駅舎と赤ん坊

 人の出入りの多い駅の改札口の向こう側には、大抵、コインロッカーがある。ある人はそこに旅路の邪魔者を押し付け、ある人はそこにまだ見られてはいけない宝物を隠し、ある人はそこに秘密を委ねる、一日三百円ちょっとの、無機質な箱の大群。自分の荷物の前に何が入っていたのかも、この後に何が入ることになるのかも気にしない、そんなごく小さな即席の、プライベートスペースだ。

 彼女はかつて、そこに秘密を委ねたうちのひとりだった。乱雑に人々の行き交う駅舎のど真ん中で、彼女は誰にも見咎められることなく、その秘密を置き去りにしたのである。


 随分と月日が経ってから、彼女は時折その場所を訪れるようになった。ちょうどそのコインロッカーの前には、待ち合わせにちょうどいい円形のベンチがあって、そこに日がな一日座っていたとしても誰も気が付かないような足早な人並みが、彼女を再びと見咎めるようなこともなかったからである。

 そんな、ある日のことだった。いつの間にか習慣化した彼女の催しは、その日も密やかに遂行されていた。彼女の座るベンチの、背中側に、右手側に、左手側に、どんどんと人々は現れ、そして待ち人に攫われて消えていった。そうして、暗闇に少しずつ駅舎の光が対抗し始めた頃、ひとりの若い女が、駅舎の雑踏の中から現れ、彼女の右手側に窮屈そうに座って、コインロッカーをじっと見始めた。

 不思議だ、と彼女は思った。若い女は、美しかった。真っ白な肌に、漆黒の長い髪。頬は艶めいて鮮やかで、唇は凛と輝いていた。いわゆる、清楚な、美人。けれど若い女はまるで自らの美貌を隠すかのように、真っ黒でシンプルなワンピースを着て、黒いカーディガンを羽織り、黒いローヒールのパンプスを履いている。まるで死者を弔うような白への拒絶が、若い女をより一層白く見せていた。長い美しい形の足を晒していることと、足元の靴の低さのアンバランスさも、また不可思議だ。待ち合わせの相手は、背の低い、今にも死にそうな老年の男なのだろうか。彼女は勝手に、心の中で笑った。

 しかし、やがて若い女の元に現れたのは、精悍な顔つきをした、上背のある若い男だった。会社帰りなのか、スーツにネクタイをきっちりと締めた若い男は、小走りに若い女に近付くと、ごめん、と苦笑いした。

「急に、取引先につかまった」

「大丈夫なの?」

「平気。巻いてきた」

 その、言外の笑みを含んだ二人のやり取りで、彼女は二人が強い信頼関係のある真っ当な恋人同士なのだろうと、妙に納得した。言葉少なに、二人はそれを彼女に表現してみせたのだ。

「さて、行こうか」

 若い男は、さも当然であるかのように若い女に手を差し出して、にこりと笑った。これからデートなのだろう。明日から週末だ。社会人の恋人同士にとっては、貴重な時間なのだろう。

 彼女は、自らが失った時間を憐れむかのように、そう思った。

 しかし、若い男の手を、やはりさも当然のように握るはずだった若い女は、彼女の右側からは立ち上がらず、上目遣いに若い男にこう切り出した。

「話があるの」

 若い男が息をのむ、その一瞬の緊張を彼女も感じた。別れ話だろうか。いきなりこんなところで。彼女の卑下た野次馬根性はその二人に神経を集中させた。

「なに?」

 若い男が、無理をして陽気な声を出したことが分かった。若い男もきっと、彼女と同じことを感じたに違いない。

「短い話と、長い話、どっちがいい?」

「お前は? どっちを先に話したい?」

「長い話」

「なら、レストランに行ってからでいいだろう? お前の誕生日だと思って、せっかく予約したんだから」

「ここで話したいの。ダメ?」

 若い女は強情だった。おそらく、話し終わるまでは梃子でもここを動かないだろうという意思が感じられるような、そんな声だった。結局、分かった、と若い男も若い女に応じて、彼女の右側に、まるで何かを諦めたかのようにゆっくりと腰を下ろした。

「それで? ここで話さなきゃいけないことって?」

 まさか別れ話じゃないだろうな? 若い男の、懇願とも怯えとも言えないような促しは、彼女までも緊張させた。

「あのね」

 若い女は切り出した。なぜだろう、と彼女は思った。なぜ、若い女もまた、怯えているのだろう、と。

「あのね、私はね、ここで生まれたの」

 若い男が、ひゅっと息を過剰に吸い込む音がした。若い男の顔は彼女から見ることは出来ない。けれど、何かを堪えるような顔をしているのは間違いないだろう、と彼女は感じた。

「ちょうど、今日だったの。このコインロッカーの中から赤ん坊の泣き声が聞こえたって通報で、私は保護されたの。当時はちょっとしたニュースにもなったみたい。別に密閉されてるわけじゃないけど、それなりに酸素も薄いし、結構危なかったんだって」

 息継ぎもせずにがむしゃらに喋る若い女に、若い男は何も言えずにいる。

「生まれたばかりってことは分かってたけど、いつ生まれたかは分からなかったから、便宜的に、今日が私の誕生日。取り出されたのが母親のお腹の中からかコインロッカーの中からかって違いだから、大して変わらないと思うけど」

 若い女はからからと、乾いた笑いを少しだけ漏らした。気配で、彼女は若い男が若い女の腰を抱き寄せたことが分かった。

「そのあとは、あなたも知っての通り。しばらくは施設で育ったんだけど、運よく物心つかないうちに今の両親に引き取られて、とても可愛がってもらった。別に違和感もなかったの。あの人たちが自分の実の親じゃないなんて、十六歳になってあの人たちから打ち明けられるまで、夢にも思わなかったもの。でも、時々見る夢があった」

 若い女は、彼女は、そこですっと、息を吸った。

「暗い場所でひとりきりで泣いてる夢。息が苦しくて仕方がなくて、でも触れる場所触れる場所が堅くて冷たくてどうしようもなくて、それでまた泣いて息苦しくなる。ぐるぐる、ぐるぐる、嫌な方へ嫌な方へ引っ張られてく夢。小さい頃から何度か見たな。一番最近は」

「一週間前だ」

「そう。あなたが助けてくれたとき。おかしいでしょう? 生まれてすぐの記憶なんて、覚えてるはずがないのに」

 視界の端で、若い男の筋張った手が、若い女の黒いベールに包まれた腕をさすっていた。

「でもね、だからかな。怖いの。愛情はたくさん注いでもらった。大切に育ててもらった。でも、私は元々要らない子どもなの。必要とされなかった子どもなの。育てたくない、要らないって」

 若い女の毅然とした声に、心底の怯えが混じるのが分かった。引き返せない暗闇。先の見えない孤独。

「怖い。私もそう思うんじゃないかって。自分の子どもを要らないって思っちゃうんじゃないかって。育てたくない、要らない、必要ないって言って、また、私は、息苦しい夢に苦しめられる子どもを生むの?」

「お前…」

「子どもが出来たの」

 若い男が、また、ひゅっと息を過剰に吸い込む音がした。若い女は、今度は何の感情も感じさせないように、抑えた声で淡々と放つ。

「疑わないと思うけど、あなたの子どもよ」

「分かってる」

「二か月ですって」

「ああ」

「迷ってるの」

「ああ」

「怖いの」

 若い女の右手は、おそらく無意識の内に若い男の左手の裾を握っていた。若い男は静かにそれを振り払うと、お前、ばかか?と言いながら若い女の両手をぐっと握っていた。

「生め。俺は育てたいからな、その子。だから、生め」

 若い男は若い女の腰に手を置いて、ゆっくりと、若い女を立ち上がらせた。そうして若い男は、ゆったりとした黒いワンピースや、安定した黒いローヒールのパンプスですら不安だというように、慎重に、慎重に、若い女をエスコートしてその場を去っていった。

 彼女は、その二つの背中を横目に見送りながら、密やかに、涙を一粒だけ流した。


     ◇


 彼女はかつて、そこに秘密を委ねた。乱雑に人々の行き交う駅舎のど真ん中で、彼女は誰にも見咎められることなく、その秘密を置き去りにした。

 要らない子ども、だったわけではない。ただ、何も持たない彼女には、どうやっても育てることの出来ない子どもだった。施設に預けるか? 誰かに育ててもらうか? 年若い彼女は、そんな知恵を持っていなかった。日増しに膨らむ自らの腹部と、子どもの父親に向けられた冷たい背中に挟まれて、彼女は何も考えることが出来なかったのだ。

 こんな雑踏の中の密室を選んだのは、必然ではなかった。途方に暮れて彷徨い歩いている時にふと、無機質な箱の大群に出会ったのだ。

 自分で殺す勇気もない。でも、誰かに助けを求める勇気もない。可哀想な、名もない子ども。いっそ、ここで殺してあげられたら。

 でも、可愛い子ども。彼女と彼の、愛の証。どうにか生きていられたなら。幸せに生きさせてやることが出来たなら。

 相反する気持ちは、彼女にその場所を選ばせた。人々の行き交う、その雑踏のど真ん中。けれど密室の、息苦しい場所。見つけてもらうが早いか。息絶えてしまうが早いか。彼女は無機質な箱にすべてを委ねて、その扉をそっと閉めた

 しばらくの間、彼女は外の世界に触れることが出来なかった。腹部から流れ出た喪失感と、自らの子どもを殺したかもしれない罪悪感とに苛まれ、目を開けて外を見ることが出来なかった。死んだんだ。あの子は、死んだ。彼女はずっと暗い部屋に閉じこもり、自己暗示をかけた。

 二十六年前の今日だ。彼女の誕生日は正しく、今日だった。おめでとう。二十七回分、言えなかった言葉をあの二つの背中にぶつけてしまわぬよう、必死に隠す。よかった。よかった。よかった。生きていて、育っていて、おまけに命を繋いでいた。どうか、守られていて。自由でいて。願いは届けてはいけない。自分は何も願ってはならない。だから、それでも、どうか、幸せで。


 その日以来、彼女の習慣化された催しが開かれたことは、一度もない。

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