第96話 失くした記憶

 巫女宮の門番は、縹氷の姿を認めると、笑顔で門の通用口を開いてくれた。それに礼を言って、縹氷は、勝手知ったる巫女宮の中に足を踏み入れる。 手入れの行き届いた中庭には、春先に咲き揃う様にと植えられた花たちが、その蕾を重たそうに下げていた。


「縹氷さま、ごきげんよう」

 縹氷が庭を横切る間に、庭を囲む回廊のそこかしこから、巫女たちの声が掛かる。女ばかりの世界に、時折紛れ込んでくるこの小さな少年は、彼女たちの心を和ませる存在でもある様だった。 ただ、縹氷の方は、娘たちの少し好奇の混じった視線やそんな挨拶が、どうも気恥ずかしい。俯きがちに歩を進めながら、声を掛けられる度に、小さく会釈を返すのが精一杯だった。



 目的の場所に着くと、縹氷は深呼吸をして、少し緊張した面持ちで、扉を叩いた。

かなでさま、いらっしゃいますか?」

 その声に、中からすぐに返答があった。

「縹氷ですね。お入りなさい」

 扉を開くと、部屋の高座に座っていた奏が、いつもの笑顔で縹氷を出迎えた。奏のその優しい表情を見ると、縹氷はいつも穏やかで、温かな気持ちになる。


 奏は星導師と呼ばれる、巫女たちの教育係をしている。幼い頃、初めて出会った奏に、縹氷は、物心ついた時にはすでにいなかった母の面影を重ねた。初めて会った自分を、奏がそっと抱き寄せてくれた時の温もりは、今でも覚えている。寂しさが薄らいでいく……その事をとても心地良く感じた事を。


……ああ、これが私の母上だ……

 幼い縹氷は、ただそう感じた。


 縹氷の境遇に同情してくれたのか、奏は縹氷が自分をと呼ぶ事を許してくれた。以来、縹氷は奏の事を母と呼んでいる。

 ただ、縹氷が奏に重ねた母の姿は、彼が大きくなるにつれて、次第に齟齬を来し始めていた。奏の姿は、出会った時のまま、年を取っていないのだ。 数年前、縹氷はようやくその事に気づいた。幼い頃には、母の様に思えた奏が、今ではもう、姉と呼んだ方が良いぐらいの年にしか見えない。



 星導師は星の声を聞く為に、その身を時の流れの外に置く。

 そう教えてくれたのは、黒鶯だった。だから、かつて星導師であったという彼の母、遥玲も見かけよりは年は行っているのだと、笑いながら教えてくれた。


 このまま大きくなれば、自分はいつか奏の年を追い越してしまうだろう。それが、たまらなく嫌だった。いつまでも、自分の母でいて欲しかった。だからいつも、縹氷は万感の思いを込めて奏を母と呼ぶ。 そんな縹氷の思いを、奏は少しでも感じてくれているだろうか。


「母上、今日はお花をお持ちしました」

 縹氷がそう言って握っていた小さな花束を差し出すと、奏が小さく感嘆の声を上げて嬉しそうな顔をする。

「まあ、水琴花すいきんかね。何て珍しい……」

 そう言って、手の中の花を眺めていた奏の瞳に、ふと涙が浮かぶ。

「……母上?」

「ああ、何でもないのよ。ちょっと懐かしい気がして……昔、この花が咲いている水辺で、花が風に鳴っているのを、いつまでも聞いていた様な気がしたから……」

「……それは悲しい気持?」

「そうね……悲しいというか、せつないという感じかしら。縹氷には、まだ分らないわね」

「ごめんなさい」

 しょんぼりとしてしまった縹氷を、奏が明るく宥める。

「大丈夫。そんな気がしただけだから。私、昔のこと、何も覚えていないでしょう?だから、こんな風に、嬉しいとか、悲しいとか、普段はあまり感じないの。導師長様には、能天気で困るなんて言われるぐらい。 だから、自分の中にも、こんな気持ちがあったんだっていう発見は、嬉しいの。ほんとよ。縹氷のお陰、どうも有難う」

「母上……」

「琴を聴いていく?」

 奏が水を張った器に、花を活けながら聞いた。

「はい」

 頷いて縹氷が部屋の隅に腰を落とすと、奏は高座に戻り、琴を奏で出した。



 星導師は、日に数度、決まった時間に、琴を奏でる。弦が九本張ってあるこの琴は、星奏琴せいそうきんという名で呼ばれる特別なものだ。ちなみに、巷で楽師が奏でる琴は、七弦の琴である。九つの弦は、天空の九つの星と相対していると言われ、星導師は琴を奏でる事で、天の星の音を聞くのだとも言われている。


 奏の紡ぎ出す音は、その明るい性格とは裏腹に、いつもどこか儚く、どこか物悲しい。奏には昔の記憶がない。十年前、何処かよりこの地へ流れ着き、行き倒れていた所を、遥玲に拾われたのだという。八卦に通じていた事から、この巫女宮で保護されて、程無く、奏という名を与えられて星導師となった。その音が哀しみの色を帯びるのは、奏の失った記憶のせいなのかとも思う。


……悲しい思い出なら、思い出さない方がいいから……


 縹氷は卓上に置かれた器から、そっと花を抜き取った。そして、琴に集中している奏を残し、そのまま忍び足で部屋を出て行った。



 中庭に降りた所で、縹氷は、猩葉を従えた黒鶯とはち合わせた。先刻、ずぶ濡れになった着物は乾いたものに取り換えられていたが、その黒髪にはまだ水滴がしたたっていた。

「お前さあ、着替えが済むまで待ってろって言ったのに。抜けがけなんてずるい……」

 文句を言い掛けた黒鶯は、縹氷の手に花が握られたままなのに気付いて、怪訝そうな顔をする。

「その花、奏様に差し上げなかったのか?」

「だって……母上には、いつも笑顔でいて欲しいから……」

 縹氷が泣きそうな顔をしながら言った。


 その花が、奏の中の多分悲しい記憶に繋がるものだと聞いて、黒鶯が神妙な顔でため息を漏らして呟く。

「……盟約とは重いものだな」

「え?」

「あ、いや、何でもない。だったら、その花、俺の母上に差し上げよう。上手く行けば、これで、小言の数を減らせるかも知れない」

伽夜かや様に?」

「そう、今も巫女宮に語り継がれる、麗しの星導師、遥玲伽夜ようれいかやさま。この庭の花壇は、その伽夜さまがお作りになったものだそうだから、きっと、花はお好きだ」

「……うん」

「もっとも、この水琴草は貴重な薬草だそうだから、実用的な観点から、お喜びになるかも知れないな……賭けようぜ?これを花として喜ぶか、薬草として喜ぶか、どうだ?」

「……黒鶯は、何でも良く知ってるんだね。凄いや」

「お陰さまで、俺の背中にはいつも知恵袋がへばり付いているからな」

 黒鶯が顎で猩葉を示す。そう言われた当人は、子供の会話には興味無さそうに、そっぽを向いた。



 猩葉しょうようは遥玲に仕えている少年で、年は確か、自分たちより六つばかり上だ。まだ十代の半ばでありながら、どこかの町の武芸大会で大人たちをなぎ倒し、優勝した経歴を持つらしい。

 縹氷と同様に親はなく、生活の為に、止むなく武芸の腕を磨いたのだといい、そういう大会で賞金を稼いでは、糊口ここうをしのいでいたらしかった。 それを、たまたま、その武芸大会を見ていた遥玲が、気に入って、この湖水に連れ帰った。


 今は遥玲の護衛をしながら、領官の屋敷にある書庫の書物を読みあさっている。それだけの腕を持ちながら、武官ではなく、文官としての仕官を望んでいるのだという。生来、争い事は好まぬ性格の様だった。

「お前は、奏様にご用があるんだろ?」

 その懐に、遥玲からの文を預かっている猩葉は、そう言われて無言のまま頷いた。

「じゃ、俺達、先に帰ってるから」

 縹氷を伴ってその場から去っていく黒鶯の背に、思い出した様に、猩葉が声を掛けた。

「……くれぐれも、寄り道などなさって、遥玲様のお小言を増やされませぬ様に」

 黒鶯は肩を竦めるだけで、振り向きもせずそのまま立ち去った。

 一人残された猩葉は、その場に佇んで、しばらく奏の琴を聞いていた。

 聞くうちに、その音に引き込まれる様な感覚に襲われる。その琴の音が、何だか自分の体に絡みついてくる様な気がして、鼓動がやけに大きく感じれられた。

 それは、いつも感じる、あまり嬉しくない予兆だった。

「……また……か」

 そう思った途端に、頭に激痛が走った。猩葉はその痛みに耐える様に、体を折り、その場にうずくまった。頭を誰かの手で掻き回される様な激痛の中で、鮮明な情景が頭の中に再生する。


 血飛沫を上げながら、次々に倒れ行く人、人、人……

 その情景の中に、時折煌く銀の刃は、間違いなく自分の手が握っているものだ。倒れた者たちはすでに屍と化し、二度と動き出す事はない。そして血にまみれた手を見て、自分は、その行いに歓喜の声を上げている。……多くの敵を、多くの人を、嬲り殺す事を喜んでいる。


 そんな悪夢の様な情景を、猩葉は幼い頃から繰り返し見続けて来た。人を殺す事に、微塵の躊躇いもなく、その行為をむしろ陶酔している自分。そんな自分が信じられなかった。


 仕込まれた様に身軽に動く体。

 得物を手にすれば、自然に動く体躯。

 相手と対峙すれば、それを獲物の様に見据える瞳。

 ……その全てが、厭わしかった。


 それでも、食べる為に、剣を離す事は出来なかった。いつか、この悪夢の様に、人を殺してしまうのではないかと怯えながら……


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