第129話 あなたを生かす為の戦い

「今宵も、星は綺麗に見えていますか?」

 背後からそう問いかけた声に、天祥はそこに待ち人が現れた事を知り、星を映していた瞳をそちらへ転じた。下からこの物見の部屋に上がる長い階段を登りきった所に、やや息を弾ませて春明が立っていた。


「この私を、この様な所にお呼びになったという事は、宮では言い出しにくいお話という事なのでしょうか」

 天祥がそう水を向けると、春明が真顔で言った。

「天祥、あなたは、一人で死ぬつもりなのではないの?」

「……」

 自分の秘めた決意をあっさりと看過された事に、天祥は返す言葉も無い。


「あなたが皇帝として死ねば、それで表向きの辻褄は合うのだから、珀優までも死ぬ必要はないと、そうお考えなのではありませんか?……違うかしら?」

「……ええ。その通りですよ。そもそも私は、その為に影になったのですから。だから、もしもの時には、あなたには珀優と公子を連れて、共に逃げ延びて頂きたいのです」

「全く、相変わらず分かっていないわね」

 春明が大きく溜息混じりにそう零す。

「あなたが死んだら、それも自分の身代りになって死んだりしたら、珀優は生きてはいられないでしょう」

「だから、こうしてあなたにお願いしているのでしょう……」

「私なんかじゃ駄目なのよ。あの方の繊細なお心は、私では守りきれないわ。あなたじゃなきゃ駄目なの。 あなたが側に居て支えて差し上げなければ、皇帝の座を放り出して生き延びたという事実の重みに、珀優は到底耐えきれないわ。あのお方は、そういうお方ではないの?」


 言われて天祥は押し黙る。確かにそうだ。珀優は、皇帝の責務というものを事更に重く受け止めている。それは、星王から神託を受けた者だという証ゆえなのか。ただ命を救うだけでは、その心までは守れない。かつての様に、後悔の念を抱え込み、また心を病んでしまうかも知れない。


「では、どうすればいい。戦うというのか?陛下の意志を無視して、戦うと?」

 惑いながらそう問うた天祥に向けられた瞳には、揺るぎない意志が込められていた。そして、はっきりと宣言する様に、春明が言った。

「そうよ。戦うの」

「……」

「そう。私たちは共に戦うのよ、運命とね。そして、皆で揃って生き延びる」

「皆で……生き延びる……」

「そうよ。先に死ぬ事を考えてどうするの。考えるなら、まず生きる事からでしょう。死ぬなんていうのはね、足掻いて足掻いて、どうにもならなくなってから考えたって遅くはないの。いい?」

「しかし……」

 そんな事が許されるのかと思う。そんな虫のいい話が……

「い、い?」

 春明の有無を言わせない気迫に、天祥は思わず頷く。それを確認して、春明は懐から一通の書状を取り出した。


「これは?」

「陛下の親書よ」

 渡された書状には、成程、皇帝がしたためたという証である玉璽が押されている。それを開いて、そこに書かれている事を確認する天祥の瞳が、次第に驚きに見開かれて行く。

「まさかこれは、あなたが?」

「ええ。私が、劉飛さまと相談して書かせて頂きました」

「この事を、陛下には?」

「無論、内緒ですわ。陛下の、あの頑ななお心を変える事は難しいでしょう。ですから、陛下には、直前まで、この事は内密に致します」

「しかし、それでは」

「天祥さま。戦うという事は、こういう事なのですよ。綺麗事では済みません。地を這いつくばる様にして、他人を犠牲にしても、何が何でも生き延びるのだという気概がなければ、生き残る事は出来ません。 お分かりですか」

 何が何でも。そこまでしても。自分たちは生き延びる。運命を覆すという事は、そこまでの決意と、そして紛れもなく大きな罪を抱え込むことなのだ。


……そこまでしても、生きたいのか。

……生かしたいのか。


 そう生かしたいのだ、自分は。珀優という存在を。だから心を決める。もう揺るがない。この春明と同じ様に。

「良く分かった」

 天祥は一言そう告げると、開いた親書を丁寧に畳み直した。

「では……」

「ああ。今から、これを持って海州へ向かおう」

 その言葉に、春明が心底安堵した様な、嬉しそうな表情を見せた。その顔に、改めて自分たちは三人で一人なのだと思う。この妃はいつも、自分たちに希望を運んで来てくれる。かけがいのない存在なのだと、そう思った。


「翠狐」

 天祥が呼ぶと、羅刹の八卦使いが姿を見せた。その手に文箱を持っている所をみると、どうやら用件は先刻承知しているのだろう。翠狐の差し出した文箱を受け取り、陛下の親書をそこに収めると、天祥はそこに方位陣を描く。そして春明の見守る中、天祥は翠狐を伴って、そこに生じた光と共に姿を消した。



 数日経って、何事もない顔をして戻って来た天祥に、珀優は何の疑念も抱かずに、いつもと同じ様に彼を出迎えた。 天祥は、劉飛と共に、岐山に駐留している皇騎兵軍の視察に出向いていた事にしてあったのだ。





 それからしばらくの間、燎宛宮では、何事もない穏やかな日が続いていた。そして……


 暑かった夏の空気が、ある日ふと涼やかな冷気を帯びて、そこに初秋に香る花木の匂いを感じた頃、湊都で、崔涼が挙兵したとの一報が届いた。


 その年の秋の訪れと共に、都には、南から戦風が勢いよく吹き寄せ始めた。



 そして程なくして、河南領官である劉朋からの連絡が途絶えた。

 同時に、河南に残留していた皇騎兵は、河南軍に組み入れられ、先の河南領官である杜狩の息子杜陽が、その一軍を率いて、崔涼と合流したとの知らせが入った。そして共に、燎宛宮を指し、進軍中であるという。

 劉飛はこれを岐山に駐留させている皇騎兵で迎え撃つ積りの様だった。西畔の車騎兵軍もここに合流する手筈になっているが、どうもその出発が遅れたらしく、河南軍とどちらが先に岐山に着くか、微妙な具合になっているという話である。



 華煌京では、敏感に嵐の到来を感じ取った人々が、こぞって逃げ出す算段を始めていた。先の内乱で蹂躙された事を覚えている者も未だ多い。 あれ以来、この都はすでに不落の都ではないのだと、人々の認識はそういう事で一致していたのである。

 取り敢えず、敵が南から来るので、逃げるとすれば西か東という事になる。そんな避難民の行列が、実は、西から来る筈の車騎兵軍の進軍を遅らせる一因にもなっていた。



 一方、東に向かった人々は、華煌京の北に流れる北河ほくがという河が河口にぶつかる場所にある、北口村ほっこうそんという小さな村落に押し寄せていた。 ここから船に乗り、海州のいずれかの街へ逃れる事が出来れば、取り敢えずの安全は確保されるからである。


 とある商人の一家も、そんな人々と同様に、海州の親戚筋を頼りにして、北口村を目指していた。

 家財道具を満載した大きく重たい荷車を引いて、幾晩も歩き続けた末、ようやく耳に潮騒の音を聞いて、一家は一様に安堵に歓喜の声を漏らした。 疲れきって、すっかり不機嫌になっていたその家の小さな息子が、海を見下ろせる高台へ喜び勇んで走って行く。上り坂を登り切った所で足を止めてこちらを振り返ると、すぐそこに海が見えると、はしゃいだ声を上げた。


 その時である。前を行く人々の間から、戸惑いを帯びたどよめきが沸き起こった。子供は何かに気を取られた様に、海の方を凝視したまま立ち竦んでいる。 不審に思いながら、商人が荷物を置いて子供の元へ走り寄ると、朝陽に輝く水平線の彼方に、大きな船影が見えた。

「何だあれは……」

 呆然と呟く内に、その数はみるみると増えて行く。

「海州水軍だ!」

 誰かがそう叫ぶ声が聞こえた。


……海州水軍だと?……


 あれは、味方なのか、敵なのか?商人が思いあぐねる横で、一人、また一人と、踵を返し、人々が坂を、海とは逆の方へ駆け下りて行く。

「あれも敵……なのか」

 そう呟きながら、子供を抱きかかえ、商人自身も人々につられる様に坂を駆け下りた。家族を急かし、荷車も捨てて、身ひとつで来た道を逃げ戻る。……もしもあれが敵なのだとしたら。


……この国はもしかして、もう駄目なのか……


 走りながらそんな思いが心に広がる。華煌京の華やかで賑やかな暮らし。そんなものが当たり前だと思っていた自分たちは、その終焉がこんなに間近に迫っていた事に、気づきもしなかったのだ。国が滅ぶかも知れないなどと、考えた事もなかった。


 だが、その現実は間違いなく今、自分たちの目の前にある。その身を守る為に、人々はただ、一心に走るしかなかった。


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