第105話 初恋の残滓

 後宮の東側にある宮を、宮廷では、春華しゅんかの宮と呼称している。

 その宮の主の名にちなみ、皇帝が呼び始めたものが、何時の間にか、定着してそうなった。


 その宮の妃とは、十年前に入内した姫家の春明、その人である。公には、姫貴妃ききひ様と呼称される。

 彼女は明朗快活な性格で、彼女が入内してから、この宮では、笑い声が絶える事は無かった。 また彼女は、清廉な性質たちでもあり、陰口や不正といった類の事には、日頃から、あからさまに嫌悪を示していたから、春華の宮に仕える妃官たちには、大いに慕われる存在だった。


 その姫貴妃がここ数日、自室に籠り、塞ぎ込んでいる。その側近くに仕える浅葱あさぎは、その事が気がかりでならない。

 陛下にも、この春華の宮は居心地が良いらしく、夜のお渡りばかりではなく、忙しい公務の間に、ここに立ち寄り、休息していく事も度々ある。お二人が語らっているご様子は、端で見ていても実に微笑ましいもので、誰がどう見ても仲睦まじいご関係であるのに、何時までたっても、姫貴妃に懐妊の兆しは現れなかった。


 ただその事に、姫貴妃に仕える者たちは、この十年、気を揉む日々であったのだが、当の姫貴妃は、さして気にもしていない様で、ただ、陛下との、この様な穏やかな生活を楽しんでいる風だった。

 だが、いつもそんな暖かな春の陽ざしに包まれていた宮に、突然、凍てつくような風が吹き抜けた。そのせいで、そこに咲いていた花は、なすすべもなく、萎れうなだれてしまったのだ。


 数日前に、宰相であった崔遥が、この燎宛宮で謀殺された。

 そして、その暗殺の嫌疑が、あろうことに姫貴妃の父である、姫英に向けられていたのだ。



 現在、姫英は、皇騎兵軍大将であり、元帥に次ぐ地位にいる。また、貴族会議を開く権限を有する五貴族の長である璋翔が、専ら、その領地である西畔にいるせいで、 燎宛宮においては、最も発言力のある貴族と言って良かった。その上、娘までも入内させている。そこに皇子が生まれれば、いずれ、崔遥を押しのけて、宰相の位に付くだろうと噂される人物でもあったのだ。


 だが、待てど暮らせど、肝心の姫貴妃は懐妊しなかった。恐らく、それに痺れを切らせての凶行であろうという噂が、宮廷内で、まことしやかに囁かれ始めていた。


 つい先日、崔遥が、朝議で、新たな妃を入内させるべきという奏上をしており、陛下もこれを是としていたという事実も、この噂に拍車を掛けた。そして、元帥である劉飛が不在であった為に、いわゆる崔派と呼ばれる、反姫家の者たちが、刑部に働きかけ、姫英が尋問を受けるという事態にまでなった。このまま姫英が宰相になりでもすれば、崔遥の下で安寧であった自分達の地位が脅かされる。その事を危惧しての事であったのだろう。


 当の姫英は、言われなき罪状で名誉を汚された事に腹を立て、身の潔白が証明されるまで、自ら宮中への出仕を控えるとし、屋敷に籠ってしまっていた。動機だけを考えれば、姫英ほど有力な者は他におらず、かといって、確証はないのだから、かの者に罪を問う事も出来ず、現実的には捜査は行き詰っていた。


 実質的に宮廷を仕切っていた崔遥の亡き今、宮廷は空転状態に陥り、主だった貴族が集まっては、意見を交わすものの、それをまとめる者もいず、遅々として進展しない刑部の捜査を、ただ、待っているだけと言った有様だった。そもそも、陛下ご自身が、何か時を待つ様に、ただ、出てくる意見を聞くばかりで、何も決めようとしない。その事が、この混乱を長引かせ、姫貴妃の心を煩わせる結果になっているのだ。


 陛下は、この国で一番偉い人間なのではないのか。物事は、陛下が、白と言えば、白。黒と言えば黒になるのではないのか。それなのに、何故、白黒はっきりさせないのか。 そう思うと、何とも歯痒い思いがする。姫貴妃さまをお守りする事が出来るのは、陛下を置いて他にいないというのに……


「全く、不甲斐無い事」

 憤りが堪えられずに、浅葱はため息交じりに思いを吐き出した。

「姫貴妃さまが、こんなにもお心を痛めていらっしゃるのに、お顔もお出しにならないなんて……」

「姫貴妃様は、そんなにお加減が悪いのか?」

 誰も聞いていないと思って零した愚痴に、言葉が返されて、浅葱は面喰った。

 驚かされた事が腹立たしくて、彼女は、その声の主に、出来うる限りの不機嫌な顔をしてみせた。そして、そこに立っていた八卦師のなりをした若者に、半ば八つ当たりとも言うべき言葉を投げつける。


「それもこれも、しょうさま、皆、あなたのせいですからね。こんな時にこそ、陛下のお心を知らせに、真っ先にこちらに参るべきでしょう」

「手厳しいな。だから、陛下に言われて、こうして様子を見に来たんじゃないか」

 祥と呼ばれた若者が、苦笑交じりに答える。


 祥は、陛下に仕える八卦師で、陛下が忙しくてこちらに顔を出せない時などに、その連絡係として、顔を見せる若者だった。その役目ゆえか、彼が来ると、姫貴妃の機嫌は目に見えて良くなる。だから、特にこのような時には、歓迎すべき相手だった。

「だったら、さっさと姫貴妃さまの所へお行きなさいな」

 浅葱に急かされて、祥は、そのまま姫貴妃の部屋へと入り込んだ。


……どうか、これで姫貴妃さまが、お元気になって下さいます様に……

 浅葱は、祥の姿を見送りながら、ありったけの念を込めて祈った。




春明しゅんめい、いるか?」

 その声に、腕を枕に、卓にうつ伏せていた姫貴妃がゆっくりと顔を上げた。


 この後宮で、彼女を唯一春明の名で呼ぶのは、この祥だけだ。彼がその名で呼ぶ時だけ、姫貴妃は、妃

ではない自分に戻る事が出来る。

 崔遥の暗殺と、それに続いた出来事には、少なからず、姫貴妃という存在が関わっている。そう思い詰めていた所に、こうして祥が来てくれた事に、春明の心は少し上向きになる。


……大丈夫、私は一人ではないのだから、まだ、やれる……


 そんな事を思いながら、近づいてくる祥の姿を、春明はぼんやりと見据えていた。……と、祥がついと手を伸ばし、春明の額にそっと触れた。

「ここ、赤くなってる……」

 言われて、春明は、憮然としてその手を払いのけ、額を自分の手で覆い隠した。

「ようやく顔を見せたと思えば、わざわざそんな事を言いに……」


 言い掛けた春明の口を、祥の唇が塞いだ。不意の事に、まだ物思いから覚めきっていなかった春明は、その行為に即座に対応する事が出来なかった。だた、沈んだ心に注ぎ込まれる快楽の心地良さに、そのまま身を預けてしまった。春明が抗いもせずに、自分に身を預けているのを確認すると、祥はその腰に手を回して、彼女をそっと立ち上がらせて、寝台へと誘った。そして更に深く口づけを交わしながら、そのまま春明を押し倒した。

「……だめっ……だったら」

 そこで我に返った春明が、ようやく祥の体を押しのけた。


「からかいに来たのなら、又にして。今日は、そんな気分じゃないの。分かるでしょう?」

「……からかうだなんて、心外だな。慰めに来たつもりなんだけど」

 そう言って、祥はまた春明に顔を寄せる。そんな彼を、春明の冷たい声が遮った。

「……それは、皇帝陛下のご命令?」

 その言葉に、祥が少し傷ついた様な顔をして身を離す。

「命令とか言われると、身も蓋もないんだけど。優慶様だって、春明の事をご心配なさって、私に様子を見てくる様にと……」

「様子を見てくるって言うのが、どうしてこういう事になるのよ」

「今度の事で、春明はきっと心を痛めているだろうから、慰めてやって欲しいって……そう、おっしゃっられたんだ……」

「馬っ鹿じゃないのっ」

 その言葉に憤慨した春明の膝が、未だその体の上に乗っかっていた祥の、ちょうど股間の辺りを蹴り上げた。


「……っつ……」

 祥が悶絶しながら、寝台に転がった。

「あなたの、そういう鈍感な所が、堪らなく、い、や、っ」

 春明は勢いよく立ちあがって、上から威嚇する様に、寝台に転がったままの祥を睨みつける。

「ひっでえな……」

 祥がつい零すと、たちまち矢の様な言葉が降ってきた。

「あなたは優慶さまが好きなんでしょう?他の女になんか、手ぇ、出してんじゃないわよ。しかも、何?その優慶さまに言われて、女抱きに来ました? ふざけてんじゃないわよっ。私はね、私だけを好きだって言ってくれる男じゃなきゃ嫌なのっ。そういう女心、分かりなさいよ」


 春明の剣幕に、祥はすんなりと頭を下げた。

「……ごめん」

「謝る相手が違うでしょう。謝るなら、優慶さまに謝りなさい。これだから、男なんてもんは……」

 春明が、そこで息を切らせて言葉を切る。だが興奮は簡単に収まらず、肩を揺らしながら祥を睨みつけたまま荒い息を繰り返している。

 祥が気を利かせて、茶を注いで茶碗を差し出すと、彼女はそれをひったくる様に奪って、その中身を一気に飲み干した。

 それで、少し落ち着いたのか、春明は、気が抜けた様に、椅子に腰を落とした。

 自分たちがもう、こんな関係になって、十年が経つのか。初恋の相手の顔をしみじみと眺めながら、春明は取り留めもなく、そんな事を考えていた。


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