駅舎でのたわむれごと

@Ayaho

駅舎と死神

――そんなの、生きてみなければ分かりませんよ。

 男は、まさしく何も無い駅舎の暗闇の中で、何でもないことのように笑った。


     ◇


 別に、その場所が目的地だったわけではない。むしろ、私にとっては縁もゆかりも無い、その場所が丸ごと消えてなくなっても気が付かないような、私が辿り着いたのは、そんな場所だった。

 ただ、たくさんの人間たちが窮屈そうに肩を寄せ合って空間を譲り合ったり奪い合ったりするような光景に疲れて、そんな疲れ切った身体を、酔いとこのけたたましい音を奏でる電車に任せてみてもいいかと思っただけだ。ほんの、数時間前に。なのに、そうしたらいつの間にか、ビルの谷間からようやく空が見えるばかりだった窓の外に、ただ真っ暗なだけの空間が広がって、下ってきた線路を、今度は上るための何かが無くなっていた。手品のようだ。

「よく眠っていましたね」

 呆然と掘っ立て小屋のような駅舎の改札口を抜けた私に唐突に掛けられた声は、鬱陶しいほどに粘っこかった。蜂蜜ととろろと納豆とトルコアイスを混ぜたような、不愉快な粘り。それでなくても画面に表示されただけの金銭取引の規模にうんざりしていた私を、その声は一層げんなりさせた。

「どうも、こんにちは」

 無視を決め込んだ私に、その声は追い打ちをかける。なんだって、こんなに疲れていて、腹を立てていて、とにかくマイナス思考の塊みたいな日に、私は追い打ちを掛けられているのだろう、と、私は更に腹を立てた。

「どうも、こんばんは」

 私は仕方なく、振り向いた先の、季節外れの真黒な厚手のコートを着た男により一層げんなりしながら、割ととびきりの笑顔で、男へ今の限界値ギリギリの嫌味を放った。

 男の、声に違わずねっとりと撫で付けられているオールバックの髪は、季節を無視して守るものもない駅舎を通り抜けていった無遠慮で冷たい風にも動じない。私は、嫌味を放った後の何とも言えない苦い思いを誤魔化すように、男の真黒な髪ばかりを見続けた。

「こんばんは」

 男は何でもないように、本日二度目の挨拶を私に投げて寄越した。今度はきちんと、修正を施して。その時、男が私にそっくりな割ととびきりの笑顔をしたことに、私はうすら寒い思いがした。

「あなたも、寝過ごしたんです?」

 私は敢えて愛想良く、彼に話し掛けていた。どうせこんな片田舎、駅前にタクシーもなければ泊まれる場所がある様子でもない。そこはかとなく胡散臭い男だったとしても、運よく待合所だけは完備されている駅舎の中で始発までの数時間を潰す相手が確保出来たと思えば上出来じゃないか、と思った。正確に言えば、思おうとした。

 男はここからまったく立ち去る気配もなければ、むしろ私を、愛玩動物でも見つめるような無垢な笑顔でニコニコと眺めているだけだ。そう思わなければ、いや、そう思わなくても、彼にあと数時間付き合わされるのはなんとなく目に見えていた。

「まあ、そんなところです」

「それは災難でしたね。こんな、何もない、辺鄙なところまで来てしまって。お宅がこちらというわけではないんでしょう?」

「まあ、そうですね」

「私も、災難でした。お恥ずかしい話、弱くはないんですけど、今日は飲み過ぎてしまって」

「まあ、そんなこともあります」

 適当な相槌に促されたのは、駅舎の角の、堅い木のベンチだった。周囲の暗闇の中で、自販機の明かりだけが煌々と輝き、それに釣られた夜虫がうようよと意味もなく群れをなしている、その横。時折耳元に不愉快な羽音が聞こえて、本当に今日は不愉快なことばっかりだ、と私はひとりごちた。

 ストン、と無音で、男が角を挟んだ右横に腰を下ろした。別に、何か奢ってもらおうとか、たかだか百円そこそこの自動販売機のジュースごときでは思わないけれど、このままでは絶対に、手持無沙汰になってしまいそうなのに、と私は少しだけ意識して眉間に皺を寄せた。それの何を勘違いしたのか、男は、「寒いですか?」と頓珍漢な疑問を投げ掛けてくる。

 それを「大丈夫です」と交わした後、私はずっと疑問に思っていたことを口にした。

「あなたは? 暑くないんですか?」

「暑い?」

「その格好です。いくら肌を隠したい人でも、今の時期だったらせいぜいが薄い長袖よ。なのにあなた、冬物のコートなんですもの。なんで?」

「冬物の… ああ、通りでじろじろと見られると思っていたんです。なるほど。季節がマッチしていなかったと。なるほど…」

 すると男はいたく感心したように、俯いてぶつぶつと何かを呟いたまま、動かなくなってしまった。

 その沈黙が解けたのは、体感にすうればそれから随分と経ってからのことだった。

「他に、私のおかしなところはありませんか?」

「おかしなところ?」

 声とか、髪とか、その笑顔とか、と言いたいところをぐっと堪え、私は彼の言わんとすることを必死に見つけようとした。

「ええ、おかしなところです。この世界にマッチしていないようなところ、ありませんか?」

「この世界? それこそ、おかしなことを仰るんですね」

「ああ、これもまたおかしいわけですね。なるほど…」

 これは思ったよりも愉快な男だ、と私は男に対する見方を十度だけ変えていた。どことなく浮世離れしている男の感覚は、未だ少しだけお酒の余韻でふわりと浮いている頭には、なかなか丁度いいものだったのかもしれない。男と様々な問答をしていくうち、私は遂に男と話すことに楽しさを見出していた。

「あなた、普段は何をしていらっしゃるんですか?」

 話も深まってきた頃、私は興味本位で彼に尋ねていた。それまでに分かっていたことは、男の皮膚感覚が異常であることと、男がこの社会で生きているには異常に世間知らずであることと、男が声の割には純粋無垢な心の持ち主であるということだった。

「普段、ですか?」

「そう、お仕事は?」

「仕事…ですか」

「聞いちゃまずかったですか?」

「いや、まずいというわけではないんですが…」

 男は数瞬視点をウロウロと虚空に彷徨わせた後、まるで意を決するかのように、あの不愉快な声で断言した。

「死神です」

 もちろん、私は目が点になった。死神? 死神とは、あの死神だろうか? 大鎌を持って人間の魂を狩る、あの黒衣の気味の悪い空想上の産物? 頭の中で、これまでの人生で蓄積してきた死神に関する知識をすべて引っ張り出しても未だ、理解は追いつかなかった。それら知識をもってすれば、男とその空想上の産物との共通点は、せいぜいが季節外れな冬物のコートくらいだろう。もちろん、空想上の産物が空想上の産物ではないということが真っ当に証明されるなら、の話ではあるけれど。

「しにがみ、ですか」

「死神、です」

「それは、あの?」

「どれでしょう」

「大鎌を持って人間の魂を狩る、あの黒衣の気味の悪い空想上の産物?」

「大分この世界では脚色されているようですが、大筋としては間違いありません」

「あの、どこから冗談で、どこから冗談?」

「全部、本当です」

「あらら」

 私は、本当に彼がコートの中の暑さで頭をやられてしまったのだろうと思った。ただ、これを冗談として片付けるのは冗談として面白くないし、男の瞳はやはり先ほどから変わらず純粋無垢で、私をこのままこの冗談に乗ってもいいような気にさせていた。

「死神、さんですか」

「そうです」

「そう… なら、死神さんにお願いがあるの。いいかしら?」

「なんでしょう?」

 私はすっと、まるでさっきの彼のように断言した。

「私を殺してほしいの」


     ◇


 私は、真っ白な空間の中で眠りから覚めた。とても気持ちの良い寝覚めとは言わないけれど、背中に当たる感触は少なくとも、柔らかくて心地良い。薄布のカーテン越しに私を包む光は、もう太陽が昇り切っていることを伝えていた。

「どうも、こんにちは」

 男は最初に会った時と同じように、けれど今度は使うタイミングを間違えずに、私にそう挨拶した。私は男に「どうも、こんにちは」と同じように挨拶を返すと、独演を始めた。

「よくもあの時は、仕事をしてくれなかったわね」

 あの日は、大学の時から五年付き合った恋人に振られた日だった。「疲れた」という一言で、私とその五年間は呆気無く捨てられたのだ。別に、夢を見ていたわけではない。五年も一緒にいれば、彼が結婚願望などさらさらないことも理解して出来ていたし、他のなにか、彼自身にとって私よりもずっと夢中になれるものに、もっと時間を費やしたがっていることも分かっていた。でも、苦しかった。それでもこれから一緒に歩んで行けると思っていたから。何となく過ごす大切な日々は彼にとっても大切な日々だと信じていたし、それをこれからも積み重ねていくのだろうと、そんな根拠もない確信さえ持っていたから。だから、彼にそんなことを言わせてしまった私が情けなくて、苦しかった。そうして、学生時代にもしなかったような飲み方で散々に潰れた私は、宛てもなくどこへ行く電車なのかも見ずに目についた電車に乗り込み、頭と電車のひどい揺れに悩まされながら、あの駅舎へ辿り着いたのだった。

 別に、死のうと思っていたわけじゃない。ただ、これまで信じきたものが突然消え失せてしまったものだから、自分がまるで何も持たない人間のように思えてしまったのだ。いつも見ていてくれた、いつもどこからか助けてくれた、自信のない私を特別にしてくれた、何気ない仕草で大切にしてくれた、そんな彼がいなくなって、私は、特別から引き摺り下ろされて埋没していくゴミ屑になったような気分だった。

 けれどあの日、生きている意味が分からないと言った私に男は、まさしく何も無い駅舎の暗闇の中で、何でもないことのように笑ったのだ。

「そんなの、生きてみなければ分かりませんよ」


 そうしてあれから、何十年も経った。また私は何度か特別とゴミ屑の間を行き来して、どうにか特別な平凡になった。結婚して、子どもが生まれ、その子どもにも子どもが生まれた。生きた、と思った。生きている意味なんかやはり分からないが、生きている、とは思った。

 白い布団の上に乗せた、水分の抜けた皺くちゃの自分の手を見る。男と最初に会った時にはつやつやとしていたこの手も、もう完璧なお婆ちゃんの手だ。相も変わらず私の目の前でニコニコと愛玩動物を眺めるように笑っている、この年を取らない男の変わらぬ肌のハリにはやはり不愉快な何かを感じるが、もう男に感じる不愉快さにすら、飼い慣らされた気分でもある。


――今度こそ、仕事をするのよね?

――何か勘違いをなさっているようですが、あの時は本当にあなたの寿命を守るためにお会いしたんですよ。

――分かったわ、じゃあ早くして

――せっかちな方ですね。お孫さんたちを待たなくていいんですか?

――あなた、世間知らずが随分と直ったのね。いいのよ、昨日だって会ったんだから。むしろ、看取られる方が嫌よ。

――そんなものですか。

――そんなものよ。

――では…

――ああ! その前に…

――なんでしょう?

――死んだら、どうなるの?


 男は、今度はまさしく何も無い病室の白い闇の中で、面白そうに笑った。


――そんなの、死んでみなければ分かりませんよ。

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