第108話 帝国を支える私たち

 劉飛が、燎宛宮からの使者を迎えたのは、帰京して十日ほど経った頃だった。

 それよりも前に、璋翔しょうしょうから書状が届けられており、新しい宰相を決めるのに、近く貴族会議が行われる事になるだろうという話は聞いていた。新宰相として、自分の名が挙がっている事も。

 劉飛としては、皇騎兵軍元帥という現在の位置が気に入っていたし、宰相として、お世辞にも空気が良いとは言えない、あの燎宛宮に縛りつけられるのは、御免こうむりたい所だった。


 それに、宰相などという忙しい仕事を押し付けられてしまっては、先ごろ引き取った少年の相手をする暇がなくなってしまうではないか、とも思う。

 その存在を、初めは厄介だと感じていた劉飛であったが、相手をしてみると、これが意外に面白かったのだ。気が弱いのが玉に瑕だが、彼は物分かりが良く、剣の筋も悪くない。これは、磨けば、相当に光る玉だという発見が、劉飛を断然その気にさせていた。


 縹氷ひょうひという名は、その瞳の色が淡い蒼色を帯びていた事から、湖水の領官が付けたあだ名で、正式な名は持っていないというので、これに鴻俊こうしゅんという名を与えた。

 不思議なもので、自分が名を付けたと思うと、以前にも増して、愛着の様なものが出て来た。翠狐すいこ曰く、八卦的に言うと、名づけというのは、主従関係を結ぶ時に行われる儀式なのだそうだ。 だから、それによって、占有心が生じるのだという。親が子の名づけをする場合もまた然りだと。


 そんな訳で、宰相の話は、どこから来ようと、断ると固く心に決めていた。使者は、燎宛宮の人事を司る、吏部尚書からの文を持参していた。そこには、詳しい事は何も書かれていなかった。 ただ、近いうちに一度、吏部にお出まし頂きたいという旨が、あっただけだった。

 吏部が人事を司るとは言っても、宰相の人事は、元帥同様、皇帝が直接任命するものであるから、そこからの呼び出しという時点で、不審に思うべきだった。 だが、宮廷のそういう仕組みにも無頓着だった劉飛は、何の疑いも抱かずに、燎宛宮へ出仕した。




 吏部を訪れた劉飛は、やけに愛想のいい吏部尚書の世間話に、しばらく付き合わされ、うんざりする羽目になった。 しかし、どうにかその世間話に終止符を打ち、ご用件は?という段になると、その吏部尚書は、急な要件があるので、ここでしばしお待ち頂きたいという言葉を残して、居なくなってしまったのだ。

「……全く。尚書がいいのか、こんなんで……」

 しばらく宮廷に顔を見せていなかった間に、随分と官吏の質が下がっている様な気がする。尚書と言えば、その官職の長である。軍で言えば、元帥にも等しい。 それがこの体たらくかと思うと、ため息が出た。


 戦の記憶が遠退いて、緊張感を失ったせいか、宮廷全体が弛緩している。そんな印象がどうにも拭えない。それでも、これまで、それを崔遥が何とか引き締めていたのだろう。その要を失った今、その先行きは、決して明るいとは言えない様だった。

「こりゃ、どうにかしないと、やばいんじゃないのか……」

 溜息交じりに独りごちた台詞に、思いがけず、応じる声があった。

「それでは是非、あなた様にどうにかして頂きたく思いますわ」

 澄んだ美しい声が、誰もいない筈の部屋に響いた。


 驚いた劉飛が剣に手を掛け、腰を浮かせると、不意に床に八卦の文様が浮かび上がった。その場の空気が、陽炎の様に揺らめいて、劉飛が息を呑む前で、一人の女人の姿を浮かび上がらせて行く。程無くそこに姿を現したのは、姫貴妃、その人であった。


「お待たせして申し訳ございません」

「お待たせって……じゃ、私をお呼びになったのは、姫貴妃様でいらっしゃるのですか?」

「ええ。まあ、お掛けになって下さいな」

「八卦の術まで用いて、この様な所にお出ましになるとは、何事にございますか?」

「妃が後宮の外に出るのは、結構、難しいものなのですもの」

「存じております。だからと言って……」

「劉飛様には、今、この燎宛宮の状況が、天下の一大事なのだという認識はございますか?」

「それは……何となく、分かりますが」

「何となく、ですか」

 姫貴妃が険しい表情で、劉飛を見据えた。

「劉飛様は、庭の手入れは熱心になさっていても、屋敷の中に蜘蛛の巣が掛かっている事には、お気づきになられない……」

「そういう、持って回った様なおっしゃり様は、不愉快なのですが」

 劉飛が顔をしかめると、姫貴妃が表情を緩めた。

「では、単刀直入に。劉飛様には、宰相の任をお受け頂きたく存じます。そしてこれは、陛下のご意思でもあります」

「……何故、あなたがそれを?」

「私たちは、この華煌の為に、何としても陛下という存在をお守りすると、そう誓ったのです」

「私たち……?」

「そう。私たち。そのに、ぜひとも、あなた様に加わって頂きたいのですわ」

「何故、私なのです」

「陛下がそれをお望みです、では、ご納得頂けませんか?」

「頂けませんね」

 劉飛が、あっさりと言った。

「それは、飽くまであなたのお言葉であって、陛下のお言葉だという確証は、ないじゃないですか。それに、この様な策を弄するからには、表沙汰に出来ない、やんごとない事情がおありだという事でしょう。それが、あなたのご事情なのか、陛下のご事情なのかは存じませんが」

「その事情を話さなければ、ご納得頂けないという事ですか……」

「もしくは、陛下から直にお言葉を頂かない限りは」

「……分かりました」

 姫貴妃が徐に、手を二度叩いた。そして、それを訝しむ劉飛に、にこやかに手を差し伸べる。位の高い女性から手を差し伸べられて、慣例にしたがって、劉飛は膝を折り、その手を取った。 その途端、周りの様子が一変した。



「八卦っ!?」

 驚いて顔を上げた劉飛は、姫貴妃の向こうに、皇帝の姿を認めて、思わず畏まった。部屋の様子からすると、ここは姫貴妃の私室の様だ。

「構わぬ、劉飛。顔を上げよ」

「はっ」

 言われて顔を上げた劉飛は、雷将帝の顔を見た。その顔をこんなに間近に見たのは、随分と久し振りだ。何時もは、宮廷の儀式の折に遠目に見るぐらいだったからだ。その顔を間近に見て、劉飛は何かを感じた。


……誰かに、似ているのか……


「姫貴妃から、話は聞いて貰った事と思う」

「はい。ですが、私は……」

 雷将帝の顔を見据えながら、何かを言い掛けて、劉飛がふと言葉を切った。そして、その瞳が驚愕に見開かれていく。

「……そんな……まさか……天祥、か?」

 劉飛の呟く様な声に、雷将帝が姫貴妃に視線を向ける。それに気付いて、姫貴妃が、隣室から妃官を呼んだ。

「珀優」

 そう呼ばれて部屋に入ってきた妃官の顔にも、劉飛は見覚えがあった。十年という歳月を隔てても尚、その顔には幼い頃の面影が、はっきりと残っていた。


「……陛下」

 そう呼ばれて、それを肯定するかの様に、珀優という名の少女が笑みを浮かべた。

「劉飛さま、これが陛下をお守りすると誓った、なのですわ」

「……どういう事なのです。これは、一体」

 劉飛がそこにいる者たちに、順繰りに視線を巡らせて尋ねる。

「済まない、劉飛。私は見ての通り、おなごなのだ。だから、あのまま雷将帝として、玉座に座り続ける事が難しかった。そのせいで心を病んでしまった私を、崔遥と、この天祥が救ってくれた」

「……それでは天祥は……」

 あの病の後で、天祥は陛下と入れ替わったと言うのか。自らの存在をこの世から消して。

「あの時はもう、私一人で、皇帝の位を守る事は出来なかった。それでも、他に皇帝となるべき者はすでに失われ、退位する事も出来なかった」

「しかし陛下……それでは……」

 何かを問う様に、劉飛の瞳が珀優を見据えた。この帝国に、皇帝はすでに存在しないのではないか、と。その目はそう問い掛けていた。


「よいか劉飛。私は黄星王の神託を受けて、即位した。それは、紛れもない事実だ。だから、次に帝位に即く資格を持つ者が現れるまで、この国を守る義務があるのだ」

「では、その資格を持つ者が、現れた時には……」

 劉飛の脳裏に、鴻俊の姿が過る。

「勿論、この位を退こう。だから、それまで、私に力を貸しては貰えまいか。この帝国の為に……どうか宰相として」

「……しかし何故、私なのです?」

 未だ、納得し切っていない劉飛の、その問いに答えたのは、天祥だった。

「この帝国を支えるには、大きな力が必要だからですよ。崔遥の抜けた穴を埋めるのは、並大抵の事じゃありませんからね」

 そう言いながら、天祥の体が緑色の光を帯びて輝き始めた。その光は劉飛に、麗妃を思い出させた。その気配の懐かしさに、劉飛の心は思いがけず揺れる。

「まさか、お前……緑星王……」

「そういう事です。戦司であるあなたの力が、我らにはどうしても必要なのです。この華煌の為に」

 何よりも不正を嫌う劉飛が、皇帝の資格の無い者が玉座に居続ける事を、素直に納得するとは、正直考えにくかった。 だから、とにかくこちらの手の内は全てさらけ出して、誠意を尽くして説得するしか無かった。だが、緑星王という最後の切り札までも見せて、これで劉飛が首を縦に振らなけらば、自分たちにはもう後がない。最悪、秘密を守る為に、劉飛の命を絶つ事も考えなければならなかった。


 劉飛は思案する様に腕を組み、黙りこんでいる。

 張りつめた空気が、部屋を支配していた。やがて、意を決した様に劉飛が顔を上げ、そして言った。


「……いいだろう。しかし、それは次に皇帝となる者が現れるまでだ」

 その言葉を聞いて、天祥が大きく息を吐き出した。姫貴妃と珀優が、笑顔を交わして、思わず抱擁を交わす。

……成程。これが、私たち、か……

 劉飛は、そんな彼らの様子に口元を綻ばせた。

 これが、今まで帝国を支えていた、私たち。

……全く、とんでもない奴らだ……

 そして、これから帝国を支えていく、私たちという事か。よもや、それに、自分も手を貸す事になろうとは。

……やれやれだ……

 劉飛は、そう思いながら鴻俊に思いを馳せる。間違いなく、彼の存在が、劉飛の決断に影響を与えていた。


 果たして、あの少年が、この華煌の皇帝となるのか。

 心に問うた橙星王からは、曖昧な返事が戻ってきただけだった。その未来はまだ、分らない、と。

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