駅舎と幼馴染
ふわりと通り抜けた風は、夏の匂いがした。
◇
肌にYシャツが張り付く不快感だとか、少しの空気流動で簡単に捲れ上がるスカートの心許なさだとか、それは学生にとって一種の風物詩として通り過ぎていくもので、駅のホームにはそんな不思議な空気が溢れていた。
そんな中感じた違和感は、きっと奴のもの。
「何してんの、あんた」
言ってから後悔した。奴は、あたしから絡むのを待っていたに違いないのだ。
そして案の定、にやりと笑んだあたしの幼馴染は太い柱に凭せ掛けた背中を起こして、優雅に足元のリュックを担ぎ上げた。
「や、今日は一緒に帰ってやろうかと思って」
「なんで」
「部活中にお倒れになったお隣さんを心配して」
「……やっぱり、見てたか」
「見られないとでも? 結構な大騒ぎにだったじゃん」
悔しくて、ぐうの音も出なかった。
貧血で倒れるなんて、そんな乙女なことが自分にも起こるなんて思ってもみなかった。確かに、このところの暑さには参っていたし、お昼もあんまり食べられならなかったし、それに――
それに最近、眠れない日が続いているから。
その原因ともいうべき人物を横目で見ると、奴は涼しい顔をして、来た電車にさっさと乗り込んでしまっていた。
◇
それは部活へ行くために体育館裏を通り抜けようとしたその時、「好きです」と可愛らしい声が聞こえたことから始まった。
それは確かに、ありふれた青春の一ページだった。
――そこで、止めておけばよかった。
中途半端な好奇心を働かせて、その光景を覗き込んだりしなければ、きっとこんなことにはならなかった。
だけどあたしは確かに、梅雨のイライラも相俟ってその好奇心を発動させた。校舎から体育館へ続く渡り廊下の柱の脇から二人を覗き込み、そして、愕然としたのだ。目のくりっとした、可愛らしい女の子が頬を赤らめているその前に、平然と立っていたのは何を隠そうあたしの幼馴染だったから。
ずがんと、よく分からない衝撃を受けた。
あり得ない、と苦笑を浮かべながら、自分がひどく焦っているのが痛いほどよく分かった。確かにここ一年で、中学時代の幼さが抜けてすっかり大人っぽくなった。幼馴染の贔屓目なしにもカッコよくなった、奴を好きな女の子はもっといるんだろう。
なんて今までは、そんなこと意識せずに隣にいられたのに。
自分が逃げてきたんだと、あの告白から否応なしに思い知らされるようになった。幼馴染っていう束縛なんかじゃ、奴を縛ることは出来なくて、あたしはいつかこいつを失うことになるのだと。
だから、不安で眠れない。
気が付けば空は白んでいて。
そんな自分に辟易しながら、あたしは日々をやり過ごしていたのだ。
◇
うとうとと、いつの間にか奴の肩に寄り掛かって眠っていたらしい。電車のアナウンスは既に、あたし達の最寄り駅を告げていた。
こうして何の憂いもなく、奴の隣にいられるのも、あと三分だ。
そうして、行動は何の前触れもなく起こした。自分の左手で、奴の右手を掴んで指を絡めた。弱い力で、寝惚けていますと言外に示すよう。
どうするんだろうと思った。だから、驚いた。指を絡めたその手を、きつく握り返された瞬間、俯いたままの眦に涙が浮かんだ。思ったのは、まだあたしは傍にいるのを赦されているということ。
次にアナウンスが流れた時、顔を上げると涙を流していたあたしに、奴は相当驚いていた。
「怖い夢でも見た?」
「そんなとこ」
苦笑してみせると、同じように苦笑された。
「どうした?」
「なんでもない。離して」
「自分から握ってきたくせに」
「寝てたし覚えてない」
「可愛くねぇ」
「どうせ」
そして二人して笑う。 手を握り合ったまま、ドアの前に立つ。
「あたし達、何に見えんのかな」
「さあ?」
「さあって…」
電車はその速度を緩めながら、駅へ入っていった。
何も言わないままホームに降り立ち、そのまま改札を抜ける。
「夏、ありがと」
そして人も疎らなその空の下、あたし達はどちらからともなく手を離した。
駅舎でのたわむれごと @Ayaho
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