第110話 我が師、周藍
その日から、周藍は杜家の客人となった。周藍の口添えで、白雷は八卦を学び始めた。母は、やはり気が進まない様であったが、八卦を学ぶという事が、そのまま八卦師になる事とは違うという父の言葉に、渋々ながら承知した様だった。
周藍という人物は、何だか不思議な感じの人だった。八卦師という職業柄そうなのかとも思ったが、父や母の周藍に対する態度を見ていると、周藍は、かなり位の高い人間である様にも思える。
物腰は柔らかいのに、何かを決断する時には、結構容赦がなかったりもする。 教え方は丁寧で優しい師であったが、手を抜く事は決して許さないという様な厳格な雰囲気を漂わせており、白雷は常に緊張感を持って師に接していた。それでも、新しく学ぶ八卦の知識は面白く、何を聞いても的を射た答えを示してくれる周藍を、白雷はすぐに気に入った。
そんな訳で、白雷は一日のほとんどを周藍と共に過ごす事が多くなった。それが勿論、虎翔に面白くなかったのは、言うまでもない。 八卦になど、更々興味は無かったから、兄が何時もの様に、共にどうかと言ってくれたのも断ってしまった。そもそも、あの周藍が師であるというのが気に入らない。
そして敬愛する兄が、周藍の後ばかりを追って歩く事は、彼にとっては本当に我慢のならない事だった。
これまで、学問も悪戯も何をするにも白雷と一緒だった。何事においても、白雷が先に決めて行動し、虎翔はいつもその後を追い掛けていた。誰の言う事は聞かなくても、兄に言われれば従った。
虎翔の怒りっぽい性格を恐れ、使用人たちが、彼を怒らせない様にと、必要以上に気を使っているのを知っていた。それは両親においても同じで、虎翔の機嫌を損ねる様な事を、極力避ける風な両親の態度は、いつも彼を苛立たせ、長じるにつれて、その苛立ちはどんどん募って行った。
だが、兄だけは違ったのだ。
虎翔がどんなに怒り狂おうとも、暴れて掴みかかろうとも、白雷は、自分が納得しなければ、決して譲らなかった。だから、虎翔は白雷といる時だけ、ありのままの自分をさらけ出す事が出来ていたのである。
その大事な兄を、周藍に奪われた。その思いは、虎翔の中に憎悪の感情を生じさせた。周藍を排除しなければ、兄は自分の元には戻って来てはくれない。子供ながらに考えた結論が、それだった。
たまに姿を見せる稜鳳が、遊び半分に剣術を教えてくれる時に使う木刀を部屋から持ち出すと、虎翔は周藍の元に赴いた。
もう、陽はだいぶ傾いていた。春の柔らかな空気が、夕暮の色に染まり、日没までの僅かな時を、ねぐらへ急ぐ鳥たちが空を渡って行く。
周藍と白雷は、庭の片隅に立って、そんな夕空を振り仰いでいた。周藍の姿を視界に捕らえると、虎翔は木刀を握る手を確かめる様に握り直した。 そして、何かに突き動かされる様に、周藍に突進していった。
「うわあああぁ」
ほとんど絶叫に近い声を上げて、虎翔は渾身の力と共に木刀を振り下ろす。鈍い音と共に、手に何か手ごたえを感じた。見ると、虎翔の木刀を周藍は腕一つで受け止めていた。
「虎翔っ」
白雷の狼狽を帯びたその声に、答える余裕はなかった。
見上げた周藍の顔は、平素と全く変わらない穏やかなものだったからだ。相手は腕利きの八卦師だ。一撃で昏倒させられなければ、こちらに勝ち目がないのは分かっていた。だから、もし失敗したら、とにかくすぐに逃げるべきだと、そう算段していた。
だが、大きな威圧感に捕らえられて、虎翔はその場を動けなかった。自分を見据える周藍の目からは、如何なる感情も読み取れない。 その静かすぎる瞳に、虎翔は力を吸い取られていく様な感覚に襲われる。
……何だ、これ……こんな……
その感情を認めたくはなかった。虎翔の胸に屈辱的な思いが広がっていく。自分が感じているのが、恐怖だと、認めまいとする気持ちだけが、虎翔を正気でいさせていた。
周藍が、徐に逆の手で木刀を引くと、あっと思う間もなく、虎翔の手は、いとも易く木刀から離れていた。
「成程。随分と、力を持て余してる様だな」
言いながら、周藍が腰の剣を鞘ごと抜くと、木刀の代わりに、呆然としている虎翔の手に握らせた。
その重みと冷たさに、一瞬、虎翔の背に寒気の様なものが走る。
「何……だよ。これ」
「見ての通り、真剣だ。試しに抜いてみろ」
虎翔は思わず周藍の顔を見返していた。冗談で言っているのではない様だ。
剣に視線を戻すと、虎翔は思わず唾を飲み込む。言い様のない緊張感を感じた。でもそれは不快なものではなくて、むしろ心地いい感覚…
虎翔は、右手で柄を握り、そっとそこに力を込める。すると、金属の擦れる、透明感のある音を伴って、白い刃が艶めかしい気を孕みながら、次第にその姿を露にして行く。
途中で、もう我慢が出来なくなって、虎翔は勢いよく剣を抜き放った。そこに何か神々しいまでの力を感じた。鞘を捨て、両手でそれを愛おしむ様に深く握り直す。 何だか心臓の鼓動が早まっていく。初めて感じる高揚感に、虎翔は酔っていた。
「来いよ」
周藍が木刀を構えて虎翔を見据えていた。それに誘われる様に、虎翔は剣を大きく振り上げた。
虎翔の剣は、薄闇にその残像を残すばかりで、周藍の体に掠りもしない。だが、木刀を構える周藍の体を、夢中で追い掛けながら、虎翔はそれを楽しいと感じている自分に出会った。
散々に剣を振り回し、やがて息を切らして汗まみれになってそこに座り込んだ虎翔は、ふり仰いだ空が満天の星に埋め尽くされているのを見て、長い溜息を付いた。
あれだけ激しい動きの後で、周藍は汗ひとつかかず、息も乱していなかった。今は少し離れた場所で、白雷と空を仰ぎながら、熱心に星見の手ほどきをしている。
「覚えてろ……よ……」
呟く声が届いたのか、一瞬、周藍がこちらへ視線を向けた。何時もの、穏やかな笑顔が虎翔の上を通り過ぎて行く。
……いつか……
対等に剣を交えてやるから。きっと。
その日から、虎翔もまた、白雷と共に、周藍の後を付いて歩く様になった。無論、虎翔に八卦の修行を共にするつもりは更々なく、白雷の勉強の合間に、周藍と剣を交えるのが目的である。 そうして、僅かでも暇が出来れば、虎翔は嬉々として周藍に挑んで行った。
それから数カ月が過ぎる頃には、二人の間に、軽快な剣の音が奏でられる様になっていた。そして虎翔には、剣を交える時にだけ、周藍の心の内がほんの少しだが、透けて見える様にもなった。 言葉には出来ないものを、感じる事が出来る様になっていた。それが何だかとても嬉しかった。
周藍を打ち負かす、という目標は、いつしか、虎翔にとって、耳では聞こえないその声を聞く為の、周藍をより近くに感じる為の手段へと変わって行った。
そして、その標はまた、虎翔を一つの未来へと繋ぎ合せるものとなって行ったのである。
宰相崔遥が不審な死を遂げた後、雷将帝は貴族会議を招集し、その後任として、皇騎兵軍元帥であった劉飛を推挙して、これを承認された。
新たに宰相となった劉飛は、空いた元帥位に自らの副官であり、皇騎兵軍大将であった姫英を昇格させた。表面的には、順当な人事であるが、この人事は実に重要な意味合いを含むものであった。
これにより燎宛宮は、姫英の嫌疑を不問に付すという意思表示を行ったのである。そして同時に、崔遥の死に関し、自死であったという刑部の報告を持って、この騒動の終止符を打った。
それ以上の詮索は、すべきではないという大勢の流れに、しかし、それを納得し切れない者がただ一人いた。崔遥の息子、
「……父上は、自殺だというのか、そんな馬鹿な話があるか」
その力を奢ることなく、また公正明大で不正を嫌う劉飛に、崔涼は絶大の信頼を置いていた。心から尊敬し、かの者に仕えていた事を誇りに思っていた。それが今は、裏切られた思いで一杯だった。
崔遥の死因は毒によるものだった。
外傷があれば、その傷が、他人によって付けられたものか、自分で付けたものか、ある程度の推測は出来る。 だが、毒となると、無理やりに飲まされたのか、自らの意思で飲んだかを、見分けるのは難しい。
結局、その日、崔遥が発見された時、部屋が内側から施錠された状態であったという事と、宮の八卦師の、外部から八卦師などが侵入した痕跡はなかったという証言から、 暗殺の事実はなかったという結論が導き出されたのだ。
かつての部下であった崔涼の抗議を、劉飛はきちんと聞いた上で、しかし、理路整然となされたその説明に、崔涼には返す言葉がなかった。
だが、その心がどうしても納得しない。どう考えても、父が死ぬ理由が分からなかった。
血の近き者を、突然に失った喪失感が、そう思わせるのか。劉飛からは、その気持の整理が付くまで、休息せよと言われた。 だが、そんな状況で、気を紛らわす為に口にした酒の量は、次第に増えていき、崔涼は屋敷に引き籠もったまま、ついには宮廷に姿を見せなくなった。
今度の人事異動で、崔涼もまた、中将から大将へと昇格した。だが結局、崔涼が大将として皇騎兵を率いる事はなかった。
それから半年ほどして、崔涼は皇騎兵軍を辞め、都の屋敷を処分して、その領地である
湊都は海州の南に位置する地方である。
そして、崔涼の胸に残ったこの遺恨が、やがてこの地に、帝国滅亡の狼煙をあげる事になるのである。
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