駅舎と海月

 思っていたよりも、あたしは未練がましい人間だったらしい。

 例えば初めて告白をして振られて、その人が彼女らしき女の人と寄り添い合って電車の中で寝ているのを見た時、諦めたはずの想いがどろどろと溶けていって、心が抉られるような気がした。どこか苦くて酸っぱくて、けれど想いの名残で甘い――

 それはつまり、今現在あたしの中で渦巻いている感情の話である。

 目の前のその場所が、あたしのものだったならと思った。彼が、こんなにも安心しきった寝顔を見せるのがあたしの隣だったなら、なんの屈託もなく重みを預けられるのがあたしの肩であったなら。でもきっと、こんな顔は彼女にしか見せないもので、その特別は彼女だからこそ与えられるものなんだろうと考えると、あたしはその考えに更に落ち込んだ。

そして、はっとする。

 思えば、随分と長い間彼らの前で立ち止まってしまっていたようだ。人も疎らな電車の中で、その席の近くにも誰もいなかったから奇異な目で見られることはなかったけれど、それでも恥ずかしい。顔が赤くなる程度には恥ずかしい。思わず頬に触れさせた手の平は、じゅっと音がするくらいの熱を受け取った。

 いたたまれなくなって、あたしはふらつく身体を叱り、車両を隔てるドアのノブに手を掛けた。金属の冷たさにぴくりとひとつ震え、そして忽ちに頭が冴えわたる。


そして気付いた。

あの女の人、あたし知ってる。


          ◇


 昔から、欲のない子ね、とはよく言われたものだ。

「何かを欲しがって駄々をこねることはなかったから親としては楽だったけど、将来流れに任せて、クラゲみたいになあなあで生きてっちゃうんじゃないかって心配だったわ」――結局その心配は当たった訳ね、と、これは母の言葉である。確かにあたしは、若かりし頃の母の懸念通り、クラゲになってしまったようだった。

 集団の決定にはイエス、止められたことにはノー。物欲も皆無に等しくて、自分の周りには必要最低限のものさえあればよかった。試験に苦労しない程度の知識と、学生生活に苦労しない程度の友人に囲まれていれば、それだけであたしは満足だった。だから、進学先もいたってシンプルに決めた。家から近くて、あたしが入るのに苦労しない偏差値で、数少ない友人達が多く集まる高校。もうワンランク上に挑戦してみないかと言ったのは誰だったか、あたしはその助言をさくっと無視して、あっさりと今の学校に入学した。


 それが、功を奏したのか。

 入学の日、あたしはクラゲから卒業した。

「総代挨拶」

 呼ばれたのは、大人っぽいな、というのが第一印象の、綺麗な面立ちの男の子だった。周りを見渡せば、まだ中学生気分の抜けない子供っぽい男子が多い中で、その男の子はまるで高校生活に慣れきったような、老成した雰囲気を持っていた。

 凛とした声は、苦もなくマイクに放り込まれていった。時折白い歯をちらりと見せるその余裕には、周りからほぅと小さな溜め息が漏れるほどで。

 初々しさがない代わりに、嫌味もない彼の身のこなしは案の定、女子高校生の心をがっちりと捕えた。彼のクラスには、彼を一目見ようと休み時間のたびに数人の女の子達が群れをなしてやってきていたし、勇気のある子は、携帯まで持ち出して隠し撮りしていたりもした。そして彼の噂は、現実味のあるものからそうでないものまで、女子の綿密な情報網の間を綺麗に流れていった。


「あんたらしいと言えばあんたらしいし、らしくないと言えばらしくないよね」と、こちらは中学時代からの友達の言葉である。みんなに好かれる男の子を好きになるのはいつものことだけど、人に流された訳じゃないっていうところはいつもと違うわね、と、無理矢理説明させればそういうことらしい。

 なるほど、と思った。本当の恋ってこういうものなんだって。

 そして眼は、彼を追い掛けるようになった。

 隣のクラスの彼と、ちょっと廊下ですれ違うくらいでドキドキして、目が合ったという、錯覚かもしれないことでだけで胸が高鳴った。バレー部に入ってからしばらくして、彼がネットを隔てた、体育館の半分から向こう側で、バスケットボールを追っているのを見てしまうと、もうそっちを見ることが出来なくなった。


 そして、募り募った想いに、ただ漂うだけだったところを陸に引き上げられて、蒼い空の下で呼吸するのにも慣れた頃、あたしはひとつの決断をした。

「好きです」

 言ったのは体育館の裏。

 シチュエーションは考えるべきかとも思ったけれど、あたしの乏しい知識ではそんな場所しか思い付かなかった。呼び出しにも彼はポーカーフェイスを崩すことなく応じ、ああ慣れてるのかな、と訳の分からないところで少し妬いてみたりもした。

「バレー部の子……だよね」

「あ、はい。ご存知……でしたか」

 きっと今、顔赤い――と思った。

「あぁ、なんか他の部員達が可愛いって騒いでたから」

 それを聞いて、また心臓が跳ね上がる。あなたはどうなんですか、と聞きたいけど、そんなことよほどの厚顔無恥じゃないと聞けない。

 すると、固まってしまったあたしに連動するように、何とも言えない沈黙が落ちた。

 重苦しい空気に、あたしから何か言わなければというプレッシャー。完全に糸口を見失ったままの会話を取り繕うとしたその時、彼の背中の方で、ショートカットの小振りな頭が動いた。部活に行くところだったのか、ジャージを着たその女の人が彼のことを認識した瞬間。

 刺されたようなってあんな表情なんだと、初めて思った。

 その後のことは、実はあまりよく覚えていない。彼は期待をさせない程度に素っ気なく、でも丁寧に断りの文句を並べてくれていた。いい恋をしたな、と誇れるような終わり方だったと思う。


 そして問題は、どちらかと言えば彼女の方だった。

 嫉妬でもなかった。

 嫌悪でもなかった。

 牽制でもなかった。

 彼を見るどの女の子とも違う、彼女が浮かべたのは多分不安だった。彼を手放したくないという焦燥。彼が離れていく恐怖。あたしが感じて、日々浮かべていたものよりも、もっと強烈な表情。きっと彼女は、そんな表情が出来るくらい彼の近くにいて、彼のことを知っていて、彼のことが好き。

――あれは誰なんだろう。

 恋に破れたあたしの目下の興味は、同じ人を好きになった名前も知らない女の人の、恋の行方だった。


          ◇


――叶ったのかな。

 そう思えば、さっきのどろどろが少し救われた気がして、でも妙に歯切れの悪いものが、喉の奥でひりついた。

 ガラガラに空いた電車の中。彼らから随分距離の離れた場所で難なく席を見つけて、すとんと腰を下ろす。視界を遮るものもない、大きく開いた窓の外。柔らかさも仄暗さも孕んだ空に、なぜか無性に泣きたくなった。

――降りよう。

 彼らと同じ空間にいることにこんなに苦痛を感じるだなんて、思ってもみなかったことだったのに。

 納得したつもりだった。他の人を応援することで、自分で自分に言い聞かせていたんだと今では分かる。

――なんであたしじゃないの?

 そう思うくらい、ホントはあたしだって醜い。覆い隠さないと出てしまうから、それが怖かったから、だからあたしはクラゲになった。けれど、彼を好きになって、クラゲはすっかり固い身体を取り戻したみたいで。

 ふしゅん、と電車が止まって、冷たい色をしたコンクリートがあたしを迎え入れた。色褪せたクラゲ色のベンチが、こっちにおいでとあたしを手招く。

 隠し方が下手くそになった、羨ましい気持ちが消えない。二人を見つけた瞬間に芽生えたどろどろとは違う、今度はもっとはっきりと形を持った嫉妬が、心の中で浚いようのない澱になる。さっき、幸せそうな彼の寝顔を見た時、きっとあたしの顔には、彼を見るどの女の子よりも強い嫉妬の表情が浮かんでいたはずだ。

 でも、例え彼があたしの何を知らないままでも、やっぱりあたしは下手くそな拍手を心の中で続けるのだろう。ぷかぷか漂うだけの、無気力なクラゲには戻れないから、せめて自分を騙すためだけに、彼への想いを遂げた彼女へ、そして安息を手に入れた彼へ、おめでとうと言い聞かせるに違いない。

 そしていつかまた、彼と彼女を見てもやっぱりあたしはいい恋をしたんだと誰かに話せるようになったらいい。その時にこそ、この恋は本当にいい思い出だったと言えたらいい。

 だけど、それまでは、どうか……


 クラゲ色のベンチに、潮がひとしずく、零れ落ちた。

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