とは間接的にしか接して来なかった。


 元々、劉飛には、宮廷を煙たく思っている節があったから、こちらから距離を置いてしまうと、劉飛はほとんど燎宛宮に近寄らなくなった。公に行う儀式の折に、皇騎兵軍元帥として出席する必要がある時以外に、劉飛の姿を宮廷で見掛ける事は無くなっていた。



 天祥が床に視線を落としたまま、考え込んでいる。迷っているのが、傍目にも良く分かった。それは、物事を客観的に見ての事ではなく、感情が心を揺さぶっているせいなのだろう。

「……天祥?」

 珀優がその迷いを払拭させる様に、天祥の名を呼んだ。

「……ああ、何か自分が情けなくてさ……劉飛兄さんなら、何とかしてくれるかも知れないって、もう、言われた瞬間に思ってて」

 かの人との力の差は、一体、何時になったら無くなるのか……

 そんな思いを抱きつつ、天祥は軽くため息を吐いた。

「分った。姫貴妃様にも、そう伝えて来るから」

「……天祥。その姫貴妃の事なのだが……」

「え?」

「その……元気がない様だから……慰めてやっては貰えないだろうか。私は……側にいてやる事が出来ぬ故……そなたに」

「ええ。それは勿論、ご機嫌伺いはして参りますよ。何か言伝てがあれば……」

「そういう事ではなくて……」

 珀優が、頬を赤らめて、視線を外した。

「……だから……」

 珀優が消え入りそうな声で、何かを天祥に訴えかける。

「……そういう事を、してやってくれ、と?」

 天祥が珀優の顎に手を掛けて、顔を上向かせ、その真意を探る様に、瞳を見据える。

「それで、姫貴妃の笑顔が戻るなら、私は……」

「構わない……と?」

 天祥の思いがけない真摯な瞳に圧倒されて、珀優は瞳を反らした。

「では、命令して下さい。陛下の名において。それが、陛下のご命令であれば、私は、黙って従いますから」

 天祥が抑揚のない声で言った。

「……命令する……雷将帝の名において……」

「……分かりました」

 天祥の手が、珀優から離れて、彼はそのまま踵を返すと、部屋を出て行った。

 一度も振り向かずに、遠ざかっていく天祥の背中に、珀優の心は大きく揺れていた。


……私は天祥に、何を命じたのか……


 姫貴妃の笑顔の為ならば、何だって出来る。その筈なのに。この胸に去来する思いは何なのだろう。この落ち付かない気持ちは……




 珀優は、窓辺に座って光に満ちた春の空を眺めていた。ただ、ぼんやりと、眺めていた。

 その光の中に、姫貴妃の顔が浮かぶ度に、何故だか心が苦しくなった。


……どうしてだろう。私は、姫貴妃の笑顔が好きなのに……

 光が滲んで、涙が頬を伝い落ちて行く。

……どうして、涙が出る?……


 珀優は、訳が分からないまま、その涙を手で拭う。だが、拭っても拭っても、涙は止まらない。自分でもどうしていいのか分らなくなって、珀優は窓辺に顔を伏せた。 溢れ出る涙から感じる哀しみに、心が囚われて行く。そこで初めて、これは、嫉妬というものなのではないかと気づいた。天祥と姫貴妃が、そういう関係になる事が、自分は嫌なのだと。 ようやくそう自覚した。


 天祥は、自分の影だ。

 その体は、自分の手足であり、その心は、自分と思いを共有する。

 この十年、その心は、常に珀優に寄り添い、思いを共にしてきた。 常に側にいたから、天祥がもう、自分の一部である様な気がしていた。


 だから、見えなくなっていた。

 あまりに近すぎて。

 忘れていたのだ。

 天祥が自分の分身ではなく、意思を持った一人の人間であるという事を。


……私は、馬鹿だ。今頃気づくなんて……私は、天祥がこんなにも好きなのに……


 その思いに気づいた時、珀優の心は言い様のない寂しさに襲われた。自分は取り返しのない事を、してしまったのかも知れない。

「天祥っ……」

 嗚咽と共に、その名が口から零れ落ちた。

 すると、珀優の震える肩を、背後から、温かな手がそっと抱き寄せた。そして、耳元に囁く様な声が聞こえた。

「あなたを、こんなにも泣かせている悪党は、一体、誰です?」

 その声に、珀優はもう胸が一杯になった。天祥は、いつもこんな風に、辛い時には必ずそばにいてくれるのだ。それを、当たり前の事だと思っていた自分の愚かさに、珀優はようやく気づいた。

 珀優の手が、天祥の腕をぎゅっと掴んで、それを愛おしむ様に抱き締めた。

「そなただ……天祥……そなたのせいで……私は……」

「私のせいなんですか……それは酷いなあ……お慰めしようとした姫貴妃様からは蹴り食らうし、珀優様からは、何か言い掛かり付けられるし、今日は本当についていない」

 少し笑いが纏った様な天祥の声に、珀優は天祥の手を押しのけて、その顔を見上げた。

「また、こんなにお泣きになって……」

 天祥が子供をあやす様に言いながら、その指で珀優の涙を拭う。

「……そなたは、私のものだ。他の誰にも、触れさせぬ」

 その語気の強さに、天祥が驚いた様な顔をして手を止めた。

「この身も心も、もうすでに陛下のものじゃないですか」

「そういう事ではなくて……」

 少しはにかんだ様な珀優の表情に、天祥の手がそっとその頬を撫でる。

「……違う、のですか?」

 その手に撫でられる度に、背筋に言い様のない感覚が走る。頬が熱を帯びて、何だか訳が分からなくなって来る。自分を見つめる天祥の強い瞳に引き込まれる。息が詰まりそうだった。

「……天祥、私はそなたが、好……」

 半ば、喘ぎながら言った言葉は、そのまま天祥の唇に吸い込まれた。初めて触れたその唇は、とろける様に柔らかで甘かった。波のように押し寄せる快楽の感覚に、珀優は天祥の背に手を回して、夢中でしがみつく。その手の感触を感じた天祥が、珀優を抱く手に力を込めた。

「……済みません、珀優様」

 名残惜しそうに離された唇が、呟く様にそう言うのを、珀優は朦朧としながら聞いていた。


……何故、謝るのだ……


 そう思った瞬間に、体が浮き上がるのを感じた。気がつけば、珀優は天祥に抱き抱えられていた。

「……天祥?」

 しかし、珀優の声に応える言葉はなかった。天祥は珀優を抱えたまま寝所へ行き、そこに珀優をそっと横たえた。自分を見下ろすその瞳に、初めて男である天祥を意識して、珀優は僅かに恐怖を感じて身じろぎをした。

「天祥……私は……」

「珀優様……」

 天祥の唇が再び、珀優の唇を塞ぎながら、その手が珀優の着物の帯を解いていく。口づけは、やがて首筋をなぞり、愛撫の手が、珀優の華奢な体を丁寧になぞっていく。

「……てん……しょうっ……」

 今まで感じた事のない、言い様のない快感に、堪え切れずに喘ぎ声を上げると、天祥の愛撫は、さらに深くなっていく……


「……あっ……そこは……やめっ……んっ」

 快楽の心地良さに翻弄されて、嬌声を洩らしながら、天祥の行為に敏感に反応を示す自らの体が、珀優には信じられない。不意に羞恥心に襲われて、珀優は天祥の腕から逃れようと身をよじった。

 だが、すぐに天祥の手が、珀優の体を引き戻して、一番敏感な部分に、更に愛撫を繰り返す。そして、気が遠くなりそうな中で、その囁き声を聞いた。

「大丈夫、怖くありませんから……」

「怖くなど……」

 喘ぎながら思わず言い返した珀優に、天祥が優しい笑みを返す。

「……愛しています、優慶様」

 その言葉と共に、深い口づけが交わされた。そして次の瞬間、考えられない程の激痛に襲われた。自分が悲鳴を上げたのを覚えている。だが、そこで珀優の意識は途絶えていた。

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