第103話 本当の母
翌朝、散々縹氷の手を煩わせてから、寝床から起き出して来た黒鶯は、大きな欠伸をしながら気だるそうに卓に付き、猩葉の用意した朝食を食べ始めた。それを待ちかねた様に、縹氷が身を乗り出す。
「それで、昨日は、どこに行ってたのさ?」
「ん?ああ……母上からの伝令が来るって言うからさ……それと城門の外で落ち合うって話だったんだよ。それが、何か行き違ったみたいで、会えたはいいけど、気がついたら、もう夜? ありゃ、城門閉まってます?みたいな事になっちゃって……」
「……それで、城門の外で夜明かししていた訳ですか?あんな如何わしい場所で。遥玲様がお耳になさったら、何と言われるか。嘆かわしい」
城門の外には、地方から流れて来たものの、都に住む場所を得られない者たちが、浮民となって住みついている。
そこはまた、下層の民たちの盛り場でもあり、酒場や賭場、娼家などが混在する猥雑な場所でもあった。勿論、陽が落ちてから、子供が興味本位に歩き回れる様な所ではない。 下手をすれば、人買に攫われて、売られてしまう事だってあるのだ。
「……黒鶯は度胸あるんだなあ」
「縹氷様、そこは、感心する所ではありませんよ。ともかく、これからお出掛けになる時には、私が護衛に付きますから……」
「ば〜か。お前が俺にくっついて来ちゃったら、必然的に縹氷だってくっついて来るんだろうが。縹氷が危ない目に遭うのは宜しくないんじゃないんですか?守者様。 お前の心配は、縹氷だけに向けろって、何度言えば分かる?お前は、縹氷の守者なんだぞ」
「しかし、黒鶯様……」
「もういい。話を戻すぞ。伝令の話」
黒鶯は不機嫌そうにそう言うと、猩葉の言葉を遮って、話を進めた。
「都に着く前に聞いた、西畔に北方の騎馬族が侵攻したって話は、皇騎兵軍元帥様のご活躍で無事に解決しましたとさ。だから、もう俺らは北方まで行かなくていいっていうのが、要件の一。 で、これは昨日の夜の話なんだが……」
そこで、黒鶯が言葉を切って、二人に顔を寄せる様に手で合図する。そして、声を潜めて続けた。
「……何と、燎宛宮で宰相閣下が何者かに暗殺されたらしい。昨日、俺が警備に掴まったのは、その犯人の探索途中で、運悪く通行証を持っていかなかったから、引っ張られちゃったって訳」
「……その暗殺者が、その様な所に潜伏しているのですか?」
「まあ、見立てなんだろうけどな。取り合えず、それっぽいのを捕まえておいて、犯人を仕立てるっていう、ありがちな……」
「やってないのに、犯人にさせられちゃうの?」
縹氷が驚いた様に言う。
「暗殺なんて、大抵、政争絡みの話だろう?まともに犯人探し始めちゃったら、とんでもない大物が出てきちゃう可能性が高いからな。この手の事件は、真犯人が誰かって事より、捜査の主導権を握った人間が、誰を犯人にしたいかという辺りで、決着が付く事になってんの。で、巫女宮の星導師は、この事を予見していたみたいでね、ここ数日の内に、燎宛宮で大きな動きがある様だというのが、要件の二。その動きに、縹氷、どうやらお前の星が絡まってるんだと」
「僕が?何で?」
「お前の本当の親は、この都にいる」
「本当の……親って……」
突然の宣告に、縹氷は明らかに戸惑っていた。
「実は、親書のお使いの他に、俺には、母上から命じられていた使命がある」
「……それは」
「お前を、本当の親に引き会わせる事だ」
「ちょっと待ってよ、僕は……」
「お前を、この旅に同行させたのは、そういう理由があったからなんだよ」
「……」
縹氷は何かを考え込む様に押し黙った。ややあって、口を開く。
「……僕は、今更、本当の親になんて会いたくない。黒鶯と一緒に、このまま湖水へ戻ったら、いけないの?」
縹氷が懇願する様に黒鶯を見る。
「湖水領官様は、それをお望みではないんだよ、縹氷」
「そんな……」
黒鶯が懐から懐剣を取り出して、縹氷の目の前に置いた。
「いいか?よく聞けよ。お前は、赤子の時に、燎宛宮の騒乱に巻き込まれて、星見の宮に仕えていた八卦師に命を救われた。その八卦師は、お前の身を守る為に、湖水まで逃れて、そこの領官だった遥玲様に保護を求めた。お前の生存が知れれば、お前は命を狙われる可能性があった。だから、遥玲様は、お前の出自を伏せ、この十年、お前を保護なさっていたんだ」
「……人に知れれば、命を狙われる存在って、一体、僕は……」
「お前の父は、皇騎兵軍元帥劉飛様。そして、母は、皇家の血を引く楊家の茗香姫様だ。つまり、おまえは、この帝国で、現在只一人の皇位継承者だという事になる。茗香姫様のご紋が付いている、この懐剣がその証なんだそうだ」
縹氷の手が、躊躇いがちにその懐剣に伸び、美しい細工の施されたその懐剣に触れる。
「これが……母上の……形見……」
縹氷の心に、奏の優しい笑顔が浮かぶ。
……僕の母上は……奏さま……ではない……
そんな事は分かっていた。でも、今まで、奏は確かに自分の母親だったのだ。縹氷の、母に対する想いは全て、奏に向けられていた。
……それなのに……
不意に、その思いが、奏から断ち切られて、行く場を失った様な気がした。
奏の他に、母と呼ぶべき存在がこの世にいたという事実は、縹氷の心を大きく揺らした。縹氷はその懐剣を胸に抱くと、俯いたまま席を立ち、ふらふらと隣の部屋へ行ってしまった。
「……今の話、どこまでが本当だ?」
壁際に控えて、二人の話を聞いていた猩葉が、黒鶯に問うた。すると……
「お前は、どこまで覚えている?」
答えの代わりに、黒鶯からそう問いを返された。その言葉に、猩葉は眉をひそめる。
「……お前、一体」
「お前は、縹氷の守者という、お前の使命を全うする事だけを考えていればいい」
余計な事は考えるなとでもいう様に、黒鶯はまた同じ言葉を繰り返した。
業火の中で、泣いていた赤子の声を覚えていた。
自分は、その赤子を殺そうとしていたのか……それは分からない。後は、その時に、自分にぶつけられた攻撃的な激しい気の感覚を覚えているだけだ。
しかし、猩葉の中で、その感覚と、縹氷の大人しく繊細な印象とは、どうしても結び付かなかった。
「……あれが、火司か」
自問する様に呟く。
ただ、縹氷が何か大きなうねりの中に引き込まれていくのは感じていた。星を操り、人の運命を紡ぐ巫族の末裔である湖水の者たちの手によって。そう思うと、猩葉の中に、決意にも似た感情が沸き起こった。
……縹氷様は、必ず守る……
彼の者の守者だからという理由からではなく、ただ、縹氷という存在が、何者かの手によって弄ばれ、傷つけられる事が嫌だった。それは多分、奏の笑顔のためでもあったのかも知れない。罪深い前世を抱え、苦しんでいた自分が、唯一、心安らかにいられる場所……それを失いたくはなかった。
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