第97話 守者の誓い

「大丈夫、ここへ戻っていらっしゃい」


 耳元で奏の声がして、猩葉はその悪夢から解放された。肩に置かれた手から、奏の穏やかな気が流れ込んでくる。それが、猩葉の心を次第に落ち着かせていった。

 まだ呼吸が荒いままの猩葉を、奏は部屋へ連れて行くと、薬湯を作り、手づからそれを飲ませた。ほんのりと甘みを帯びた温かい液体が、喉を通って体に流れ込むと、猩葉は体の中から心地の良い温かさを感じた。


「……落ち着いた?」

 奏に気遣う様に言われて、猩葉は頷いた。

「星導師様のお手を煩わせまして、誠に申しわけございません……」

「気にしなくていいのよ。遥玲さまから、事情は伺っています。私は記憶がなくて苦労しているけど、あなたは記憶がありすぎて苦労しているのね……」

「……記憶が、ありすぎて?」

「先日、遥玲さまからご依頼があって、あなたの星を読ませて頂きました。あなたが見る悪夢は、あなたの前世の記憶です」

「前世……」


 それならば、自分は前世で、あんな風に人を殺めて、喜ぶ様な殺人鬼だったというのか。猩葉が深刻な顔をして押し黙る。


「あなたは、前世に犯した罪を償う為に、再びこの世に生を与えられた。そういう存在です」

「……もし、そうだとして、償う事など出来るんですか……あんな風に大勢の人を……」

守者しゅじゃとしての誓いを立てなさい。そうすれば、その悪夢からは解放されるでしょう」

「守者の誓い……」


 それは、その命を掛けて、誰かを守るという誓いだ。その誓いが果たされた時、つまり、守るべきものを守って命を失った時、初めて、その者の罪は購われたと認められる。その生を贖罪しょくざいの生として生きる事を意味する誓いである。


「……遥玲様はその為に、私の様な者を拾って下さったのですね」

「ええ、恐らく」

「分りました。ならば、そのお望み通りに、私は、黒鶯様の守者となりましょう」

「そうではなくて、遥玲さまは、あなたに縹氷の守者となる事をお望みです」

「……縹氷の?」

 猩葉が不可解だという顔をする。領官の子息である黒鶯ならともかく、館の下働きをしているに過ぎない縹氷に、守者が必要だという、その理屈が分らない。


「その理由はいずれ、時が教えてくれましょう……そう言えば、遥玲さまから、書状が届く頃なのだけれど、あなたがそのお使いの者ではないのかしら?」

「あ、はい。書状なら、ここに」

 猩葉は、慌てて懐から書状を取り出すと、奏に渡した。猩葉の目の前でその書状を開くと、奏はその内容を口に出して読み上げた。

「星導師殿には、出立に良き日取りを星にはかって頂きたく、我が館にご足労願う……」

「……出立……遥玲様は何処かへお出ましになられるのですか?」

「遥玲さまではなくて、ご子息の黒鶯さまが、親書を持って、北方へ行かれるそうよ。黒鶯さまには、縹氷を伴いたいというご要望だそうだから、縹氷の守者となれば、あなたもその旅に同行するという事になるわね」

 あんな子供を、二人も引き連れて遥か北の地まで旅をしなければならない。そう聞いて、猩葉は顔をしかめた。

「……よもや、物見遊山ではありますまいね」

「それは、黒鶯さま次第といったところかしら?」

 奏が笑いながら答える。だが、その笑みが不意に消えた。不審に思う猩葉の前で、奏の瞳から、涙が一粒零れおちた。


「……奏さま?」

「……嫌ね。こんな……どうしてかしら」

 奏が決まり悪そうに、涙を拭った。

 何か大切なものが、なくなってしまう。そんな思いが、ふと、奏の心を掠めたのだ。

「嫌なものね。覚えていない記憶に、心をかき乱されるなんて……」

 旅立つ者たちの話をしていて、ふと寂しさを感じた。


……あなたは、何が寂しいの?……


 自問しても、答えは出ない。自分は何故、記憶を失ってしまったのだろう。失ったのは、記憶だけだったのだろうか……もっと、大切な何か。それを失ってしまった様な気がしてならなかった。


 ……大丈夫……

 悲しみはみんな、僕が引き受けるから……

 悲しい思い出なら、思い出さない方がいいから……

 忘れてしまった方がいいから……

 もう二度と涙を流さなくて済むように……

 忘れてしまった方がいいから……

 だから、ね……忘れてしまおう……


「奏様?」

 ぼんやりとしていた奏を、今度は猩葉が引き戻した。

「……ああ、ごめんなさい。仕度をするから、少し待ってて」

「はい」

 奏が術具をまとめるのを目で追いながら、猩葉の中で、その顔が、何となく縹氷と重なった。


……似ている……のか?……


 そんな風に感じたのは初めてだった。もっとも、奏とこんなに会話を交わしたのも、初めてだった。今まで、その顔をこんな風にしみじみと眺める事などなかったのだ。そこで仕度の出来た奏がふと顔を上げて、目があってしまった。

「なあに?」

「……いえ」

 改めて奏を見ると、それ程似てはいない様に感じた。それでも、猩葉の口からは、その言葉が出ていた。

「縹氷は必ず、この猩葉が命を掛けてお守り申し上げると、奏様にお約束致します。だから、ご心配など無用です。どうか心安らかに、そのお帰りをお待ち下さい」

「……縹氷?」

「はい、彼の者の守者として必ず」

「ありがとう、猩葉」

 奏が笑顔で礼を言う。

 その笑顔が、不意に歪んで苦しげな顔に変わる。その首に手を掛けて締め上げているのは、間違いなく自分の手だ。


……また、幻覚が……


「猩葉、行くわよ」

 奏の声に、幻覚は跡形もなくかき消された。


 自分は、この人を知っている。

 恐らく前世で……自分はこの人を苦しめた。

 だからその償いをしなければならないのだ。猩葉は、そんな思いに囚われる。


……だから、守らなければならない。この人の大切なものを……縹氷を……


 それが、自分がこの生を生きる理由なのだと、そう思った。



 奏の星見の結果、出立は八日の後と決まった。猩葉はその出立までの間に、巫女宮で守者の誓いを立て、縹氷の守者となった。

 その事を告げられて、縹氷は、初めこそ戸惑った風だったが、その意味の重さをまだ理解していない縹氷は、猩葉と共に黒鶯の供としてこの旅に同行させてもらえる事を知ると、その事を単純に喜んでいた。




 その日――

 温かな春の日差しの中、三人の少年は元気に旅立って行った。


 見送る人々の中で、奏は、次第に遠ざかっていく三人の後ろ姿を、言い様のない寂しさを感じながらその瞳に映していた。

 不意に、その姿が涙で滲んだ。感情を押し留める間もなく、悲しみが込み上げて来て、涙が止めどなく流れ落ちて行く。

「……縹氷……いや……」

 奏は、ようやくその悲しみの原因に気付いた。縹氷を失いたくはない。その思いが、奏を揺り動かした。その姿を追う様に、ふらふらと足が数歩前へと出る。しかし、そのまま駆け出しそうになる体は、後ろから抱きとめられた。

「奏、奏、しっかりなさい」

 耳元で遥玲の声がする。

「大丈夫、縹氷には猩葉がついているのだから」

 だか、心の不安は膨らむばかりだ。

「でもっ……あの子はっ……」

 抗う様に身をよじった奏に、彼女を抱きしめる遥玲の腕に力がこもった。


……大丈夫だ。そなたには、私がついておるではないか……


 懐かしい声が言った。

「……白星王さま……」

 その声を聞いた途端、体中の力が抜けて、奏はそこで気を失った。

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