epilogue



次の年の春になるまで、

ワーゲンには乗らなかった。


濡れたままのシートをどうにかする事もなく、

その車体にエンジンをかけることもない。

颯太君はそれからも毎月のように診察に訪れたが、定型文のような会話以外、あの親子とする事もなかった。



「ここのケーキ、いつも売り切れなんですよねぇ~。あー幸せ。いずみさん最高!あざーっす。」


西田さんがさっそくいずみの差し入れを頬張る。

今日の午後は休診。

会議も無ければ予定も無い。


白衣も脱がずPC画面に向かう俺の隣で、

いずみは朗らかに笑った。


「いえいえ、いつも陸人がお世話になってるから。他の看護婦さん達にも行き渡ってる?」


「はいっ!みんな喜んでます。あ、受付のとこにも残りを持って行かせてもらいますねっ。

……っと藤木先生はぁ?」


「……いらん。ケーキもええけど滅菌作業だけ忘れんとってな。」


西田さんを振り返る事なくそう言い、

enterキーを弾くと入力が完了する。


「はーい。じゃあいずみさんごゆっくり~。」


西田さんが駆け足で行ってしまうと、白衣くらい脱いだら?といずみが俺に声をかけた。


「……あぁ。

今日はせっかくの有給なんやろ?

……いつも差し入れごめんな。」


「……いえいえ。元カノとしてはあなたの行く末が心配ですから。せめて職場の皆さんには温かく見守ってもらわんとね。陸人の性格上、いつカミングアウトするかわからへんから。」


「……アホか。

……そんなんもうめんどいし。……そこまで深く関わりあいたい人間とかおらんし。」


人が出払った二人きりの診察室で、いずみは腰かけていた診察台から立ち上がった。


「……ふうん。まだまだ病んでるんや。ね、陸人、また恋人になってあげよか?」


そう言い俺の白衣を掴み、自分のもとに引き寄せる。


「……ここ診察室やで。

……と言うか今日はどうしたん?」


間近にあるいずみの瞳は、

珍しくアイラインをひいていない。


猫のように跳ね上がった、学生時代から長く続く。


「……ん……報告に来てん。」


曖昧に言葉を濁し、いずみは俺の白衣から手を離した。


「……報告?転職でもするん?」

「……のようなもん。……あんな……、私同じ職場の人と結婚すんねん。3つ年上で、熊みたいな人。でもな、ええ人やねん。ほら、メイク変わったと思えへん?……なんかな、私の素っぴんがかわいいんやて。」


「……それはおめでとう。良かったな。」


「……俺も安心した?いつまでも付きまとわれへんようなったしって?」


冗談のようにさらりと言い、いずみは俺をまた引き寄せる。


その力が思うより強く、それでも心音は乱れる事がない。


「……少しは……寂しいかな。

でもうれしい気持ちの方が大きい。……式はいつするん?」


俺がそう言うと、いずみは今度こそ諦めたように手を離した。軽く突き飛ばされたような形で後ろに後ずさる。


「早ければ6月。今日もその用事があるから後で熊に会うねん。

でも6月って雨ばっかりやし、

……と言うかな……実はもう4ヶ月。」


いずみの言葉がすぐには飲み込めず、

飲み込んだら飲み込んだで咳が出た。


「……えっ、子供……おるん。

細いしわからんかった。」


腹部におのずと目が行き、いずみがそれを避けるようにくるりと背を向ける。


「……医者のくせに。

……まぁ……ハプニングと言うか……。

こうなれへんかったら結婚する気もなかったけど。……なんせ熊、やし。」

「……でもええ人なんやろ?」

「……まぁ……うん。」

「やったらハプニングやなくて赤い糸やろ。」

「……やめてや。……私は……」


子供のように真っ直ぐないずみの視線から目を背ける。

時々自分が石像のように感じる事がある。

時と共に流れ動く周りの景色に角を擦りとられはするものの、いつまでもどこまでも変わらない。


「……大事にしいや。」

「……子供……?」

「……子供も、その人のことも。なんせいずみを嫁に貰ってくれるんやから。」

「……はは。

この絶世の美女をつかまえて何言うん。

熊とぶつかれへんかったらなんぼでも」


「ええ歳してなに言うてんねん。

明後日34になるのに。」


俺が言うと、いずみが突如はらはらと涙をこぼした。


「……そう言うのずるいわ。……誕生日覚えてるとか。でも……」


間違えんとって。


いずみは言った。

これは陸人がまだ好きなせいやからやなくて、

マタニティーブルーのせいやからと。

これからはあの熊とお腹の子供に全力の愛を捧げるから、気にしやんとってと。


「……桜……。」


鼻先をほんのり赤く染めたまま、

いずみが窓の外を見る。

診察室から見える桜が、儚げな日差しの下、

笑っているように揺れた。


「……うん……。ここのはちょうど昨日ぐらいから咲き始めた。」


「……ふうん……。ねぇ、陸人。」

「……何……?」

「……私も歩き出すから、陸人も人生の引き算ばっかりしてたらあかんよ。」


いずみは言い、よく見れば少し膨らみのある腹部に視線を落とす。

それに答えようとする間もなく、西田さんの賑やかな声が廊下に木霊した。






藤木陸人、フジキリクト、R.F。


神様から2度目にもらったこの名前を、やはり俺はもて余している。


自分で自分を抱きしめながら眠る。

馬鹿げたこの行為が、あの日からずっと止めれなかった。



電車に揺られ、シャッターの閉まる写真館の前を通り家路に着く。


果てしない孤独が広がるその部屋に、窓を開ければ春の夕暮れの匂いが漂い、今はもう置き手紙の無いテーブルに、朝食いかけのパン屑が幾つか。



携帯が鳴り、視線を泳がす。


母親からのメール。


【……元気にしてるの?陸人】


たったそれだけが、胸をえぐるように届いている。


ごめんな、おふくろ……。

純奈なんて可愛らしい名前もろたのにな。


陸人と打つあの年老いた指先を想うと、

メールの返信ができやんかった。


ついで電話が鳴り、躊躇しながら取ると、新庄先生のハスキーボイスが聞こえた。


『……あ、藤木君、もう家やんなぁ?』

『……あぁ~、そうですねぇ。ちょうど今帰ったとこです。……何かありました?』

『いやいや、何もや。あ、診察はって意味。順調にもうすぐ終わるし、今日は患者も少ないしな。

……ちゃうねん、突然やねんけど、今日の夜うちにメシ食いに来やへん?呑むやろし泊まっていってや。』


『……え……。』


新庄先生とは言わず、病院のスタッフとは一定の距離を置いてきた。


もう学生ではないし、たまにある呑みに参加する程度の。


断る理由を探しながら、左指でパン屑をかき集め、恐らく新庄先生と俺の唯一の月1休みが明日重なっていた事をぼんやりと思い出した。


『……明日、確か俺ら二人とも休みやんな?

何か予定入ってる?』

『……あ……いえ……。……あの、田中先生は』


『田中君は明日勤務やけど、そのままうちから病院行く言うてたわ。いや、昨日嫁さんの実家から生きた車海老が大量に届いて大変やねん。

3人家族じゃ食いきれへんし、どうせやったらうちでご馳走しよう思て。でな、ついでに泊まっていってもらったらええやんと。

ほんで藤木先生に病院で声かけよう思たらもう帰っとったから。』


『…………あぁ……はい。』


『……おいでーや、住所言うし。そない遠なかったやんな?俺はこの調子やったら8時頃には帰れるし、まぁ嫁さんの事やからエビフライづくしになりそうやけど、1人でションボリ飯食うよりええやろ。』


豪快な笑い声に抵抗する術を無くし、告げられた住所を上の空で聞くと電話を切る。


こんな些細な事にすら動悸がし、

肉体と心がアンバランスに揺れた。

愉しむ余裕は皆無に近く、ただ機械的に体を動かし、アオの住んでいたあの家を思い出す。

苔や人の気みたいなんもんでどこか湿ったあの家を。


俺は全くの善人やない。

おっちゃんしかいない家に通ってたんも、

ああしてアオをどこかで感じていたかったからやと記憶している。


……あのワーゲンも……もう潮時やな。


キーケースから外したままのキーを付ける。

今では車検に出す度費用はかさみ、使用頻度の少なさが鼻についていた。


新庄先生の家で風呂まで世話にならないよう、

シャワーを浴び、服を着替えると、いつもは目を反らす鏡の前にぽつねんと立つ。


……おまえ……誰やねん……。


中園 葵の為に改造された体は、行き場を無くしたまんま、今と言うブラックホールの中を漂っていた。


その残像を拭うように支度をし、

新庄先生の帰宅時間と重なるように家を出ると、

どこか骸のようなワーゲンに乗り込む。


シートはざらりとした感触で、暫く窓を開け放ち走れども、潮の腐った臭いは停車する度立ち込めた。



……誰かのクラクション…………俺にか。


青信号に気づくまで数秒かかった。


上体はいつしかハンドルにのめり込むように傾斜し、国道である事すら忘れている。


無数の音階でクラクションを浴び、アクセルを踏む時、また何かが歪んだ。


それが自分の軸だと気づくのに時間はかからない。


ワーゲンだけやない。

おれも生きる屍なんや。


同じものが同じ末路を辿る。

ワーゲンは新庄先生宅へは向かわず、

古い体を引きずりながらあの海へと向かっていた。





途中何度かエンストしかけ、古い車体を3度目の

コンビニエンスで停める。

線香花火は季節がら店内の陳列台に無く、

唯一買った缶コーヒーを煽るように飲むと、

緩やかな潮の匂いを感じた。


ふいに助手席で小さな光が点滅する。


新庄先生……。


何度も振動する携帯を断ち切るように裏返し、

今はもう僅か数メーター先にある海を見やると、

俺はアクセルを思いきり踏み込んだ。



12時。


日付が変わるその時間に、俺のワーゲンは砂に埋もれスタックしかけながら真っ暗な水平線を目指す。


アオが死んでから俺の時間は止まり、

中園 葵が造りしこの人間は、石像のごとく時間の闇を漂うしかしなかった。


……ヴォンッ……ウォンッ……ズサッ……



何かに引き込まれるように車体は揺れ、

やがて後輪の片方が完全に砂にめり込んだ。


海まであと10メートル。


エンジンを切ると傾いたワーゲンから降り、

熱くなったボンネットに手を添える。


「……わかったよ……。もう……俺だけで……行くから……。おまえはここにおったらええ。……誰かええ人に拾ってもらうんやで……。」


そう呟くと、まるで返事するように何かが光る。


……携帯。


行きかけるとまた光る。

ドアを開け電源を切ろうとして手を伸ばし、

着信が新庄先生やない事に気づいた。



『……………………チカ…………?』


『……リク?やっととったやん……。

ほんま何回かけたと思ってんのんさ。』


波の音がザーコポコポと、俺の足元に忍び寄り消滅する。


『……リク、外におるん?』


2年ぶりのチカの声は少し低く、それでいてどこか高揚感に溢れていた。


『……うん……まぁ……そう……。』


出端をくじかれたように俺はその場に座り込み、

海に向い胡座をかく。


俺をのみ込む予定やった真っ黒な無数の波は、

肩透かしをくらったように歪んだ白い

月を映した。


『……ふうん。こんな時間にどこにおるん?……なんか後ろ静かやけど。』


『……まぁ……ええやん。

……それより潤太郎は?……そっちは……朝?』


『……元気やで。……いや、そっちと同じ時間。

……それにな、こっからなんや管理の人に怒られそうな場所に黄色いワーゲン停めてるのん見えるんやけど。』


『……え……?』


咄嗟に振り返り、暗闇に目を凝らす。

瞬きを何度か繰り返すうち、一台の車のライトが小さく点滅した。


『……はい。ほなもう到着やし電話終わりな。

うちらは駐車場にちゃんと停めるし。』


チカがそう言い電話は切れる。


混乱する気持ちを抑えつけ、冷静になろうと立ち上がり呼吸をし、真っ直ぐこちらに向け歩く2人を、ただ目で追っていた。


「……あんた、怒られるで。こんなとこ車停めて。」


目の前に来ると、チカはそう言った。

いつもならそんな口調を咎めるはずの潤太郎も、

何も言わず立ち尽くしている。


「……なんなん……?……これは。」


まるで俺の跡をつけてきたかのようなシチュエーションにそんな言葉しか出なかった。


「……なんなんってさ、ちょっと前にやけど、

いずみさんから連絡もらってん。」


「……いずみ……?」


いずみと二人は直接の知り合いやない。

無理矢理どこかから引っ張ってきたかのような言葉に違和感を感じた。


「……うん。……なんや自分はそろそろもうあんたとは交わらへん道を進まあかんし、やっぱりあんたの様子がおかしいから、気を付けて見といたってくれって。……わざわざイギリスまで電話くれはってん。」


「……そう……なんや。……でも……」


「……なんでうちらとあの人が繋がってるんか、やろ?……なんでやと思う?」


「……は?……わざわざ俺の跡つけるような真似して謎かけ?……もうええって……。」


久方ぶりに会えた嬉しさよりも、あの日相澤親子に感じた気恥ずかしさが頭をもたげた。


起伏の消滅した感情を置き去りに、放つ言葉だけが刺を持つ。


「……あんたなぁ……、うちらもそんな暇ちゃうっちゅーねん!」


チカが俺を睨み付け、そこでようやく潤太郎が声を発した。


「……口が悪いんは……すいません。

……けどこいつも思うところがあって……。

……それにリクさんの跡をつけてきたと言うか……、……たまたま僕らの一時帰国の翌日と今日……あ……もう明日か……?あれっ?」


頭をボリボリ掻く潤太郎とは対照的に、

チカは静かに深呼吸をした。


「……もうええわ。ちゃんと落ちついて話すし。

つまりな、ほんま偶然が重なってん。

あほいがホスピス入る前に、いずみさんにあんたの事頼んでて、そっから何回かうちらがいずみさんに連絡もらっとって、日本にいっぺん帰ろう言うてたんもあって、あんたに会いにマンションまで行ってん。

そしたらなんべんチャイム鳴らしても出えへんし、大学病院でも帰ったって言われるし、それでふと思い出してんな?」


チカに突如ふられた潤太郎が頷き、ポケットから鍵を取り出す。


「……合鍵……まだ持ってたんや。」


「……えぇ……まぁ。……なんか色々あったよなぁって思ったら青春の1ページみたいで捨てられへんかってキーケースに。で、これあるやんってなって、

中でリクさん待って驚かせようと思って勝手に上がらせてもらったら……」


「…………部屋……汚なかったやろ……?」


俺が言い、潤太郎が浅く頷き、チカは目を反らした。


「……汚ないなんてもんやないで。

……何あの時間が止まったような部屋。

……ごみ箱に書き置きがいっぱい……あんな……。」


チカが声を詰まらせ、俺に背を向ける。


潤太郎が意を決したように口を開き、

その名前を押し出した。


「……それ見てたら、あっちゃんが……、あの海にリク迎えに行ったってって……みんなでスイカ割りしたあの海にって言うてるような気がして。……僕らほんまに当てずっぽうでここまで来ましたけど、……当たって良かった。」


「……ええ迷惑やけどな……。」


俺がそう言い終えた直後、頬に鈍い痛みが走る。


俺を殴ったチカの顔が一瞬間近に見えたかと思うと、そのまま胸ぐらを掴まれ波打ち際へと押し倒される。


馬乗りになったチカは、制止する潤太郎の腕を払い、真っ赤に濁った顔で何発も俺を殴り続けた。


「……かかってきーやっ……!

かかってくる元気もないんやったら、そんなアホはお望み通り今すぐあの海に沈めたるからっ!

どうせそんなあほな事ばっかり考えとったんやろっ……!この10数年っ、ほんまきしょいっ!」


「……こらっ、チカやめろっ、リクさんも逃げてっ。」


静かな海に響き渡る俺らの声は、感情は、

俺がアオを遠ざけた昔のように、

縺れて繋がり、離れては近づいた。



「……ほんまにやめろってチカっ……!」


潤太郎が渾身の力を込めてチカを俺から引き離し、肩で息をつくと、


「……子供が……おるやろが。」


と呟いた。


「……こ……ども……?」



チカにされるがままやった俺の唇は切れ、

唾を飲み込むと錆びた鉄の味がする。


「……です……。……僕らにはなかなか子供が出来なくて……。それもあってチカは両方の親に肩身が狭いって日本になかなか帰らなかったんです。

……それがこないだやっと出来て……しかもまだ3ヶ月になったばっかりやから、飛行機に乗るんはどうかと思ったんですけど、リクさんがどうしても気になるって……。


……でもそれがリクさんにとってええ迷惑やったんなら……ほんまに謝ります。」


荒馬のようなチカをねじ伏せると、潤太郎は優しく妻の肩をさすった。


それから暫く言葉は交わさず、

俺は仰向けになったまま、ワーゲンのキーを投げる。

放物線を描いたキーは、潤太郎の足下、

砂の上に落下した。


「……えっ……。」


「……習慣でポケットにいれとった。

……どうせこのまま俺を監視するんやったら、

エンジンかけて中におりいや。


……まだ4月やし……チカの……体に悪いし……。」


俺は言いすぐさま二人から顔を背ける。

アオと初めてカーテンを買いに行った日に見たような星空が、ちんまりと春の夜空を制覇していた。


「……リクさんもそない言うてくれてるし、

チカ……、ちょっと落ち着け。」


視界の片隅で、潤太郎がチカの肩を抱き、

ワーゲンの中に消えてしまうと、止めていたような呼吸が全身に行き渡る。


口の中でを不快に浮遊する砂を、唾液と共に吐き出し、強ばった肢体を丸めながら起き上がった。


ワーゲンはこちらを向き、遠い異国の地からワープしてきたかのような友人二人を、

後部座席に乗せている。


その車体に指先を伸ばすと窓は開き、

チカが不機嫌な横顔を覗かせた。



「……何……?」

「……何ってこれ、俺の車やけど……。」

「……そうやったな。……乗るん……?」

「……まぁな。……俺のやし……。」


俺は呟き、力無く運転席にドサリと体を沈める。


「……この海で自殺しようとか。チープ過ぎて笑える。」


チカは吐き捨てるように言った。


「……こらまたそんな事を……。すいません、リクさん。」


「……ええって。……ほんまの事やし。」


アオが死んだ時、泣き叫べばよかった。

そうしたら俺はこの海でチカの云うようなチープな行為に及べへんかった気がする。


強く生きなあかんのやと思いすぎる事が、

逆に俺を弱くさせていた事も。


「……チカ……、俺な……。

こんなんしたん初めてちゃうねん……。」


俺が言うと、チカは頓狂な声をあげた。


「……嘘やんっ……ほな何で今生きてんのん?……ひょっとして……亡霊!?」


……全くチカらしい答えに、強張っていた口許が緩む。


潤太郎はもう何も言わず、たた真っ暗な窓の外を見つめていた。


「……アホやな……。……助けてもらってん。

……でもまだお礼ちゃんと言えてないから、

今からメール……してええかな?」


「……え?……いいけど……って言うか、何言うてんのんかようわからんわ。大丈夫……?

……それに今、真夜中やで?」


メールを送って返信が無かろうが、

もうそんな事はどうでも良かった。


でももしこの海に来たくなったら、

メールをしてくださいと……言われたから。


財布の中に畳んだままの紙切れを広げ、

その光だけを頼りに1から入力していく。


ようやくメールを打ち終え、シートに背中を預けると、ミラーの中のチカがまだ睨んでいた。


「……送ったん?」

「……まあ……うん……。」

「……そ。どこの誰か知らんけど、こんな時間にええ迷惑やな。きっと気づかんと鼾かいて寝てるわ。つくづく何もかも不毛な奴やなあんたって。

天国であほいも……」


そこまで言うと言葉を切り、

思い直したように


「……鼾かいて寝てるわっ。」


と言うと、そっぽを向き目を閉じた。


沈黙が続けば、せっつくような波音が蘇る。

着信の鳴らぬ携帯を助手席に置くと、

俺も静かに目を閉じた。


もう何日も、思えば長く眠った記憶はない。

目覚めればアオのいない世界しかないなら、

2度と目覚めたくないと密かに思いながら。



『……鳴ってんで……。』


チカの声が朴訥に響いた。


目線を助手席にずらすと、

蛍のような光がシートに染みている。


『……わかってる……。』


『……ほな早よ見いや。

まさかの返信が広告メールやなかったらええけどな。』


時刻はもう2時を少し過ぎていた。

携帯を手に取り、受信メールのそこに件名の無いメールを確認すると、途端に怖くなり躊躇する。


後ろから伸びたチカの手が、

迷う俺の指先を押し、メールが開く。


『……ほんまめんどくさいわ。

いつまで見つめててもメールの中身は変わらんっちゅうねん。』


うたた寝をしていた潤太郎が、

チカの声にビクッと肩先を震わせた。


『……何て……?その命の恩人は。』


『……ちょっと黙っててチカ……。』


俺は言い、その短いメールを何度も読み返した。


【始発でそこに行きます。着くまで待っていてください。】


海に……います。



それだけ書いただけの空回りなメールに、

その人は律儀にそう送ってきた。


『……もう、じれったいなぁ。貸してっ……。』


チカが俺の携帯を奪い、それを見るなり大声で笑う。


『……なにこれ?あんた何て送ったんよ。

……あははっ、バカバカしい。

こんなもん来るはずないやろっ。』


『……うるさいなぁ。……俺もそんな風に思ってへんし……返してや。』


もぎ取るように携帯を奪い返すと、腕組みをしたまま運転席に縮こまる。


チカはつまらなそうに溜め息をつき、


『……そいつ、男?女?』


と、ぶっきらぼうに訊いた。


『……女……で、シングルマザー。多分……年下。』


俺もぶっきらぼうに答え、チカがどうでるか伺う。

海は夜明けが近づくにつれ穏やかさを増し、

波音すらも遠慮がちに響く。


『……へえ。……でも入れたれへんし。』


チカは数秒後そう言った。


『……入れたれへん?』

『……うん。あほいの抜けた穴にはその人、

絶対入れへんし。私女やからめっちゃ意地悪やねん。ごめんな。』


『……入ろうなんて思ってへんよ……あの人は。』


そう答え、俺はあの人の何を知ってんねんやろうと思った。


……何も知らないし、何も知ろうとしなかった。


……怖かったから。


アオ以外の人間が、俺を理解しようとするんが、

怖くて怖くて……背を向けた。


『……へえ。……なんや知らんけど、もしほんまに来たら来たでその奇特なバカ女を拝んでみたいもんやわ。ま、それぐらい根性あるやつやったら、あんたが元女やって知った所で尻尾巻いて逃げだせへんかも……やけど。』


『……チーカー、もうええ加減にしときや。』


瞼を閉じたままの潤太郎がチカを諭す。


潮の匂いと、繰り返してしまったチープな行為。

そこに絡み付くチカと潤太郎の間抜けな会話。


……そしてあのメール……。


何もかもが俺の心を散々疲労させ、

そこから何かを導き出していく。


アオが死んだあの日から、

ずぶ濡れになってあの人に助けられた日から、

俺はゆっくりと岸に向かい、砂まみれになりながらもそのロープをようやく掴んでいる感覚に辿り着いた。



チカが黙ったのを最後に、太陽が忍ぶように静かに昇る時間まで、俺は久しぶりに眠った気がした。

それこそ狭っ苦しいハンドル越しの運転席で、

目に見えない何かにちゃんと包まれて。





Deep forest と言う曲目に設定された

俺の携帯メールの音が響き渡ると、

3人がほぼ同時に目を覚ます。

時刻は10時過ぎ。

昨日はよくわからなかったチカや潤太郎の服の色が、届く光に鮮明に浮かんだ。


『……やっぱり行けませんメールやできっと。


……バカバカしい。もうあんたも死ぬ気失せたやろうし、さっさと帰ろうや。お腹減ったわ。』


車内の天井に指先を付け、チカがう~んと伸びをする。


俺は恐々そのメールを、目覚めたばかりの指で開く。


【……駅に着きました。藤木先生がきちんと私を待てているか心配です。】


背後から覗いたチカが、


「……マジっ……!?」

と掠れた声をあげた。


「……多分ほんまに始発で来たんやと思う。

……どうしよう……。」


「……どうしようって何よ?

来たもんはしゃーないやん。元々あんたがメールしたんが悪いんやからな。」


チカが大袈裟に腕を組み、ふてぶてしく窓の外を見る。そしてそのままドアを開け外に出ると、

運転席の窓を叩いた。


手動のハンドルで窓を開けると、

チカの声が飛び込んでくる。


「……出てきたら?駅からやったらわりとすぐやで。」


「……チカごめん、チカはあの人の事知らんし、

来ても俺が話しに行くからこの中で待ってて。」


「……嫌なこった。

こっちはわざわざイギリスから帰ってきたってんねんで?しかもこれからあんたと関わるかもしれへん相手やのに値踏みすんのは当たり前やろ。

権利や、権利。」


チカが言い出したら聞かへんのを知っている潤太郎は、やたらと長い溜め息ばかりをついた。


「…………わかったよ。……でも隣におるだけにして。……向こうがびっくりするやろうし、紹介はちゃんとするから。」


俺は言い、潤太郎と同じ溜め息をつきたいのに飲み込んだ。



水面に陽光が煌めくと、

生きていて良かったと少しでも思えてしまうのは

不思議や。


そしてそんな自分をどこか責め続けてきたんも、

ほんまやった。


砂浜に3人で立つと、思いの外強い風が衣服をどこまでも靡かせる。


こんな世界の果てのようなものを味わってみて初めて、俺は先に進もうと思った。



「……来たん……ちゃう?

なんかあの顔を手で覆ってる人。日焼け止めでも塗んのん忘れたんちゃう?」


暫くすると憎々しげにチカが言う。


その先を目で追うと、颯太君の母親が1人、こちらに向かい歩いて来るのが視界に入った。


「……違うって。……あの人……泣いてるんかも。」


潤太郎がぼそりと言い、チカが、


「……わかってるっちゅうねん。……でも私、

あんなわざとらしい奴嫌い。」


と吐き捨てる。


俺はゆっくりと1人進み、

颯太君の母親と対面した。



「……ほんまに……来たんですね……。」


颯太君の母親は酷く泣いているせいで、

頷く事しか出来ない。

この人が泣いている理由がもし俺なら、

よく知らないこの人を泣かせている理由がわからなかった。


「……心配やったんです。ほんまに。

……先生があの日から私を避けているんはわかっていたんですけど……でも……昔の私とよく似ているから、やからメールが来なければ良いなと思いながら毎日過ごしていました。

……そしたらメールが。その音で目を覚まして、

私は絶対に先生に会いに行かなければならないと。始発に乗るまで、乗ってからもずっと気がかりで、電話番号がわかりませんから……。

それで遠くから姿を見つけて……そしたら泣けてきて……。」


5分ほど経った頃、颯太君の母親は無理矢理自分を制御すると、赤く泣き腫らした目をふせる。


チカが短く舌打ちし、


「……あほいとはまた別パターンの苛つく女やな」


と呟き、潤太郎が戒める。


颯太君の母親の言葉に何と答えれば良いかわからず、俺は二人を紹介しようとした。


「……あ……こっちの二人は」


「私が迫田 千嘉で、こっちが旦那の迫田 潤。

私はこいつの彼女やった死んだ中園 葵のマブダチで、旦那は中園 葵の元彼。

……わかった?」


止める間もなくチカが言う。


潤太郎と俺はほぼ同時に溜め息をつき、

颯太君の母親は少しだけその目を見開くと、

「……あ……はい。」と小さく頷いた。


「……やんね。昔から説明めっちゃうまいもん私。


……でな、補足すると、シングルマザーやのに子供ほっといてここまで来るような嘘っぽい女が私は大嫌いで、藤木陸人先生は元女やねん。オッケー?」


チカが淡々とそう述べ、俺より先に潤太郎が頭を抱えた。


「…………あ……え……はい……。

……あのでも……颯太は……子供は隣の部屋のお婆さんが朝早くから起きられているんで、事情を話して見てもらっていて……。

……あ……それから……あの……嘘っぽいかもしれないけれど……私はほんまに……あと……。」


しどろもどろになってしまった颯太君の母親が最後、俺とちゃんと目を合わせる。


「……先生やから……とか、……そう言うの一切関係なく、ただどうにかしてあげたいって……それだけで……。」


それからその先言いたい事を、

その人は安堵したような溜め息の中に込め黙った。


「……はい、嘘っぽい~。

言うとくけど、リクはむっさ厄介やで?

あんたが何言おうがこいつはずーっとずーっとあほいが好きやねん。やなかったら何であんたが止めた時と同じことしにここ来るんな。そやろ?」


「……チカ、もうやめとき。素直に言うたらええやんか。私はリクが知らない人と先を進むのが許せないんやって。

親友が可愛そうやって、まだ思ってしまうんやって。」


響いた潤太郎の声に、チカがピクリと肩を震わせる。


俺は潤太郎を通じてチカの想いを初めて知り、

口が悪くてどうしようもない旧友の横顔をじっと見つめた。


「……アホ言わんとってや……。

……私らは先に進んでんのに……リクだけ進んだらあかんやなんて私は何も……。」


チカの勢いが徐々に止まる。

チカは俺に死んで欲しいんやなくて、

世界で唯一の親友やったアオが俺に、

忘れられていく事が怖かったんやと思った。


「……チカごめん……。

……この人はアオみたいに俺に何か恋愛感情があってここまで来てくれたんやないと思うねん……ほんまに。

チカが知らん人やから、動揺させてしまったんかもしれんけど……ごめんな。」


何かに救いを求めていたのに、

何かを救おうとしている自分がいる。


それは不思議な感覚で、指先まで力が満ちてく気がした。


「……別に……。……潤の言うた事全く当たってないし……。」


チカは言い、海ばかりを見つめる。

波が何往復かした後、颯太君の母親が俯いていた顔をあげた。


「……チカ……さん。私も……藤木先生と何も違わないんです。

……今でもずっと死んだ主人の事が好きですし、

忘れようとも思いません。

……でもね、やっぱり翼を片方無くせば、

前を向こうとしても、どれだけ友達がいてても、

翔べない時があるんです。

……私はそう言う藤木先生の気持ちがわかるから、

少しだけでも力になりたい、寄り添いたいと……それだけなんです。それと違う気持ちはほんまに今、微塵もないです……。」


チカはそんな母親を一瞥し、

「……今は……やろ?……別にどうでも……ええけど……。」


と言うと、水平線に視線を移した。


それから暫く誰からも言葉は無く、

見かねたように手にした携帯が鳴り出す。


……新庄先生やった。



『…………は……い。……あの俺昨日』


すいませんでした。


と言おうとすれば言葉が重なる。

がさつで、それでいて優しく温かい声が。



『……おお!や~っと出たかぁ~!

ラッキーやで。この電話とれへんかったら、

そろそろ捜索ださなあかんかなぁて思とったから。』


けたけたと笑うその声は、俺を微塵も責めなかった。


約束の8時を14時間も過ぎ、

おまけにこんな場所にいる俺を。


『……ほんまに……すいませんでした。

最近ずっと眠れなくて、気づいたらそのまま寝てしまっていて。

奥さんや田中先生にも申し訳ない事を……』


『なんや寝不足かいな~。

あかんで、医者は体力勝負やからなぁ。

嫁さんと田中君?まぁ心配はしとったけど、

二人ともがっつり呑んで喰うて、テレビのニュースで藤木先生らしき事件事故やってへんから、

ただ単にめんどくさなったんちゃうか~ぐらいにしか思ってへんから。』


『……やけど……。』


俺が言葉を切ると、その隙間を埋めるように

新庄先生の笑い声が響いた。


『ええって事や。終わった事やし、気にすんな。

それより……』


……エビフライ食べに来えへん?


散々巡って振り出しに戻る。


『……今から……ですか?

……実は俺今……ちょっと離れた所にいてて。

……それに……1人やなくて4人で……』


『え?そうなんや。

でも言うても外国とかちゃうやろ?

半日あれば帰って来れる距離なんやったら、

晩飯一緒に食おや。あ、その友達らも一緒に連れておいで。かまへんから。ほなまた連絡してきてや。』


切れた電話にもう一度かけ、誘いを断るつもりが、電話越しにチカと目が合う。


「……誰?」


「……あ……えっと……同じ職場の先生。家にメシ食いに来えへんかって。……その……みんなもええって……。」


そう聞き怒り出すかと思っていたチカが思いの外笑い出した。



「……えぇっ!?その先生変わってんなぁ。

おもろいやん、行こうやみんなで。」


「……本気で言うてる?」


「うん。なぁ潤。」


チカにふられた潤太郎は、

チカの体調を気にしながらも渋々頷いた。


「……ほら。ええやん行こや。あんたの職場の人やったら、そう言う付き合いちゃんとしとかなあかんし。」


滅茶苦茶なチカが、わりにまともな事を言い、

俺はただ苦笑するしかなかった。


「……ほな決まりな。私らは来た車で行くし、

そっちはそっちで……行きいや……。後ついてくし。じゃあな。」


クルリと踵を返したチカが、潤太郎と縺れ合いながら、俺達に背を向けた。



残された颯太君の母親がおずおずと俺を見る。



「……じゃあ……私は電車で帰ります……。」


メイクすらしていない。

でもその小さな体に閉じ込められた強い何かは、

俺の心をゆっくりと溶かしていく。



「……そんな事させれませんよ。

……運転出来ますか?」


俺は遠目にある黄色い車体を見やり、そう訊いた。


「……ぁ……ええ……。免許だけは。」


「……ほなよかった。……あいつら行ってもうたし、俺が後ろから押すんでアクセル踏んでてさえもらえば砂から出れます。」


「……あぁ……はい。わかりました……。」


少しだけ離れ、無言のまま並んで歩き、

車体に到達する手前で俺は訊く。


「……今日夜とか……、何か予定ありますか……?」


「……特に……ですけど……でもあの……さっきのお話とかやったら……私が行くとチカさんがお嫌なんじゃないかって……。」


そう聞き、懐かしくあの頃を思い出す。


アオも最初はチカが苦手で、

でもチカがいなければ、アオは最後まで潤君と付き合っていたかもしれんと……。



「……大丈夫ですよ。そっちはそっちで……ってあいつ言うてたでしょう?

あいつなりの来てもええよって言う事なんです。


……俺の彼女も最初はチカとしょっちゅう揉めてたし、俺やチカが慣れっこなだけですけど。相澤さんさえ……嫌じゃなければ、颯太君も一緒に。


それに、俺もそこまでよく職場の先生の事知らないんですけど、きっとみんなを笑って迎えてくれる……そんな人です。」


俺がそう言うと、颯太君の母親はようやく頷いた。



「……じゃあ、申し訳ないですけど、お願いします。」


俺は彼女を運転席に乗せると、エンジンをかけた。

古い機関車のように車体がブルンッと振動し、

やがてシューシューと微かな音をたてる。


窓越しに彼女と目が合い、

宜しくお願いしますと言うはずが、

「……ありがとう……ございました。」


と言う声に変わっていた。


自分でもハッとし、照れ隠しに深々と頭を下げる。


車体の後ろに回り込もうとしてふと、

気になった。


「……相澤さんあの……俺下の名前聞いてなかったですよね?何さんって言うんですか……?」


颯太君の母親は俺の問いに、一瞬戸惑ったような表情を見せ、それから笑みを浮かべ答えた。



「……碧(あおい)です。戸籍は相澤のままなので、

相澤 碧。」


「……あ……おい……さん。」


偶然の産物は俺を酷く動揺させる。


……でも、アオと彼女は全く別のもの。


やから重ねてはいけないと思った。


「……わかりました。……あ、じゃあ宜しくお願いします!」


わざと弾けたように言い、車体の後ろに回る。


あおいさんが俺の合図と共にアクセルを踏み込み、何度か駄目だったあと、何かの兆しが見えたように車体が揺らいだ。


…………リク…………。



声がし、振り返るとアオが砂浜に立っていた。


その輪郭はどこまでも淡く、背後の海が透き通って見える。


運転席の彼女の背中を振り返り、

またアオを振り返る。


アオが話す声しか聞こえへん。


波音も、空を飛行する鳥も、それから彼女が懸命にアクセルを踏む音も、何もかもが動きながら音を無くした。



……結局リクはこっちの世界には来えへん事にしたんやね。


その瞳は哀しそうで、それでもどこか安堵したような色を浮かべている。


……アオ……俺は……


車体から両手を離し、幻のようなアオをかき抱こうとして、空をかく。


アオは肩を竦めると、嘘やってと言った。


…生きてんねんから、生きいや。

やないと私がこの海から去られへんねん。


そう言い、俺の肩を右手で押す。

風のような何かが触れ、俺の足が1歩後ずさった。


……あの人。


……あの人?……あぁ……彼女……。


……うん。悪くないやん。

……やから前、線香花火の火種わざわざ握らせたったのに、なんでリクは気づかんかったん?


くすぐるような笑い声をたて、アオが言う。



……ああ…………………………。


……あの人とあの人の子供守ったり。

そうすればリクはきっともっと強くなれる。

……あんな女、チカと一緒で私は好きちゃうけど。

それでもリクの事、悪くはせえへん気がする。


アオはにっこり微笑むと、

必死でハンドルを握り続けている彼女の背中に目をやった。



途端に風がドウと吹き、

止まっていたすべての音が耳に甦る。



「……もうちょっとですか?藤木先生。」


車窓から顔を覗かせ、あおいさんが額の汗を拭う。

もう一度振り返っても、そこには海がただあるだけで、アオの姿はどこにも無かった。



「……あぁ、はい。もう一押しすれば。」


俺は全ての力を両腕に込め、ぐぐと押す。

あおいさんがアクセルを踏む。


その動作が重なり、ようやくタイヤはめり込んでいた箇所から脱出した。



「……おーい!……ちょっと何ぐずぐずしてんねんなぁ。早く先行ってや、アホ二人組!」


遠目に見える駐車場からチカがバカでかい声を出す。


あおいさんが、チカの声に少しだけ笑みを浮かべ、それから俺に運転席を譲った。


やがて駐車場まで辿り着くと、

いらちのチカが腕組みをして怒っている。


「……言うとくけど、チカに怒る権利はないで。

タイヤが砂にはまって動かれへんかったし。」


「……わぁ、そうやった!すいませんっ、リクさん何も手伝わんと。遅いなぁなんて呑気に言うました……。」

潤太郎がチカの代わりにそう言い、チカはそれでもフンと横を向いている。


そして助手席のあおいさんを見ると、


「……電車で帰れへんねんや。……そんで食事会も来るんや。」


と嫌味たっぷりに放った。


「……あ……いえ、私はその……。」


あおいさんが口ごもり、俺がチカに何か言おうとしたその時、チカが腕組みをほどく。


そして、「……まぁ、今回は功労賞って事で、許しといたるわ。」


と、残念そうに肩をすくめた。


その視線は俺に移り、チカがまた目に力をこめる。


「…………何……?」


「……別に。たいした事ちゃうねんけど」


チカはそのまま目線を今はもう遠くにある海に移した。


「……あそこは今までもこれからもずっと遊泳禁止やから。そんな約束、ガキでも守れるんやで。」


その笑顔につられるように、俺の顔に笑みが浮かぶ。


キラキラ……キラキラ……


子供がそう表現するようにあの海は光り、


俺は力強くハンドルを握りしめた。






【fin】
































































































































































































































































































































































 





















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苺は野菜かフルーツか。 森内りん @koyuki

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