第95話 湖水領官、遥玲
華煌帝国の南の辺境に広がる湖水地方には、その名の通り、大小さまざまな湖が点在する。元来、この地は湿地帯であった。
鳳凰山系の雪解け水が、この地のあちらこちらで、一斉に泉となって湧き出しているのだ。
故に、湖水という町は、その湿地帯の上に存在する。足を踏み入れれば、
かつて、始皇帝の外征から逃れて来た
大陸歴二百六十年、春――
だが、雷将帝には後継者がおらず、その平和はまだ脆弱なものに過ぎなかった。都では、有力貴族たちが先を争って娘を後宮入りさせているという話だが、まだお目出度い話は聞かれない。宰相
中央に近い地の領官は、中央から派遣された官吏が務める事が多いのだが、始皇帝の時代以来の被支配民族に対する、融和政策によって、地方では、その土地の有力者が領官に任じられる事が多かった。だから、中央の力が弱まれば、その力が強くなるのは、自明の事であった。
湖水という地も、そんな地方の一つだった。現在、この湖水の領官を務めているのは、
湖水では、女の子は三つの年になると、例外なく、巫女宮という宮に入る。幼い少女たちは、そこで、未来を予知する星見という八卦の技を学び、いずれ、都の星見の宮へ仕える事になる。
才はあっても、修行なくしてその力は開花しない。それで、その条件を果たす為に、ここに巫女宮という宮が作られ、この町特有の慣例が作られたのだ。
才がないと認められれば、少女は巫女宮を出され、そのまま家へ返された。しかし、才を認められた者は、星見となって都へ向かうその日まで、巫女宮の外に出る事を許されなかった。 少女たちは、親や兄弟と会う事も許されず、十数年という時を巫女宮で過ごし、宮で与えられた名と共にそこから旅立って行く。
星を読み、未来を精密に予知する為には、世俗との関わりを断ち、その心を天の星にのみ集中しなければならない。そう伝えられていたからである。だから、長く巫女宮にいた瑶玲が、実際にはどこの誰で、年は幾つになるのかという事を知る者は、湖水の町にはいなかった。どうしても、その出自を知りたければ、門外不出である巫女宮の記録を、紐解く以外に方法はない。しかし、それを管理保管しているのもまた、領官である瑶玲であるから、その正体は、謎に包まれたままだった。
風が通るようにと、開け放たれている執務室の扉の向こうに、人の気配を感じて、遥玲は書類を書く手を止めて顔を上げた。
見れば、廊下に水を零した様な跡が点々と付いている。それに気付いて、遥玲は顔をしかめた。
「……
瑶玲が呼ぶと、隣室に控えていた少年が姿を見せた。
「はい、ここに」
「済まないが、
頷いて猩葉が部屋を出て行く。
「……また、何をやって湖に落ちたものか」
遥玲は呟きながら、気分転換にと、開け放たれている窓から見晴らしのいい露台へと出た。湖面は陽春の穏やかな光を映して、明るい色に輝いている。だが、まだ雪を頂く山から吹き下りる風は、到底、暖かいとは言えず、この時期雪解け水が流れ込む湖は、思いの外冷たいのだ。
遥玲がふと眼をやると、湖岸の小道を一人の少年が、嬉しげに小走りに走っていくのが見えた。それは巫女宮へと続く道だ。少年の手には、この時期に湿原に咲く小さな白い花の束が握られていた。
「……成程。そういう事か。黒鶯も世話好きな事じゃな」
遥玲の息子、黒鶯は、この年、九つになっていた。
性格は明朗快活で、その年にしては大人びていて、同じ年であるこの少年、
縹氷に親はいない。
そして、黒鶯は父親の顔を知らなかった。
黒鶯は片親であるせいで、それなりに寂しい思いをしていた。だが、縹氷には父どころか母もいないと知って、自分よりも寂しい思いをしていると思ったのだろう。 縹氷のその境遇を知るや、黒鶯は自身で、縹氷の兄となろうと心に思い定めた様だった。以来、何かと縹氷の世話を焼く。
黒鶯と同じ年ではあるが、縹氷はその大人しい性格のせいか、幾分幼く見えた。その縹氷は、巫女宮にいる一人の
「……あれが特別な存在とはいえ……いつまでも星導師の側に置いておく訳にはいかぬ」
遥玲の瞳が、何かを思案する様に閉じられた。すると、少し嘲弄を含んだ声が、その心に響いた。
……それは、そなたの焼もちというものではないのか……
「お戯れはお止め下さい。私は、私の使命に忠実であろうと考えているだけです」
……そういう事にしておこうか……
「白星王様…」
……よいよい。ところで、星が動く兆しがあるとか……
「はい。北の地に、近々、風が立ちましょう」
……四方将軍のお手並み拝見というところか……
「事がこじれる様であれば、縹氷に、その使命を果たして貰わねばなりません」
……僅か十足らずで、世に送り出すか。過酷なことだな……
「それが、我らの使命でございましょう」
……そうだな……
遥玲の揺ぎ無い意志の籠った言葉に、それを是とも否とも言わず、白星王は呟く様にそう言うと、その気配を消した。
「星導師の身を守る為と申せば、蒼星王様にも異論はございますまい……」
遥玲は小さくなっていく縹氷の姿を、その行く末に思いを馳せながら、しばし見据えていた。
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