第95話 湖水領官、遥玲

 華煌帝国の南の辺境に広がる湖水地方には、その名の通り、大小さまざまな湖が点在する。元来、この地は湿地帯であった。

 鳳凰山系の雪解け水が、この地のあちらこちらで、一斉に泉となって湧き出しているのだ。

 故に、湖水という町は、その湿地帯の上に存在する。足を踏み入れれば、泥濘ぬかるみに足を取られる。そんな軟弱な地盤の上に建てられる建造物は、無論そのまま大地の上に作る事は叶わず、実は巨大ないかだの上に乗る形で作られている。

 かつて、始皇帝の外征から逃れて来た巫族かんなぎぞくの流民が、この湿地帯に逃げ込み、初めはそれぞれに小さな筏で生活していたものが、次第に互いの筏同士を繋ぎ合わせる様になり、やがて町にまで大きくなったという話である。それから半世紀後の三代玲帝れいていの時に、帝国との和睦を経て、この地は帝国最南の町となった。



 大陸歴二百六十年、春――


 李炎りえんの乱から、十年の月日が流れていた。長く続いた内乱は、現皇帝雷将帝らいしょうていを残して、皇族の血が絶えるという皮肉な結末によって、ようやくその収束を迎えた。皇帝が財政の立て直しを優先させた為に、敵の侵攻を受けた燎宛宮の修復には、長い年月を要したが、それも数年前に完成し、帝国は現在、平和な空気の中にあった。


 だが、雷将帝には後継者がおらず、その平和はまだ脆弱なものに過ぎなかった。都では、有力貴族たちが先を争って娘を後宮入りさせているという話だが、まだお目出度い話は聞かれない。宰相崔遥さいようの元、燎宛宮の力も増してきてはいるが、地方の方にまで手が回らないというのが実情の様で、都から遠い地方では、その支配権を与えられている領官の力が次第に大きくなっていた。


 中央に近い地の領官は、中央から派遣された官吏が務める事が多いのだが、始皇帝の時代以来の被支配民族に対する、融和政策によって、地方では、その土地の有力者が領官に任じられる事が多かった。だから、中央の力が弱まれば、その力が強くなるのは、自明の事であった。



 湖水という地も、そんな地方の一つだった。現在、この湖水の領官を務めているのは、遥玲ようれいという年若い女性である。年の頃は、二十歳前後に見える。だが、彼女が十年前に領官に着任した時も、その位の年に見えたというから、実際の年齢はよく分らない。この湖水の生まれで、幼い頃に、町の慣例に従って巫女宮みこみやに入り、長じて領官の任に就いたという人物である。


 湖水では、女の子は三つの年になると、例外なく、巫女宮という宮に入る。幼い少女たちは、そこで、未来を予知する星見という八卦の技を学び、いずれ、都の星見の宮へ仕える事になる。巫族かんなぎぞくの血を引き、八卦の才を持つ彼らに、かつて帝国が和睦の条件として示したのが、毎年、一定数の星見を都へ送るというものだったのだ。


 才はあっても、修行なくしてその力は開花しない。それで、その条件を果たす為に、ここに巫女宮という宮が作られ、この町特有の慣例が作られたのだ。

 才がないと認められれば、少女は巫女宮を出され、そのまま家へ返された。しかし、才を認められた者は、星見となって都へ向かうその日まで、巫女宮の外に出る事を許されなかった。 少女たちは、親や兄弟と会う事も許されず、十数年という時を巫女宮で過ごし、宮で与えられた名と共にそこから旅立って行く。


 星を読み、未来を精密に予知する為には、世俗との関わりを断ち、その心を天の星にのみ集中しなければならない。そう伝えられていたからである。だから、長く巫女宮にいた瑶玲が、実際にはどこの誰で、年は幾つになるのかという事を知る者は、湖水の町にはいなかった。どうしても、その出自を知りたければ、門外不出である巫女宮の記録を、紐解く以外に方法はない。しかし、それを管理保管しているのもまた、領官である瑶玲であるから、その正体は、謎に包まれたままだった。



 風が通るようにと、開け放たれている執務室の扉の向こうに、人の気配を感じて、遥玲は書類を書く手を止めて顔を上げた。

 見れば、廊下に水を零した様な跡が点々と付いている。それに気付いて、遥玲は顔をしかめた。

「……猩葉しょうよう

 瑶玲が呼ぶと、隣室に控えていた少年が姿を見せた。

「はい、ここに」

「済まないが、黒鶯こくおうの面倒を見てやってくれぬか。まだ、泳ぐには早かろう。風邪をひいてはいけないからな」

 頷いて猩葉が部屋を出て行く。

「……また、何をやって湖に落ちたものか」

 遥玲は呟きながら、気分転換にと、開け放たれている窓から見晴らしのいい露台へと出た。湖面は陽春の穏やかな光を映して、明るい色に輝いている。だが、まだ雪を頂く山から吹き下りる風は、到底、暖かいとは言えず、この時期雪解け水が流れ込む湖は、思いの外冷たいのだ。


 遥玲がふと眼をやると、湖岸の小道を一人の少年が、嬉しげに小走りに走っていくのが見えた。それは巫女宮へと続く道だ。少年の手には、この時期に湿原に咲く小さな白い花の束が握られていた。

「……成程。そういう事か。黒鶯も世話好きな事じゃな」



 遥玲の息子、黒鶯は、この年、九つになっていた。

 性格は明朗快活で、その年にしては大人びていて、同じ年であるこの少年、縹氷ひょうひの面倒を良く見る。今回も大方、縹氷の為にあの花を摘もうとして水に落ちたのだろう。


 縹氷に親はいない。

 そして、黒鶯は父親の顔を知らなかった。


 黒鶯は片親であるせいで、それなりに寂しい思いをしていた。だが、縹氷には父どころか母もいないと知って、自分よりも寂しい思いをしていると思ったのだろう。 縹氷のその境遇を知るや、黒鶯は自身で、縹氷の兄となろうと心に思い定めた様だった。以来、何かと縹氷の世話を焼く。


 黒鶯と同じ年ではあるが、縹氷はその大人しい性格のせいか、幾分幼く見えた。その縹氷は、巫女宮にいる一人の星導師せいどうしを母と思い定め、折あらば、ああして花や菓子を手に、宮へ遊びに行っていた。本来、宮は、巫女以外の者の立ち入りは禁じられている場所である。 しかし、縹氷がまだ幼いという事と、その境遇に同情して、彼は宮への出入りを特別に許されていた。だが、その事もそろそろ考えなければならなかった。


「……あれが特別な存在とはいえ……いつまでも星導師の側に置いておく訳にはいかぬ」

 遥玲の瞳が、何かを思案する様に閉じられた。すると、少し嘲弄を含んだ声が、その心に響いた。


……それは、そなたの焼もちというものではないのか……


「お戯れはお止め下さい。私は、私の使命に忠実であろうと考えているだけです」


……そういう事にしておこうか……

「白星王様…」


……よいよい。ところで、星が動く兆しがあるとか……


「はい。北の地に、近々、風が立ちましょう」


……四方将軍のお手並み拝見というところか……


「事がこじれる様であれば、縹氷に、その使命を果たして貰わねばなりません」


……僅か十足らずで、世に送り出すか。過酷なことだな……


「それが、我らの使命でございましょう」


……そうだな……


 遥玲の揺ぎ無い意志の籠った言葉に、それを是とも否とも言わず、白星王は呟く様にそう言うと、その気配を消した。

「星導師の身を守る為と申せば、蒼星王様にも異論はございますまい……」

 遥玲は小さくなっていく縹氷の姿を、その行く末に思いを馳せながら、しばし見据えていた。

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