第109話 杜家の兄弟

 湖水への帰途、周藍しゅうらんは河南の杜家へ立ち寄った。先だって、河南領官である杜狩としゅから、暇を見て、一度河南へ来ては貰えまいかとの書状を受け取っていたのだ。


 それが政治絡みの用向きであれば、今更自分が口を出す事もないから、わざわざこちらに足を運ぶ事もなかったのだが、どうも話というのが虎翔こしょうの事らしく、周藍とすれば、 その件に関しては、一番厄介な役を杜狩に押し付けているという自覚がある以上、来ない訳にはいかなかったのである。



 杜家で来訪を告げると、楓弥ふみは留守であったらしく、代わりに若い娘が彼を出迎えた。今や杜狩の片腕となっている稜鳳りょうほうの、その妹、琳鈴りんれいである。 聞くところによれば、琳鈴は、杜家のやんちゃな兄弟の教育係を務めているらしかった。

「あら、まあお珍しい事。周翼しゅうよくさまじゃありませんか」

「ご無沙汰しておりました、琳鈴殿。すっかり女らしくなられて、見違えましたよ」

「周翼さまは、全然お変わりありませんのね。兄から聞いておりますわ。匠師しょうしさまは、お年を召さない秘術を会得なさっているのだとか……羨ましい事ですわ」

 そう言われると、彼は少し自嘲めいた笑みを浮かべた。

「羨ましいですか。そうそう良い事ばかりでも、ないのですけどね。その分、人より余計に働かされる羽目になるのですから。そういう訳で、今は周藍しゅうらんという名ですので」

「そうでしたわね、周藍さま。それにしても相変わらず気苦労の多いお仕事をなさっておいでのご様子。お察しいたしますわ。杜狩さまは、じきに城からお戻りになられましょう」

「ああ。では、待たせて頂こう……」

 そう返事をした周藍の声に被る様に、奥庭から、派手な水音がした。

「もう。少し目を離すとこれだもの」

 途端に、琳鈴が眉間に皺を寄せて、周藍に軽く会釈をすると、音のした方へ慌てて走って行く。こういう、何か起こっているのが明白な展開で、勿論、周藍がその後に続いたのは言うまでもない。




 庭に入るとすぐ、池の中で、何かと格闘している子供の姿が目に入った。

「何をなさっておいでですか、虎翔様っ」

 琳鈴がそう金切り声を上げたので、あれが虎翔なのだと周藍にも分かった。その顔に懐かしい人の面影を見て、周藍は感慨深い思いに囚われる。 自分があの人と出会ったのも、丁度、彼が今の虎翔と同じ十の時だった。


 だが、その瞳の印象は、その血を分けた者の伸びやかで明るかったものとは異なり、暗い影を帯びて荒んだ感じがした。


……力を、無理やりに抑えつけられているせいなのか……


 そう思いながら、周藍がその傍の東屋に、視線を移すと、そこに今一つ、子供の影があった。その子供は、琳鈴の叫び声にちらりとこちらを見たが、その意識はすぐに虎翔に戻っていた。 その口元には嘲弄を含んだ笑みが浮かんでいる。その表情は、どう見ても、虎翔の行状を面白がっている様に、見える。

白雷はくらい様も、もう、止めて下さればいいのに」

 多分、琳鈴の金切り声は、日常茶飯の事なのだろう。琳鈴の姿を認めても、子供たちは、目の前の面白いことから、そのまま気を反らさずにいる。その事が、琳鈴の怒りを更に増幅させた。

「いい加減に、なさいませっ」

 今にも飛び出しそうな勢いの琳鈴を、押し留める様に、周藍がその肩に手を置いた。

「……周藍さま」

「私が行こう」

 そう言って、周藍は白雷のいる東屋に向かって歩き出した。



 見慣れない少年がこちらに近づいてくる。それに気づいた白雷が、何かを警戒する様に、周藍を見据えてその様子を窺っている。 その視線に周藍は取って付けた様な笑みで応え、訝しげな表情をしている白雷の目の前で、おもむろに八卦の術を使った。

星換術せいかんじゅつ水縛すいばくっ」

 その声に、虎翔の叫び声が重なった。白雷が池に目をやると、そこにもう弟の姿はなかった。

「いっつ……」

 不意に足元で虎翔の呻き声がして、見れば、すでに弟が水の鎖にぐるぐる巻きにされて、そこに転がっていた。そして白雷の目の前で、その水の鎖はみるみる形を失い、木の床に水たまりを作った。

「お前、何?」

 白雷が敵意を剥き出しにして、周藍を見据えている。

「……うん、そうだな」

 周藍が東屋の天井に目をやって、少し思案する様に、間を置く。

「新しい、教育係になるのかな。多分」

「多分……?」

「お父上からは、まだ用件を伺っていないんだけど……多分、そういう事になると思うよ」

「……お前、八卦師なのか?」

「まあね」

「母上は、八卦師がお嫌いだぞ」

「らしいね……お前は?」

「……私は、八卦など知らない」

「知りたくはないか?」

「……」

 思いがけない周藍の問いに、白雷の瞳の奥に小さな光が宿る。


……成程、楓弥が八卦師を嫌いな理由はこれか……


 白雷の中には、間違いなく、八卦の力に惹かれる心がある。この子は、巫族の宝女の鍵を継いでいる。その力を、母親である楓弥から継承してしまっているのだ。 白虎が未だ覚醒しない理由も、その辺にあるのかも知れない。

「何なんだよ、お前はっ」

 束縛から解放された水浸しの虎翔が、跳ね起きて、勢いに任せて周藍に飛びかかった。それを避けるでもなく、周藍の手が翻ったと思ったら、 虎翔は手首を掴まれて罠に掛かった獣の様に、高々と吊り上げられていた。

「離せよ、馬鹿野郎……」

 そう逞しくも見えない、どちらかと言えば華奢な感じのする周藍なのに、暴れる虎翔を腕一本で、軽々と持ち上げている。そんな無様な格好をさせられて、虎翔は悔しさで目に涙を浮かべている。

 屋敷の誰もが手を焼く弟を、こうも簡単に取り押さえてしまった周藍に、白雷は目を見張る。


……この人は……


 そこに圧倒的な力の存在を感じた。

 ずっと自分が捕らえられている、どこか居心地の悪い空気。

 それを吹き払ってくれる風……なのかも知れない。そう思った。


「……母上は、きっといい顔をなさらないと思う。でも私は、八卦が知りたいのです……」

 白雷がそう言うと、周藍が口元に笑みを浮かべた。

「お前がそう望むのなら、望む方へ道は開けるだろう」

 周藍の示した標が、白雷の中に一筋の光を差し入れた。そこへ向かって歩けばいいのだという安心感は、白雷の心を解き放って行く。ただ、それだけの事で、気持ちが随分と楽になった気がした。

「いい加減、大人しくしろ、虎翔」

 強い口調で兄にそういさめられると、虎翔は口を歪めたまま、項垂うなだれた。


 そこへ、下男が、杜狩が戻ったと知らせに来たので、周藍は虎翔を地に下ろしてやった。しかし、ようやく周藍の戒めから解放された虎翔は、捕まれていた腕をさすりながら、不貞腐れて、周藍と目を合わせようともしない。そんな虎翔の様子に苦笑しつつ、周藍はその頭を軽く弾くと、何も言わず屋敷へ戻って行った。しばらくは、この河南にいる事になりそうだ……などと思いながら。


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