第117話 先生と紅の女神

 外から聞こえてくる呼び込みの声。人の行き交う雑踏の音。時折、柄の悪そうな者たちが、喧嘩腰の怒声を上げている。

 耳がそんな音を捕えて、琳鈴は目を覚ました。


……ここはどこだろう……


 まだぼんやりとしている意識の中、目に止まったものは、朱塗りの天井と箔を打った柱。そして、豪勢な細工の欄間。およそ趣味が良いとは言えないその派手な部屋の造りは、いわゆる遊郭独特のもの。

 そう思い到って、琳鈴は勢いよく起き上がった。そして又、その身に掛けられていた布団の深紅の色に目を止めて、思わず身震いする。


……何で、こんな所に寝かされてるのよ……


 心で悪態を付きながら、蒲団から抜け出して、続き部屋に目を遣ると、開け放たれた窓の向こうの露台に、見覚えのある、杜陽の姿を見つけた。




 胡坐をかき、瞑想する様に、その目は閉じられている。そこには何時もの粗野な気配はなく、静謐な空気だけがある。こんな杜陽の姿を見たのは初めてだった。

 自分の知らない杜陽の姿に、感じ入り、琳鈴はその姿に思わず見入っていた。

 琳鈴の佇む気配を感じたのか、杜陽がやにわに目を開いた。自分が杜陽に見惚れていた事に気づいた琳鈴は、それを誤魔化す様に、慌てて声を掛ける。

「……杜……」

 が、声を掛けようとして、琳鈴は思わず息を呑んだ。

 その瞳の紅さに。そして、杜陽の身から立ち上る紅い霞に。


……これは、あの時の深紅……


 その紅い瞳が琳鈴の姿を映す。そして、琳鈴の瞳に映る自分の姿に、口の端を僅かに上げて嗤った。

「そなたには、私が見える様だな」

「……あなたは……誰……?」

 早まる鼓動を宥めながら琳鈴が問うと、相手は面白そうに低く笑う。

「成程、その気丈さが、こやつのお気に入りか」

「な……何の話よ」

「この私の姿は、この者が真に信頼している者にしか見えぬ」


……信頼?……


 その意味するところに、琳鈴が思いを至らせるよりも前に、杜陽が立ち上がって琳鈴の前に立つ。その手が琳鈴の顎を掴み、その瞳に問いかける様に言う。

「我は、裏切りを嫌う。我が名を問うからには、我に従属の意を示したものと解釈するが、宜しいか?もしそなたが我を裏切った時には、その命を持ってあがなうのだぞ」

 その眼光の強さに、心に湧きあがる恐怖を、琳鈴は必死に押し込める。自分がここで屈してしまったら、杜陽はもう戻ってこない。そんな気がしたのだ。

「も、勿体付けないで、早くお言いなさいよ。名前」

 語気を強めてそう言った琳鈴に、深紅の瞳が揺れた。


「我が名は、赤星王せきせいおう。南天を支配する火の司じゃ」


「せき……せい……おう……」

「全く、面白い娘じゃな。気に入ったぞ」

 その呟きと共に、琳鈴は瞳の呪縛から解放された。

「行くぞ、付いて来い」

 赤星王と名乗ったその人物は、そのまま部屋を横切って、廊下へと出て行く。

「付いて来いって、どこへ……」

「私の従属物を取り返しに行く」

「従属物?」

「私の持ち物に手を出すなど、不届きの極みじゃ。死ぬ程後悔させてくれるわ」

「ちょっ……待ちなさいよ。乱暴は駄目よ、乱暴は」


 琳鈴は慌てて赤星王を追いかけて、その衣の袖を引く。だが、そんな事は意にも介さず、赤星王は大股で廊下を歩いていくので、琳鈴は、なし崩し的にそれに引っ張られる格好である。本当は付いてなど行きたくはないのだが、杜陽の格好をしたままで、又何かやらかされては、堪らない。何かあれば、後始末はこちらに回ってくるに決まっているのだ。それに……

「ねえ、従属物って、もしかして杜亮の事?」

「他に、何がある?」

 そういう事なら、付いて行かない理由はなかった。





 鮮やかな朱色の炎が、闇を一閃した。何事かと思う間もなく、炎は勢いを増し、闇を侵食していく。勢いよく燃え盛る炎は、その触手を伸ばし、杜亮の体を嬲る様にも掠めて行く。 炎から沸き起こる熱気に煽られて、杜亮は息苦しさに思わず咳き込んだ。


 炎の向こうに、不敵な笑みを浮かべた杜陽が佇んでいた。

 それは、杜陽であって、杜陽ではない者。


……赤星王……


 先程から、かいていた嫌な汗の訳が、ただ熱さのせいだけではない事を杜亮は悟った。

「お止め下さい。私までも焼き尽すお積りですか?赤星王様」

「そなたがしらばっくれておったお陰で、随分と、時を無駄にしたぞ。そのおとし前はどう付ける積りじゃ、白虎」

「そう言われましても、これは不可抗力というものでして……」

「そなた、導き人の使命を、真面目に果たす積りはあるのか、ないのか?どっちじゃ。返答次第によっては、ここで……」

「それは勿論、目覚めた以上は、やらせて頂きますが」

「ならば良い。行くぞ」


 炎は闇を喰いつくし、その勢いを弱め始めていた。周囲を見渡せば、街外れの雑木林の中である。自分は、八卦師の結界に捕らえられていたのだと杜亮は気づく。 戒めを解かれた手首を摩りながら、ふと見ると、赤星王の後方に、琳鈴の姿があった。

「……先生。どうしてここに……」

 まさか、今の遣り取りを聞いていたのか。

「手、見せて御覧なさい」

 戸惑う杜亮に、琳鈴は懐から膏薬を取り出すと、赤く腫れあがっている手首に丁寧に塗る。

「いっ……」

 思わず呻き声を上げた杜亮の様子を、意にも介さず、琳鈴は膏薬を塗り終えると、細く裂いた布を、何も言わずに巻き付けて行く。 その様子は、どこか怒っている様でもあり、杜亮も又、琳鈴に言葉を掛ける事が出来なかった。


 不意に、杜亮の手に、涙の滴がぽとりと落ちた。

「先生……?」

「……杜陽といい、あなたといい……本当に。どれだけ私に心配を掛ければ気が済むのよ……」

 そう言った途端に、涙の滴が、今度は続けざまに落ちる。

「……済みません」

「こうなったら、とことんまで付き合ってやるわ。あなたたちが、傷を作って来なくなるまで、嫌だといっても、どこまでも付いて行って、物凄く染みる薬を、その傷口にすり込んでやるんだから」


「どこまでも?」

 自分たちが、その体に、異界の者を宿しているのだと知っても尚、と。そんな意味を込めて問うた杜亮に、琳鈴は明快な答えを返す。

「そうよ。どこまでも。いいわね?」

 琳鈴のその台詞を横で聞いていた、赤星王が鼻で笑う。

「ほんに、面白い娘じゃ」

「あなたもっ、どんなにか凄い力を持ってるのかは知らないけど、杜陽の体を傷つける様な真似をしたら、許しませんからね」

「馬鹿を言うな。こやつがこれから歩く道は、茨の道じゃ。傷など付き放題。その為に、そなたを連れてきたのであろうが。そなたは薬袋を担いで、黙って付いてくれば良いのじゃ……」

 赤星王が、何かの気配を感じて、そこで言葉を切った。

「白虎、その娘を連れて、脇へどいていろ」

 言いしな、半ば面白がる様な表情を浮かべて剣を抜く。寸分を置かず、赤星王を取り囲む様に、四つの影が現れた。



「巫族の匠師か。私の前に立ちふさがるという事は、それ即ち、死を意味する事だと知っての事か?知らなかったのであれば、一度は見逃してやる。が、もう警告はした故、次はないがな」

「我らには、この身に代えても、取り戻さねばならぬものがある。それを邪魔するものは、例え誰であっても……」

 言い掛けた春位の体が、赤星王の視線を受けただけで、一瞬で跳ね飛ばされる。

「悪いが、こやつは、私の従属物じゃ。よって、そなた達に渡す訳にはゆかぬ」

 その言葉に、匠師たちの表情がたちまち険しくなる。

「九方包囲、光樹こうじゅの陣っ!」

 夏位が捕縛術を仕掛けた。それを合図に、冬位が更に術を繰り出す。

「縛術、氷龍鱗鎖ひょうりゅうりんさ!」

 光の筋が、赤星王の体に巻きつき、その上から更に、氷の鎖が絡みついて、星王の自由を奪った。

「秋位、早く、白虎を捕獲しろ」

 その声がした時にはすでに、秋位の手が杜亮の腕を掴んでいた。

「桜花風塵……」

 琳鈴は、今度は何があっても、杜亮を離すまいと、必死でその身にしがみつく。


「……全く」

 そんな様子を見て、溜息交じりにそう言った赤星王の声が、一同の耳に届いたその刹那。赤星王の体から生じた、数え切れない程の炎の筋が、勢いよく地を這い、たちまち爆風を伴って天へと吹き上げた。一瞬の出来事に、匠師たちはなす術もなく、吹き飛ばされ、地に叩き落された。咄嗟に琳鈴を抱き寄せた杜亮も、容赦のないその爆風に煽られて、地上を転がされた。


 匠師を倒し、その束縛から解放された赤星王は、両の手を広げながら目を閉じて、心地よさげに炎をその身に纏う。少しづつ力を解放していく、その快感に酔いしれている様にも見える。


……見ているだけで良いって言ったって、どうするんだよ、こんなの……


 敵も味方も関係ない。ただ、その感情の赴くままに、力を解放する。そこが、他の星王達が、この星王を扱いにくいとする理由でもある。 未だ、杜陽の中にその身を宿し、覚醒半ばであるにも関わらず、これでは、先が思いやられる。

 そう思いながら、杜亮は、腕に抱いた琳鈴の呼吸が苦しそうに、浅く繰り返されているのに気づいた。


……まさか、炎を吸いこんだのか……


 このままでは、琳鈴の身が持たない。そう思った杜亮は、大きな声で叫ぶ。

「止めろ、赤星王っ!このままでは、琳鈴が死んでしまうぞ!」

 その声に、赤星王が閉じていた目を開けた。一瞬、炎の勢いが弱まった。その時である。


八卦星掛陣はっけせいかじん星魂封縛せいこんふうばくっ!」


 その声と共に、赤星王の体が、青白い光の玉に飲み込まれた。その光が赤星王の体の中心に向かって収束していくに従って、その中心に、深紅の光が生じて膨らんでいく。 二つの玉が、共に、掌に乗る大きさで重なると、青い光が一閃して弾け飛んだ。赤星王の心臓の辺りに留まっていた深紅の玉は、そのまま体の中へと吸い込まれていく。 その体が玉を飲み込んでしまうと、主を失った様に、その体は地面へと崩れ落ちた。



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