第130話 茶番の代価

 次第に河南軍が近づいてくるそんな状況に、燎宛宮は落ち着かない空気に包まれていた。皇帝の間に座する雷将帝の傍らには、華妃が寄り添う様にして佇んでいた。姫貴妃は公子と共に、後宮の方にいる。そこで女官たちを取り纏めながら、後宮を仕切っているのだ。


 広間の中央に置かれた大きな卓の上に、地図を広げて、それを示しながら劉飛が、次々に指示を出していく。その命令を受けて伝令の兵士たちが、慌ただしく出入りする。姫元帥の率いる皇騎兵軍が、いつ頃、岐山で河南軍と遭遇するのか。それが、その時その場にいた者たちの、最大の関心事だった。



「申し上げますっ」

 走り込んできた兵士に、劉飛がついに来たかという顔をしてそちらに視線を向けた。

「北口村より、火急の知らせにございます。水軍が……海州水軍が全軍をもって上陸。目下、この華煌京へ向けて、進軍中であると」

「まさか海州水軍までもが、寝返ったというのですか」

 珀優が信じられないという表情で、その兵士に問う。

「水軍は、我らに味方すべく参ったのではないのですか」

「それが……彼らは上陸と共に北口村を焼き払い、街道に溢れていた都よりの避難民を容赦なく薙ぎ払い……今や北の街道沿いは、赤き血で染まり、人々の屍で溢れかえっているとの事。これは間違いなく、敵であると」

 知らされた惨状に、珀優が膝を折り、そこに座り込んだ。

「大丈夫か?華妃。気分が優れぬ様なら、後宮で少し休むがいい」

「いえ……私は大丈夫です」

 珀優は玉座に手を掛けて、そこで身を支える様にして立ち上がった。

「私は、全てを見届けなければなりません。この戦で、どれほどの命が奪われて行くのかを。それが、この私の最後の務めなのですから」


 気丈にそう言った珀優であったが、その声は震え顔色は明らかに優れない。天祥は立ち上がると、彼女の身を支える様にして抱き、少し離れた所にある妃用の椅子に座らせた。

「何があっても、私は、あなたのお側にいますから。何もかも一人で抱え込まなくていいのですよ」

 耳元に囁く様にそう言って、天祥は珀優の頬に軽く口づけをした。天祥は立ちあがると、そのまま劉飛の元へ行き、何事か言葉を交わしている。


 その姿を目で追いながら、珀優もぼんやりと考える。

 東から海州水軍が来るというのなら、兵の配分をやり直さねばならないのだろう。燎宛宮に残る者も、戦闘に関わりのない文官や女官たちは即刻、避難させる必要がある。


 唯一の逃げ道である西街道への退路を確保する為に、岐山の皇騎兵軍を動かす訳にはいかないから、水軍は、この燎宛宮に残る警備隊や、近衛の兵で退けなければならない。それとも、皇騎を呼び戻して、そのまま籠城という事にするのか……しかし、西への道を塞がれたら、補給線の確保が出来ない。それに、車騎だけで河南軍と対峙という事になれば、恐らく車騎にも甚大な被害が出る。


 珀優の視線の先で、天祥と劉飛が、険しい顔で何事かを言い合っているのは、恐らく、その様な事なのだろう……

 次第に視界がぼやけて、そんな二人の姿が見えなくなっていく。


……こんな時に……こんな所で……倒れる訳にはいかないのに……私は……


 必死に、その意識を保とうとする珀優の思いとは裏腹に、彼女の意識はそこで途切れた。




「……ああ。姫英は呼び戻さない。ここは、俺が最後まで面倒を見るから。大丈夫、剣の腕は鈍っちゃいないから。任せておけ……」

 言いながら劉飛が珀優の方へ視線を向けて、その様子に気づいて言葉を切った。天祥がそちらを見ると、珀優は椅子に座ったまま、気を失っていた。

「……お前、何かした?」

「ええまあ……少し。今からあんなに気負っていたら、持たないだろうから」

 八卦で眠らせたのだという天祥に、劉飛は肩を竦めた。

「兵に言って、後宮へ運ばせよう。天祥……」

 劉飛が今までに見せた事のない真剣な眼差しをして、天祥の名を呼んだ。

「……」

「この先、あの方をお守り出来るのは、もうお前だけだ。だから、しっかりお守りしろよ」

「ああ。分かってる」

 そう答えた天祥に、劉飛が手を差し出した。

「生きていたら、また会おう」

 差し出された手を握り返そうとした天祥の手が、一瞬止まる。

「……不敗の戦神が何を言ってるんだか」

「そうだな」

「死んだら、承知しないからな」

 念を押す様にそう言って、天祥が劉飛の手を握り返す。握り合った手は、しばらく互いの存在を確かめる様に固く結ばれた後で、ゆっくりと離れて行った。

「それじゃあな……」

 何時もの様に、またすぐに会えるとでもいう様な、そんな軽い挨拶を残して、天祥は劉飛に背を向けた。

「じゃあな」

 その背に応えを返すと、天祥は振り向かずに、右手だけを軽く上げた。

 互いに意識したのかは定かではないが、共に、またな、とは言わなかった。そして、二人にとって、それが今生の別れとなった。






 陽の光を反射して、深紅の鎧が煌めいた。

 人気のない都大路を南から、紅い凰を描いた旗印を掲げた一隊が物凄い勢いで燎宛宮に近づいてくる。その先頭を走る騎馬の深紅の鎧を改めて確認すると、劉飛は物見の塔を下りて、外宮の大門へと出向いた。


 その深紅の鎧は、麗妃を意識したものなのかとも思う。正直、見ればその色に、亡き妻を重ねてしまう。かつては、それを目にする度に、大切なものを無くしてしまった事を思い知らされて、あまりいい気はしなかった。思い余って幾度か、鎧を他の色に変えろと言ってみた事はあったが、その意見はことごとく却下されて、彼女は深紅を纏い続けている。


 そこまでの自己主張に、今ではもう、その色は彼女のものだと言わざるを得ない。

 それでも……彼女が麗妃の代わりになる事はなかった。劉飛にとって、彼女、朱凰は、朱凰でしかないのだ。



 その朱凰は、門前に自分を出迎える劉飛の姿を認めると、いかにも嬉しそうな笑みを零し、馬を寄せて勢い良く飛び降りた。

 すでに臨戦態勢に入っている朱凰には、女らしさの欠片もない。それでも、彼女は、紛れもなく美しき戦女神なのである。それは、天界の南方将軍朱雀の名を持っているからというだけでなく、彼女自身が、常に強くありたいと願い続けた結果なのだろう。

 その姿を目にしただけで、負ける気がしない。自分の背を任せられる数少ない者として、劉飛は朱凰に絶大の信頼を寄せていた。しかしそれは、やはり愛情に変わるという事はなく……そして、信頼されているという事だけで、朱凰が満足しているのかと言えば、その辺りもどうにも、未だ微妙な具合なのであった。


「大将がこの様な前線に出て来てどうするのじゃ」

 開口一番、そう一喝されて、劉飛は失笑する。

「来てくれて助かったよ。感謝する」

 そう言われて朱凰は、他では決して見せる事のない少しはにかんだ様な表情になる。

「ああ……まあ、小隊ひとつしか連れて来れなかったのは、申し訳のない所だがな」

「充分だ。岐山もそうやすやすと抜かれては困るのだからな。少しでも長く赤星王を足止めしておいて貰わなくてはならない」

「で?敵は海州水軍か?本気でやって構わないんだな?」

 朱凰が念を押す様に言う。

「ああ……」

 劉飛が厳しい表情をして答える。

「茶番の代価にしては、大きすぎる犠牲だな」

 そこを相変わらず容赦なく突かれる。

「星王が絡むと、話が大きくなってしまうのは、どうにも仕様がなくてな」

「成程、緑星王が首を縦に振らなかった訳か」

「ああ。それもある」

 劉飛が溜息混じりに、気を抜く様に天を仰いだ。


「……皇帝の命を救う事が条件ならば、そこまでやらなければ、到底納得はさせられないと……」

 そう言った劉飛に、朱凰がにじり寄り、声を下げて問う。

「……それは、藍星王が、赤星王を、という事か?」

「まあ、そういう事だ」

 朱凰がたちまち顔を顰めた。

「道理で。悪趣味な筋書きじゃと思ったら、あ奴の策か。後で文句のひとつも言ってやらねばなるまい」

「あちらも、必死なのだろう。大人しく手の上で踊ってくれる様な、簡単な存在ではないからな、火司の女神様は」

「……まあ、それで全ての片が付くと言うのならば、文句は言わずにおいてやるがな……」

 燎宛宮の北の還らずの門の辺りから、狼煙が上がったのに気付いて、そこで朱凰が言葉を切った。

「来たか」

「だな。行くぞ、朱凰」

「ああ、承知した」

 朱凰は再び馬に跨ると、同じく騎乗した劉飛に続き、燎宛宮の中を北へと走った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る