第24章 春華の宮の君

第102話 藍星王の盟約者

 丘陵を登り切ると、眼下に平地が開け、その彼方に、篝火かがりびにぼんやりと照らし出された華煌京が見えた。

「だ〜もう。西畔との往復って、きっつ」

 ぼやく様に言いながら、黒鶯はそこにしゃがみこんでいた。

「何でこの飛空術、も少し長い距離が飛べないかな……」

 そう言った黒鶯こくおうのすぐ傍で、闇が揺らめいて、そこに黒衣の少年が姿を現した。

「あなたが、棋鶯子ぎおうしの力を使いこなすには、まだまだ体が小さ過ぎるのですよ」

 その姿に、黒鶯は舌打ちをする。


「……何だよ、周藍しゅうらん。もう仕事帰りか?相変わらず手の早い」

「ええ、まあ。そういう事ですから。縹氷ひょうひには、予定を変更して、このまま元帥閣下のお屋敷へ行って貰う事になります」

 淡々とした口調でそう告げた周藍に、黒鶯は、反射的に問うた。

「……それでいいのか?お前は」

「……いいとは?」

「だって、かなでは……」

「奏は、巫女宮にいる限り、心配ないでしょう」

「そういう事じゃなくて、そんなんじゃ、奏も縹氷も幸せには、なれないだろう……お前だって……何だよ笑うなよ」

 周藍が少し侮蔑を込めた笑いを浮かべているのに気付いて、黒鶯は憮然とする。

「……済みません。星王との盟約を交わした者には、当たり前の幸せなど、望むべくもないのは、あなただって分かっている事でしょう。それを、その様なおっしゃり様……天界四方将軍玄武殿のお言葉とは思えませんよ」

「嫌みか、それは」

「いえ」

「お前、縹氷の顔を見て行けよ。かわいいぞ、縹氷は。あの顔を見れば、お前のその氷の様な心も、少しは動こう」

 黒鶯の言い様に、周藍の表情が曇る。

「……私は、あれには酷く嫌われていますからね。遠慮しておきますよ。無用な波風を立てる事もないでしょう」

「……蒼星王のやり方に、異は唱えないという事か。それは、お前が奴に引け目を感じているからか?それとも、奴の機嫌を損ねると厄介だからか?」

「……私がこの世に存在する理由は、ただ、藍星王様に与えられた使命を果たす事。それだけです」

「そうか……お前がそれでいいなら、もう何も言わないけどな。でも、奏はあれで、生きていると言えるのか?」

「……」

 周藍から返事はなかった。星王の盟約に縛られている者に、これ以上問うのは、酷なのかも知れない。そう考えて、黒鶯は腰を上げた。

「……では、遥玲ようれい様に、言伝てだ」

「はい」

「最短距離で行く、と」

「承りました」

 周藍はこうべを垂れると、その姿勢のまま姿を消した。

「……方位陣も描かずに飛ぶって、あり得ねえし。成程、藍星王が匠師しょうしを手放したがらない訳だよな」

 そう言って、黒鶯はため息をつく。自分にはもう、八卦の術を使うだけの体力が残っていない。彼方に見える都の灯り目指して、地道に歩いて行くしかなかった。 大きな力を得ても、それを使いこなすには、相応の力がいる。周藍が言った様に、黒鶯が棋鶯子の様な八卦師となるには、まだ数年の月日が必要なのだ。

「あ〜早く大人になりて〜っ」

 そのぼやきは、夜のしじまに吸い込まれる様にして消えて行った。





 縹氷が、通りから聞こえてくる騒ぎの音に目を覚ましたのは、夜更け過ぎの事だった。

 縹氷は、昼過ぎから姿の見えない黒鶯を案じて、猩葉しょうようと二人、ずっと宿の部屋で寝ずに待っていた。だが、いつの間にか眠ってしまい、恐らくそれを、猩葉が寝所まで運んでくれたのだろう。 戸の隙間から灯りが漏れている所をみると、猩葉はまだ起きている様だ。縹氷は寝所を出ると、そっと戸を開いた。


 部屋では、猩葉が窓辺に立ち、宿の外の様子を窺っていた。

「外が騒がしいけど、何かあったの?」

「その様ですね。先程から皇都警備こうとけいびの兵が、何やら走り回っている様です」

「黒鶯は?」

「それが、まだお戻りではありません」

「そう。まだなんだ……探しに行った方がいいのかな?もしかして、外の騒ぎと何か関わりがあるなんて事は……?」

 縹氷がいかにも落ち着かないという面持ちで、猩葉を見る。そんな縹氷の様子に、猩葉の脳裏に、かつて黒鶯に言われた言葉が浮かぶ。


……旅なんてものは、途中で、どんな不測の事態が起こるか分からない。縹氷の守者であるお前に言うまでもない事だろうが、何かあった時には、ともかく縹氷を守れ… 俺?俺の事は心配いらない。別に気にしなくていいから……


「大丈夫ですよ。黒鶯様ならば、そのうちお戻りになられます。私ももうじきに休みますから、縹氷様は気にせずお休み下さい」

「でも……」

 縹氷の顔には、心配の文字が張り付いたままだ。そこに、扉を乱暴に叩く音がした。

「こちらに、湖水領官の使者殿の従者はおるか?」

 扉を開く前に、廊下から怒鳴り声がする。猩葉は、縹氷に隣の部屋へ行くように合図をして、剣を掴むと、騒々しい音を立て続ける扉を勢いよく開いた。 猩葉の目に飛び込んで来たのは、皇都警備の兵が二人と、縄を掛けられている黒鶯の姿だった。


「よお」

 猩葉の顔を見ると、黒鶯が呑気に声を掛けて寄越した。

「……こんな夜更けに、何をなさっておいでですか、黒鶯様」

 黒鶯の姿を見て安堵した途端、怒りが込み上げて来る。

「この者は、湖水領官の使者だと申しておるのだが、それに間違いはないか?」

 兵の一人が猩葉に詰問する。

「相違ございません」

「では、通行証を見せて頂こうか」

 言われて、猩葉が懐から、証書を差し出す。兵たちはしばしそれを見分した後、黒鶯の身元を確認し、夜更けに子供を出歩かせるな、という小言を残して立ち去った。


「黒鶯様……」

「駄目。もうへとへとなんだ。話は起きてから〜」

 物言いたげな猩葉たちを制して、黒鶯はそのまま寝床に直行すると、そこに倒れ込む様に寝転がり、次の間には大きないびきと共に眠りに落ちていた。

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