第106話 珀優と春明

 十年前――

 入内した春明の前に、雷将帝だと言って顔を見せたのは、この祥だった。

 そして、それは、死んだと思っていた天祥、その人だったのだ。



 天祥は、皇帝の抱える重大な秘密の為に、その影となり、身代りを務めているのだと言った。それでも、こうして彼と再会し、仮初めではあっても、彼の妻になれた事を、春明は素直に嬉しく思った。だがすぐに、彼女は、自分の置かれた立場が、そう単純なものではないのだと思い知る事になった。

 天祥が、彼女に薬包を渡してこう言ったのだ。


――自分は、姫貴妃には皇帝として接するが、それで、もし子供が生まれる事があっても、その子を帝国の後継者とする事は出来ない。だから、どうかこの薬を服用して欲しい、と。


……それは、懐妊を回避する為の薬だった。


 思いを寄せる相手から、そんなものを渡されて、自分が何だかとても惨めな存在に思えた。天祥の妻となる事も、皇帝の本当の妃となる事も出来ず、ただ、辻褄合わせの様にして、そこにいるだけの存在。 この先、一生をこんな空しい思いを抱えたまま生きていくのかと思うと、やり切れなかった。ありったけの言葉で天祥を罵倒し尽くし、宮から追い出すと、悔しさで涙が枯れ果てるまで、泣き明かした。


 それからしばらく、春明は気鬱から体調を崩し、宮に引き籠る日々が続いた。

 そんな春明の元に、ある日、一人の妃官がやってきた。話し相手にと、崔遥が置いて行ったその妃官は、珀優はくゆうと言った。


 聞けば自分よりも五つも年下でありながら、珀優は、宮中の作法にも詳しい上、見識も高く、何より、話をしていても、いつまでも話題が尽きず楽しかった。あれほど感じていた気鬱も、珀優が来てからは、すっかり影を潜めていた。春明は珀優を気に入り、どこに行くにも、必ず連れ歩く様になった。



 ある時、春明がやはり珀優を連れて、後宮の庭園を散策していた折に、しばらく姿を見せなかった天祥が、皇帝の格好のまま、ひょっこりと顔を出した。 多分、遠目に春明の様子を伺う心積もりだったのだろう。それが、思いがけない所に春明がいたせいで、鉢合わせてしまった様だった。

 そしてそれは、春明にとっては、先だっての諍いで、天祥を散々に罵倒して以来の事で、彼女は、少し気まずい思いを抱きながら天祥の姿を見据えていたのである。


 ところが、その天祥の視線は、春明よりも先に珀優に向けられた。そしてその視線は、珀優を気遣う様に、言い様のない優しい光を帯びていたのである。それは、ほんの僅かの間の事であったが、春明がそこから何かを感じ取るには、十分だった。そして、自分が珀優を見ていた事を、春明に気付かれたかも知れないと困惑する天祥の表情を見るに至り、春明の中に、一つの真実が鮮やかに立ち現れた。


 春明は、その場に膝を折ると、珀優を見上げ、そして言った。

「……恐れながら、あなた様が、真の雷将帝陛下にございますか?」

 問われた珀優が、答えに困った風に、天祥と顔を見合せた。そして、春明の真剣な瞳に応える様に、珀優ではない、雷将帝の声が言った。

「……済まない。姫貴妃、そなたを騙す積りはなかった。折角、そなたが後宮に参ってくれたのに、私は何もしてやる事が出来なくて、それが心苦しくて、本当に申し訳なくて……私がこんな風だから」

 こんな風だから……皇帝の自分を恥じ入る様な言葉に、春明は戸惑っていた。


……だから……


 春明の中で、断片的だった様々な出来事が、ようやく一本の線で結ばれた。天祥が死を装って姿を消した訳も、皇帝の影となっている訳も。


 つまり、天祥が好きなのは、陛下だけなのだ、と。

 その事実に気づいた時、全てが繋がった。


……だから……


 そして、珀優が自分に向けてくれた慈愛の大きさに気づいた時に、春明の中に、一つの決意が生まれた。

「……陛下は、私にかけがえのないものを下さいました。ですから、そのご恩に報いる為に、どうかこの先も、ずっとお側にいる事をお許し下さい。無論、私がこの事を他言する事はございません」

「私は何も……むしろ、そなたから、奪うばかりで……」

「いいえ、陛下。陛下は、この私に、真心を下さったのですわ」

 雷将帝を見上げる姫貴妃が、晴れやかな笑顔を見せた。


「私は、珀優が大好きなんですもの。だから、この先もずっと、どうか私の側にいて下さいませ」

 姫貴妃の入内には、帝国の後継者を期待する多くの者の思いが込められている。姫貴妃は、そんな期待をこの先ずっと、裏切り続けなければならないのだ。そして、それは又、実の父を失望させ続ける事にもなる。それは決して、心安らかなる道ではあり得ないだろう。

「姫貴妃……私はこの先、そなたを辛い立場に立たせてしまう事になるかも知れない。それでも……」

「……それでも、共に参ります。私は、あなた様の妻なのですから」

 それは、春明の中で、天祥への思いよりも、珀優への思いが勝った……という事になるのだろうか。



 それからも、何事もなかった様に、珀優は姫貴妃の元に留まり、皇帝役の天祥は、珀優会いたさに、春華の宮に頻繁に顔を出す様になった。そこで、三人で頭を突き合わせては、政務の方針について、様々に知恵を出し合った。時に天祥は、皇帝の役が窮屈になると、陛下にお仕えする八卦師の祥という仮の姿で、宮に忍んで来て、息抜きをする様にもなった。そうして、この十年、彼らは共に手を携えて、この帝国を支え続けて来たのである。


 そして、つい先だっての事である。宰相の崔遥が、帝国の後継問題についての具申をしてきた。それは珀優を、陛下に見染められたという手順を踏んで、入内させるという提案だった。

 勿論、それが現状で一番いい方法であるから、三人に異論はなかった。それで、珀優は春華の宮を出て、今は別の宮へ移っている。


 だが、それがどうやら、誰かの意向に反する事だったのか。結果として、その準備を進めていた崔遥が暗殺されるという事態を招いてしまった。 おまけに、その罪を姫英が被る事になれば、姫貴妃は後宮を去らなければならなくなるだろう。早急に、この事態を何とかする必要があった。それには……

「……今、確実に、私達の味方になって下さる方を見極めなくてはならないわ。珀優は何て?」

「……春明は、どう思う?」

 問われた祥は、即答をせずに、逆に聞き返して来た。春明は、少し思案して、崔派でも姫派でもなく、宮中に影響力のある人物の名を挙げた。

「……皇騎兵軍元帥の劉飛さまでは、どうかしら?今まで、あまり政には関わって来られなかったけど、それがかえって、宮廷にしがらみがなくて宜しいのではと」

「……同じです。珀優さまのご意見も」

 祥の、その答え方に、姫貴妃は何か含みを感じた。そんな彼女の視線に気づいて、祥が付け加える様に言う。


「此度の件、姫英様の次に、嫌疑の掛けられているのが、かつて劉飛様の後見をなさっていた璋翔様なんですよ。 西畔に侵攻した蛮族を処断せずに、しかも独断で、自分の配下に加えたという辺りが、その根拠になっている様で」

「その点について、珀優は、何と?」

「仮に、そうだとしても、それは劉飛様とは関わりのない事だろうと」

「陛下は彼には、全幅の信頼を置いておいでですからね。その清廉潔白なお人柄は、私も良く存じておりますわ。それでも、祥さまには、引っ掛かる事があおりなのですね」

 春明に見透かされる様にそう言われて、祥は仕方なく口を割った。


「……初恋の君、なんですよ、珀優さまの……笑わないで下さいよ」

 そう言われながらも、春明は思わず口元を綻ばせた。

「まあ、焼もちですの……?」

「そんなんじゃ、ありませんっ」

「心配はいりませんわ。それを言ったら、私だって、あなたが初恋の君なのですよ」

「……」

「全く、何年前の話です。しっかりなさいませ。珀優は、あなたの元に嫁ぐのですよ、皇帝陛下」

「……私は、ちゃんと、あの方をお守り出来るのかと、この頃、無性に不安になるんです」

 そう言って、祥がうなだれる。


 この十年、優慶を守るという固い決意を抱いて、皇帝の影を務めて来た。優慶や春明、そして崔遥に支えて貰いながら…… しかし、それでも、彼の肩には、皇帝の名はかなりの重圧を伴って圧し掛かってくるのだ。そしてそれは、年を取るごとに、次第に大きくなっていく。 自分は、いつまでここで持ちこたえられるのか、正直、自信がなかった。


「でしたら、尚更、強力な援軍が必要ですわ。劉飛様にお力を貸して頂きましょう。それで、構いませんわね?」

 何時もの様に、春明がてきぱきと方針を定め、結論を下した。

「……何か、持ち直しましたね?」

「私、きっと、肉体労働よりも、頭脳労働向きなんですわ。それにこれは、珀優の幸せの為なんですからね。ここで挫ける訳にはいかないでしょう。今の私は、珀優の為なら、何だってやってのけましてよ」

「……何だか妬けますね」

「それは、珀優に?それとも私?」

「両方ですよ」

 祥が肩を竦める。

「全く、姉妹の様に仲がおよろしくて……」

「あら、私たちは、あなたという皇帝陛下をお守りする為に、この身を捧げているのですよ。どうぞ、それをお忘れなく」

 そう言って、春明は嫣然とした笑みを浮かべて見せた。

 その顔を、祥は思わず見つめていた。それはまるで、何年も前に失ってしまった、あの初恋の為でもあるのだと、そう言われている様な気がした。

「どうかしまして?ぼんやりとなさって……」

「いえ」

「劉飛様の説得は、お任せ下さいませ。必ず、あのお方を宰相に……私たちの味方にしてみせますから」

 そう告げた姫貴妃の言葉に、祥はただ、頷く事しか出来なかった。


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