In August after ten years





ふじきせんせえ、


ふじきせんせえ?


…………先生っ……!



夢の中で呼ばれ、ハッと気づく。

声の主はすぐ隣で、耳元で揃えたボブヘアーにしかめっ面を浮かべていた。



「……ごめん、次の人呼んで」

「……寝不足なんはわかりますけど、勤務時間中ですから」


憮然としながら、看護婦の西田さんはガラリと声色を変えた。


相澤あいざわ颯太そうたくーん、

どうぞ~」


その音程は、電車到着を知らせる電子音と少し似ていて、中待ち合いのカーテンが開くと同時に俺は居住まいを正し、白衣の腕の隙間に、いつもの親子の姿を確認する。





「……すみません。今朝またお腹が痛いって言うもんですから……」




母親の溜め息の下にある小さな肩。

顔色良し、どちらかと言うと嬉しそうな颯太君は、俺と目が合うと満足げに口許を緩めた。


とりあえず診察はする。

目の下の充血、喉の見た後聴診器をあて、最後は腹部を触診。



「……お腹の風邪ですね。

昨日も出したお薬で大丈夫やと思います」



浮かない顔の母親にそう言うのも診察の一部。


「……保育園、これからでも無理ですか?」


行ったところで何の問題もない。

颯太くんは風邪などひいていない。

けど俺は言う。


「……ですね……。

今日はお母さんがそばにいてあげる事が一番のお薬になると思いますよ」



ここ一ヶ月、3月からほぼ間を空けることなく

親子に言ってきた言葉を使う。


母親はシングルマザーで、事務服の胡桃ボタンを残念そうにいじった。


「……お仕事、大丈夫ですか?」




誰か他にと云うか感じでもなさそうなので、

そう思うとこの母親は、3月からほとんど出勤出来ていない事になる。


「……あ……はい……」


ぼんやりしていた母親が、乾いた笑顔を俺に向けた。






「…颯太くんってやっぱり仮病ですよね……」



やがて親子が診察室から退出すると、

西田さんがこっそり耳打ちする。


「……いや、お腹の風邪やで」


けれど納得いかないのか、西田さんの頬はふくれる。


「……違いますよぅ。

先生わかってわかってはるんでしょ?仮病やって」

「でもええやんか。君には関係ないやろ?

他人の、特に患者さんの事は無意味に詮索するな」


遮りながらカルテに目線を落とすと、

そんなたわいもない事で西田さんの顔が曇った。



「……ごめん。

変な意味やなくてあれはちゃんとした病気やと俺は思うからやで。君に怒ってる訳やないから」


「……私こそすみませんでした。

あ、そのぉ、彼氏にもあんまり怒られた事ないんでビックリして」

「……そうなんや。君の彼氏は優しいんやな」


今時の子は、誰にでも優しい。

それが相手の強さを少しずつ奪う事も知らないままで。


「……はい。なので逆に、敢えて、

先生みたいなタイプの男性に惹かれたりするんです。


あっ、これって……プチ告白?」


「……何で俺に疑問系やねん。しかも彼氏おんのに」


今時の子はこんな告白くらいコーヒー飲むんとそう変わりはないんやろう。

ふくれてたと思たらケラケラ笑い出す。

……ったく忙しい。


「……あははっ……あ、はい。

でも人はどこで恋愛に発展するかわからへんでし ょう?

先生かって彼女いてても、身近で働いてる私にグラッとする日が来るかもですよ。世の中は常にアンビリーバボーですから」


今度は真面目な顔で頷く西田さんを見ていると、

最近の子は屈託なくてええなと思う。

若い子……。

無限ループのようにそう思ってまう時点で俺も歳やな。


今年俺は33になる。毎年二人で祝ういつものbirthdayが、また今年もそこにあるのだ。







大学6年生の冬に国家試験を受けた。

あっさり合格で、研修医生活が2年。

小児科を選んだんは、腐れ縁の柏木に

『おまえは小児科がむいてそうや』と言われたからだ。


柏木は内科を選び、この大学病院からそう遠くない総合病院で働いている。

たまにわざわざ時間を合わせて漫喫で会う。

今だ独身のねーちゃんともたまに会う。

そして親にも、たまに。


けど一通りの近況報告とか雑談が終わると、みんな困ったような顔をすんのは何でやろ。


何か言いたげな目で、それでも笑みを浮かべ、

何かあったらいつでも言うてと決まり事のように締め括る。


俺は医者で、ちゃんと仕事してんのに、

まるで小さい子を扱うように、みんながそう。





……あ、そうや。

実はあれから、チカと潤太郎が結婚した。

それも去年の事で、お互いにお互いしかいなかったと言う、あまりパッとせえへんきっかけ。

でも仲は悪そうやない。

チカはイギリスで小さなブティックを開店し、

潤太郎も必然的にイギリスに住む過程を踏み、

チカのブティックの片隅で、

あの何とも言えへんアクセサリーを造り売りしているらしい。


去年あいつらの結婚式にイギリスまで行き、

久しぶりに二人に会った。


前衛的なウェディング姿のチカは俺を見るなり、


『益々ええ男やなっ』と人目も憚らず抱きついてきた。


『……ごめんな。あいつ来られへんくて』


彼女の事を告げると、一瞬目を見開き、

それから悲しそうな顔をして静かに微笑んだ。


潤太郎とはあまりゆっくり話す時間もなく、

でも次の日酔いつぶれたチカの代わりに、

空港まで俺を見送ってくれた。


別れる間際、潤太郎に言った

『……またみんなでスイカ割りしよな』という

言葉は、空港のアナウンスが重なり結局潤太郎には届いていない。


『また日本に帰ったら必ず連絡しますねっ』


イギリスにいても少しもイギリスナイズされない潤太郎がニッコリ笑い、大きく手を振った。


それが去年の今頃の事で、

そこからまた1年が経つ。




明日は学会やから、早めに診療を終えた。

いつもと同じ颯太くんの病気。

西田さんのプチ告白。

少し思い出し笑いして電車に揺られ、

いつもの家路を辿っていく。




緑の草と桜の花びら。


桜餅を彷彿させる匂いがホームに立ち込める。

夜の改札を出て薄暗い商店街通りへ。


医者になってからは、空いてる先生同士突然呑みに行く事もあるから、通勤はもっぱら電車。


そしていつも帰る時刻になると、この商店街はシャッターだらけ。

なのにこの日はそこだけシャッターが半分開いており、古くさい蛍光灯の光が道に不格好なスクエアを作っていた。


そこの主はすっかり禿げ上がった頭をさすり、

残りのシャッターを締めようとして俺に気づいた。


眼鏡を何度も動かしながら俺を観察する。


「……ん……?あぁ、やっぱり……!」



写真館の主はショーケースの中にある

その写真と俺を交互に見比べた。


「……暫くわからへんかったよ!

ずっと見かけへんから引っ越したんかと思ってた。

……あれから……結婚したんやよな?

……ええっと…………もし別れてたりしたらごめんやでぇ」



旧友との再会みたいに目を細め、申し訳なさそうに頭をかく。


「……あ……はい、すいません。

……実はまだ……その……彼女とは結婚してなくて。

別れた訳やないんですけど……」


俺がそう言い放つと、

主はただでさえドングリみたいな目を一層際立たせた。


「……え……そぅ……なんか?

あ、いや、あれからかれこれ10年近くやし、そのてっきり……。

……まぁ今時の人は婚姻にはとらわれんみたいやからね。人それぞれや。

まぁまたそのうち二人で顔見せてよ。

彼女、えっと……」

「……中園……葵です」

苦笑しながらそう答えた。

主はきっと俺の名前も忘れてるやろう。


「……そ、あおいちゃん!

ほんまにきれいな子やったなぁ。

今もべっぴんやろ?

事情はあるやろが、早めに結婚したってや」



ずっとここによう来んかった。

開いてそうな時間の帰宅となると、わざと違うルートを選んだ。

アオが出て行ってから、俺は彼女の帰りをずっと待ってる。

明日はきっと……そう……うん……。





主と別れ、また家路を辿る。

マンションに着き、キーを回し、

その真っ暗な部屋で、日中我慢していた溜め息が部屋中に溢れ出た。


照明をつけ、カレンダーにバツをつける。

今日はあと五時間で終わり。

飯もそこそこに、学会用の資料に目を通した。

横たわるソファーの上に、春の風が吹いている。


潤太郎がくれたピンクのカーテンは、あまりにも長い月日に色落ちし、太陽の色を沢山染み付けて、まだらに揺れていた。


アオが出て行った事に、みんな触れんようにしているみたいに見えた。

家出したまんまの恋人を10年も待ち続けるなんてクレイジー。


チカとその事についてあれから深く話した事はないが、彼女やったらそう言うやろう。



いずみちゃんとより戻したら?

いつかねーちゃんにそう言われた事があった。



いずみは今だによく、俺の仕事場のナース達に差し入れを持ってきてくれる。

結婚もしてへん。だから。


西田さんを含め、周りはみんないずみが俺の彼女やと誤解している。

あえて否定はせえへん。

説明しだすと必ずアオの存在を言わなければいけないし、彼女の帰りを待ちわびる俺としては、それは過酷な作業やから。


俺の何があかんくてアオが家を出たのか。


資料なんて一切頭に入らずそればっかりを考えていると、ねーちゃんからの電話が鳴る。


携帯を肩の間にはさみ、

わざとらしく紙音をたてた。


『……なに?今学会の準備しとって忙しいねん』

『……あっそ、嘘つきやな』

『……嘘つき?』

不意討ちにカチンとくる。

ここ10年、ねーちゃんは人が変わったように俺に優しく、暴言を吐くことすら無かったから。


……何かが動く音がした。それが怖い。

怖くて俺は捲し立てる。


『嘘つきでええし。忙しいし用ないんやったら切るで 』

『ちょい待ち……!』

『……声でかいねん。

耳痛いやろ、アホか』

『……アホはあんたや。……あんな陸人、やっぱり私、このままやったらあかんと思うねん』

『…………何が……?』



何かが迫り来る怖さを感じながら、

それでもそれは、きっと嘘やと思う。

全ての真実は俺の中にあり、例えねーちゃんでも、それを嘘で上塗りすることはでけへん。


『…………やからあんたよ、陸人』


一呼吸の後、ねーちゃんは言った。

その言い方が荒くれてもいず、

昔飼ってたハムスターが死んだのを告げた時のトーンと同じで、更にカチンとくる。


『……俺……?何が問題なん……?

回り道したけどとりあえずは医者になって、

誰にも文句言わせへん立場になったはずやん。』

『……そう言う事言うてんちゃうって……。

忠告したげるけど、その言い方ってソフトに聞こえてお父さんそっくりやで。

……お父さんは元々あんな人やけど……実はお母さんが自分から離れていくのを一番怖がってた。

お母さんだけやない……。私もあんたも。

自分みたいなほんまはすごくちっぽけな人間から離れて行くんが怖くて、ああやって医者である自分についていれば一生安泰やって言い続けててん。あんな言い方でしか、伝えられへん人やけど……』


『……つか結局何が言いたいん?』


苛立ちが頂点にきて、資料を床に落とす。

正確には軽く叩きつけた。



………………結局…………?





ねーちゃんの声が小さくなる。


でもやがてそれは覚悟したように、

少し強く大きくなった。



『…………結局。

つまりあんたは何に対してそんな虚勢を張らなあかんかって事よ。

………あーちゃんがいてへんようなってから正直気持ち悪い……。

最初はかわいそうやって思ってた。

でもあんた10年も……おかしいって。

あーちゃんと言う存在が無くなって……まるで世の中に自分の存在証明するみたいに医者って仕事をこなしてる。


自分を愛した人間がおらへんよなうなって、わからんようになったんちゃうの……?』

『……そんなことで医者できるかって。

アホ言うなよ……もう……切るで』


そうして電話を切ろうとすると、

初めて聞くねーちゃんの怒声が響いた。



『……もういい加減認めえやっ……!

……あの子死んでるやんっ……そんなブレへん生き方無いやろ』


ゆっくり耳元に携帯を戻し、これ以上無いくらいのため息をつく。


『……ねーちゃんよ、いくらなんでもそんな冗談は

笑えへんし。……アオはいつか』


『……帰って来るわけないやろっ。


あんたはきっとあの時からおかしなってる。

葬式にも出んとすぐ大学戻ったり……あいつが出て行ったとか訳のわからん事言うたり……


ショックを受けすぎてそないなってるんやって……暫くしたら元戻るやろうって……みんなあんたに付き合ってたんやで…?

……けどもう10年……

ようなるどころかあんたは酷くなる一方や。

あんたの生活は幽霊と暮らしてんのと変わらへん……。



やからちゃんと目を覚まして……お願いやし……』


ねーちゃんは苦しそうに泣いて、一方的に電話を切った。



10年。

やから何やねん……

出て行ったまま帰らん恋人を待つんは、

そんなに気色悪いんか……?


肩をすくめ、端がいくつもよれた資料を

拾い上げる。


春の風が吹いている。

桜の花びらが網戸に当たると、ほぼ垂直に真下に落ちた。


その日を境に、ねーちゃんの電話には出えへん事を心に決める。

姉やから嫌いやないけど、今は無理。



4、5、6、7、


季節と言うより俺の季節はカレンダー。

×印が増えたら、季節が変わる。


カルテの日付が代われば、梅雨や夏。






「藤木先生結婚はまだせえへんの?」



交代で盆休みに入る前、勤務を終え、

同じ小児科の先生2人と呑みに行く。

田中先生は3つ年上で既婚者。

そして2歳の子供が1人。


新庄先生は40過ぎで、こっちにはもう中学生の息子がいる。


居酒屋はエアコンなど非力なくらい熱がこもり、

それに拍車をかけるような煮物や揚げ物の匂いが、そこらじゅうを漂っていた。


「……いや、まだまだないですね。一生ないかもです」

笑いながらビールを手酌する。


病院のスタッフ全員が、俺が元女やとは知らない。

カミングアウトする必要もないし、

患者の子供がちょっと多目に出血しているだけで、手先の震えてる研修生を見ていると、

こんなやつらがほんまもんの男とか不公平やと思ったりする。


「そうなん!?あの差し入れようしてくれるいずみちゃんって子は?付き合ってんねんやろ?」


田中先生がここぞとばかりに身を乗りだし、新庄先生も冷酒をグイと飲み干した。


スタッフへの差し入れがハンパないせいで、

いずみは病院の有名人。


「……いずみ?彼女はほんまにただの友達ですよ」


「……ええっ、それはビックリやな。

田中先生も僕もてっきり藤木君はあの子と結婚するんやと」


「……いや、それは絶対にないです」



笑いながら否定すると、

ビールの泡が鼻先で弾けた。







世の中はその翌日から、帰省ラッシュの渋滞中。

テレビの画面にはアホみたいに長い車の帯や、ぎゅうぎゅう詰めの新幹線、

お盆休みに行けるレジャースポット特集など、どのチャンネルを回してもろくなもんはなかった。


休みをとらんかったら良かった。

そうは思うものの、全くとらへんのも変人に思われる。

人より短い2日間の休み。


実家に帰る気力もなく、

1日目は洗濯とか掃除で時間を潰し、

2日目の朝にはすでに手持ち無沙汰になった。


……そう言えば。


ずっとワーゲンのエンジンをかけてへん事を思い出す。車もエアコンも同じで、時々使わんと故障する。


昼過ぎ、携帯と鍵と財布を持ち、

いつものようにアオに書き置きだけを残して部屋を出た。



ワーゲンはやはりちょっと怒ってる風で、エンジンをかけてもすぐはかからへん。


何度か挑戦した後、かかったらかかったで、

一際大きくエンジンをぶうぉんと唸らせた。


この時どこへと思って車を走らせた訳やない。


……けど、アクセルを踏むスニーカーの爪先は、

あれ以来ずっと行く事のなかった、結界だらけのその場所へ向かっていく。


躊躇は速度に謙虚に現れ、

飛ばせば二時間もかからへんくせに、着いた頃には夕暮れやった。


遊泳禁止のそのゾーンは何年経とうが、

悲しいほどあの日と同じ色をしていて、

思い出したくない手のひらの焦げ痕が、

何度もフラッシュバックする。


途中のコンビニで無意識に買ってしまった線香花火を袋ごと鷲掴みにし、砂浜へと続くコンクリートの階段を降りると、黒と赤の対立する水平線だけを真っ直ぐに見つめた。


前に進もうとすれば、砂がまとわりつき、

生きようとしても、何かがまとわりつく。


いっその事、この砂浜の砂も俺の人生も、

でかい掃除機で吸い取ったら、どんなけすっきりするんやろうか……。



砂浜を斜めに横切り、人影1つない砂地を靴底で掘るように進む。



あの日アオの手のひらに落ちた火玉と全く同じ色の夕陽を目の当たりにしてしまうと、アオがこの海にいるような気がした。



……いつまでかくれんぼしてるつもりやねん……。


風に煽られるように俺の体は進み、

気づけば足元の砂色は濃くなる。


浸透していく海水は温かく、俺の腿まで濡らしてしまっても、変わる事ないリズムを打ち続けた。


耳元を幾度となくかすめる海風は、

俺の強さをもぎ取り裸にする。


かき分ける波が穏やかになり、胸元でしどけなく揺れる頃、幻聴のような声が聞こえた。



……せ……んせい……………ふじき……


風の音か……


……西田……さん……まさかな……



おぼろげな意識のままゆっくりと振り返る。

ぼやけた、大半が波の色の俺の視界の中で、砂浜に立つ2つの人影が、大きく両腕を交差させた。


「…………せんせいっ……!


ふーじーきーせんせーっっ……!!」


その透き通るような声が俺の名をいつまでも呼び、海中で握りしめたままだった手を開く。

線香花火の袋を持っていたはずなのに、流された

事すら気づかなかった。


ふと見渡せば真っ黒な海の中に俺はいて、

小さなシルエットが振り回す袋だけを目印に、

重い波に逆らい始めた。








「……ほんまに偶然やったんです。


お盆でも仕事休めんのは今日だけなんで、

せっかくやし颯太連れて隣の海水浴場に来たんです。


……そしたら帰りしな駐車場で、

颯太がこれ藤木先生の車やって騒ぐもので……。

一度見せてもらった事があって、

横手に変わった形の擦り傷があるんで覚えてたみたいです……」




俺の体から滴る海水は、乾いた砂をすに濡らしていく。颯太君の母親は、応急処置程度にしかならない小さなスポーツタオルを俺に渡し、暫く咳き込む姿を心配そうに見守っていた。


ボディの傷は、急患で呼び出された時珍しく電柱で擦ったもので、なぜか星形で、修理する事すらも忘れていた。



「……悪いんですけど、窓越しに中覗かしてもらったら、車のキーもつけっぱなしで、お財布も携帯もシートに置きっぱなしやったから。


……それで何かもやもやとして、暫く先生を颯太と捜しました。

でも先生と言うかまず人が見当たれへんし、ここにおらへんかったら諦めようとした時に颯太がこれを見つけて」


波打ち際に漂うコンビニエンスストアの袋。

ただ1つ入れられただけの線香花火を中から取り出し、顔を上げると波間に蠢く俺の背中が見えたらしかった。



「……藤木先生かどうかはわからへんけど、

とにかく叫んで見なさいって颯太に言いました。

もし先生やなかっても、人の命を救えるかもしれないし、高い子供の声の方が耳に届くと思って」


俺以上に動揺しているような瞳を伏せ、

助けたくせにどこか申し訳なさげな母親が言った。



「……これ……俺のです……。……すいません……」



俺がそう言うと、颯太君がハイと俺に袋を手渡す。所々海水に濡れ、いつの間にか手放した線香花火を。


「……そうですか……。

颯太、これやっぱり先生の忘れもんやってんて」


「……ふうん。でも濡れたらもうでけへんなぁ」


「……大丈夫やで。ほら、ビニールが濡れてるだけで中は何本かは無事。先生の花火も先生も濡れただけで助かったなぁ。」


颯太君の母親は場違いな程朗らかに笑うと、

もう片方の手でバッグからライターを取り出した。


「颯太、このバケツに海から水汲んできて。

深いとこのやなくて、浅いとこの」


「……ええっ、そんなん怖い。

海の色もうこんなに真っ黒やで」


「颯太は男の子やろ。大丈夫。」


颯太君の母親は、尻込みする息子の小さな背中を、慈しむようにそっと押す。


ふてくされながらも息子が赤いバケツを手にすると、その後ろ姿を目で追いながら母親は言った。



「……困るんです」


「…………え…………」


「……やから藤木先生がいなくなると、あの子が困るんです。……自分の仮病をほんまの病気にしてくれるお医者さんは早々いませんから」


「……あ……はい……でも違うんです……。

……相澤さんが勘違いされてると言うか……その……」


ずぶ濡れになってまで否定する俺を、

母親は身じろぎもせずに見ていた。


美容室に行く暇もないのだろう。

とれかけのパーマは肩先で伸びきったバネのようにしどけなく海風に揺れる。


「……勘違い……ですか」


「……はい……。」


「……じゃあ私が先生の行動を間違えて捉えているとして、私の話聞いてもらえます?」


「……あ……はい……」


呟きに似た小ささで俺が応えると、

母親はバッグから煙草の箱を取り出した。


ライターを取り出した時に感じていた違和感が、

その事でより輪郭を増す。


「……タバコ……吸いはるんですか……?」


「……ええ。……似合いませんか?」


「……あ……まぁ……ですね…。どちらかと言うと……」


小柄な体に白い麻のシャツとキャメル色のコットンパンツ。

指先には剥げたマニキュア1つない。


「……自分でもそう思います。似合わへんやろなって。……けどこれが私の行き着いた安定剤みたいになってしまって手放せなくて……。


……死ぬよりはマシやろって。」


「……そんな……思い詰めるような事が」


「……ありましたね。その昔……と言っても颯太が2歳になる頃やから、まだ2年しか経ってないけど」


俺にそう告げた母親の目線は、

バケツで海水汲みと言う簡単な作業すらままならない息子に注がれている。


そんな強い瞳の前では、俺の何もかもが言い訳になりそうな気さえした。



「……その日……、

明日の朝は目玉焼きが食べたいと言っていた主人がいつまでも目を覚まさなかったんです。


……心臓発作で夜中に亡くなった事は後からわかったんですけど、それまでどっこも悪ない健康な人やったんで……。


……普通やったらすぐ救急車呼ぶんやろうけど、

私どこをどう間違えたんか、目玉焼きを焼いてから、朝御飯の用意をして救急車を呼んだんです。


……繋いだ手がびっくりするほど冷たくて……もうこの人は私の名前や颯太の名前を呼ぶことが2度とないんやろうなって咄嗟に思って……それで……。今考えると静かに錯乱していたように思います。」


子供が生むと、母親の愛情は殆んど子供にいってしまう。

でも私は変わってるんか、颯太と同じくらい、

あの人が私の世界の全部やったから、頭が受け入れられなかったんでしょうね。


母親はそこでようやく表情を取り戻し、

煙草に辿り着いた経緯を話した。


「……この海から、なかなか帰られへんようになった日があの頃あったんです……。

まだ今よりもっと小さい颯太を連れて遊ばせようとしただけのつもりが、周囲を見渡したらお父さんのいない家族連れが1つもなくて、ふいに不安に襲われたんです。

この先ずっと……颯太にこんな思いをさせなあかんのやろうかって。

……そしたら夕暮れが過ぎてもこの海から帰る勇気が無くなって……気がついたら……」


そこで一旦言葉を切り、先生の事はあくまで私の勘違いを前提でと母親は言った。


「……颯太を抱いて服のまま海に入ってました。


……その時は隣の海水浴場の方でしたから、

パトロールの人が声をかけてくれて……。

我に返った時にはどうしようもなくて、落とし物を探してましたと誰にでもわかるような嘘をついてごまかしました。


……ほんまはあのまま海に入ったら……あの人と会えると思ってたのに。


……やから……私は……先生の事も」


アホやとは思いません。

でも颯太が困るんですと、もう一度母親は言って黙った。



「……恋人が……」


掠れた声を捻り出す。


颯太君はバケツに海水を満杯入れて、溢れさせてはすくう作業を繰り返す。


遠目に滲む橋のライトが、さ迷う俺の心をいぬくように一際白く反射した。


「……10年も前に亡くなった事を受け入れられなくて……」


そう告げてしまうと、自分の体を覆っていた硬く分厚い鱗がぼろぼろと剥がれ落ちていく感覚に襲われた。


母親は黙って頷き、無事帰還した汗だらけの息子を抱きしめ、穏やかな笑みをそのまま俺に向けた。


「……そうですか……。


……でもね、先生。その人はもうこの世界のどこにもおらへんのです。例え地球を全部裏返しにしたって見つかりませんよ。

……私も海の中で捜して……あの人を……どこにもいませんでしたもん……。」


「……わかって……ます。」


……そんなことは。


「……ねぇ、何の話してるん?」


颯太君が母親の腕を揺らし、もどかしげに訊いた。


「……ごめんごめん、せっかく颯太に水汲んできてもうたから、この線香花火ちゃんと点くか試そう。……いいですか?先生」


「……あ…………ええ……」


答えながら、その火が点くのをどこかで恐れている。


あの日のように……2度と来ないあの日の……。


「……結構風ありますねぇ……。

点くかなぁ。颯太、手で囲いして」


颯太君の小さな手が、ゆらゆらと揺れるライターの火を消さぬようにおぼつかなく、


「……僕が……」


代わりに。見かねてそう口をついて出た。


母親の肩先で揺れる毛先がそれを静かに否定し、


「……大丈夫ですから。颯太、熱くないやんな?しっかり囲ってや」


そんな声とほぼ同時に火薬に火が点く。


「わぁ、点いた!ママ、点いた!」


青白いそれはやがて小さな火花を不規則に散らし、誰かの命のように煌めいた。


「……ちょうど3本無事みたいですから、

1本ずつやりましょう。」


颯太君の持つ花火から火種をわたらせ、1つが終わるとまた2本の線香花火が息を始める。


母親に手渡されたそれは、小さな光を放ち弾け、

ぐぅと云う妙な音と共に自分の中から嗚咽が漏れると、慌てて口を塞いだ。


「……すい……ません……。」

「……いいえ。

颯太、先生今日は凄く悲しい日やねんて。

……そんな時にはどうしてあげるの?」


鱗が更に削がれるように涙で目が潤む。

満杯になれば、当然の如く溢れ出す。

花火を持つしなだれた右手は微かに痺れ、

生乾きの俺の髪に颯太君の手が遠慮がちに着地した。

立場が逆転したように、その手は大きく温かい。


「……よしよし。大丈夫やで。なんもかもうまくいくって、ママがな、いつも言うねん。


……なぁ藤木先生、来週また病院行ってええ?」


「……颯太、あほな事言いな。病院は遊びに行くとこちゃうよ。」


母親の持つ花火の先が火玉に変わり、

小蝿の羽音のような音を出す。


火玉が一際目映さを増すと、ぽとりと砂地に落下した。


「……ええよ……。いつでもお腹痛なったら……おいで。」


掠れた声が俺の喉元から零れ、颯太君の母親が柔らかな笑みを浮かべた。


「……ええねんて。良かったな颯太。

ほんならもう先生は服のまま海に入る事はないわ。……でしょう?藤木先生。」


確認され、自信を無くす。


俺の人生-中園 葵=empty

その式はまだ存在しているから。


ジジッ……ジジッ……


いよいよ俺の火玉が最後の声を上げた。


くるくる回り留まり生き物のように……ぽとりと……



「…………えっ…………。」


瞬きをするその最中、颯太君の母親の手のひらに火玉は落ちる。

止める間もなくギュウと握られ、闇を切り裂くような颯太君の泣き声が響いた。



「……あっ……えっ……私なんで……。」


尻切れトンボの母親の声は、弱々しく暗闇に染み込む。

俺がその手をひらげると、呆然としたまま視線を焦げ痕に移した。


「……ダメじゃないですかっ……こんな……早く手を……」


掴んでいる右手ごとバケツに浸し、しゃくりあげている颯太君の頭を左手でぐいと引き寄せた。


「……ママ、大丈夫やからな。もう泣くな。

こうしてたらすぐ治る。」


「……ほん……まに……?」


「……うん……。俺は医者やぞ颯太。」


アオが俺の世界から消えた日、

感情や感覚の全てがもぎ取られたあの日、

あの日以来初めて感じる自分の心音は、

跳ね上がり落ち着く場所を探した。


「……すいません……。

……先生の火玉見てたら……なんでか手が……。」


理解出来ない言葉の先に、母親は少し怯えたように押し黙った。


「……手が勝手に……という事ですか……?」


「……え……ええ。

この火玉が落ちたら……先生はまたどこかに消えてしまいはるんちゃうかって思ったのは本当なんですけどでも……。」


「……すいません……相澤さん……。」

「……なんで先生が謝りはるんですか……。」


母親は言い、ハッとしたように俺を見た。


「……もしかして……同じような事が……?」

「……ええ。……その時火玉を受け止めたのは……彼女でした。……でもまさか彼女が相澤さんに……とか……そんな事を信じるほど」


「……弱ってはるんですよ。

……私もさっきはああ言いましたけど……、

この世界には科学で証明できへん事の方が多いと思います。……その彼女さんが私にこうして先生の火玉を握らせたんかって、言葉にでけへん想いを届けたかったんかも……。」


「……死ぬな……という事でしょうか……。」


母親が静かな笑みを浮かべ、

バケツの中から濡れた手をそっと取り出す。


「……いいえ、生きろ、と云う事でしょう。」







颯太君は車の後部座席で、母親の腕にもたれ、

微かな鼾をかいている。

俺のボロワーゲンには久方ぶりに人が乗る。

生乾きの衣服は海水のせいで、どれだけあの海から遠ざかろうが潮臭く、何度も母親に向け謝った。



「……こっちこそ電車で帰れたのに、ほんまにすいません……。……先生ずぶ濡れやったのに花火までさせてしまって……。」


ひたすら恐縮する母親が、寝てしまった息子を抱え、混んだ電車に長時間乗るなんて想像するに値しない。



「……いえ……。」


謝ったり、住所を訊いたり、

後部座席の具合はどうだと訊いてしまえば、

話す事が困難になる。

俺の1患者であり、それ以上でも以下でもなかったものに命を救われた。


それは酷い言い方をしてしまえば、

そこいらの漁船に救われた方がマシやったかもしれへん……と言うこと。


「……家の近所やなくてもいいんです。

駅で下ろしてもらえれば、そこからこの子も歩かせますんで。」


3時間程して視界に甦った都内の夜は、

行楽地に吸収されたように人影も少ない。


相澤親子が住むアパートは偶然にも2つ隣の町。


カンカンと鳴る遮断機はどこも似た音だが、

同じものをいつも耳にしている気がした。



「……近くやったんですね。

通り道やし、気にせんとって下さい。」


呟くように言い、ミラー越しに後ろを伺う。

颯太君は起きる気配すら無かった。



「……アパート、この裏ですよね?

一通やないみたいなんで、正面までいきます。」


ハンドルを切り返し、車体すれすれの路地裏をのろりと進む。

母親は会釈を繰り返し、譫言みたいにすいませんと呟いた。


「……ここで……ここで結構です。」


アパート脇にある自動販売機を右手に、

母親がそう声をかける。

ブレーキをゆっくり踏み込み、シートから生乾きの背を起こすと、俺は後ろを振り返った。


「……じゃあ……。いけますか……?颯太君は……。」


命を助けてもらいながら、深く関わりあいたくないと思う。


あの時跳ね上がった心音の落ち着く場を探すつもりもなく、いつもの日常に戻りたいと。


「……はい。もうこのまま抱いていきます。

……今日はほんまにありがとうございました……。それから……。」


母親が一度言葉を切り、躊躇いながら残りを押し出す。


「……お……疲れ様でした。

……藤木先生あの……もし……ですけど、颯太も喜びますし、今度一度ご飯でも……」

 

「……傷の……舐めあいですか……?」


携帯を取り出す仕草をした母親が、

俺の言葉にその手を止めた。


「……え……。」


「……言うたでしょう……?

……俺があそこで……ああしてたんは相澤さんの勘違いやって……。俺はやから……相澤さんとは違うんです。」


なんで突っかかるんやと、海に入る前の俺が言う。

メシの誘いくらい、軽く受け流してしまえと。

ハザードランプの音が心音と一瞬重なり、また心音が先走っていく。


「……そうですよね……違います……。

……ご飯の事は忘れて下さい。

……ただ……そう、これだけは約束してください。

私も今日限りで煙草をやめるんで先生も」




言い終えないその先に、思い直したように母親が携帯を取り出した。

自動販売機から溢れる拙い光だけで、

何かを書き留めると後ろからそっと差し出す。


「……また今日みたいに……あの海に行きたくなったら……その前にメールしてください。

……空メールでも構いませんから……。」


手にしたメモには、走り書きのメールアドレス。

依れた紙の片隅には、勤務先だろう会社のロゴが記されていた。


「……メール……しません。」


俺はそれをくしゃりと手の中で潰し、前だけを見つめる。


母親は俺がそうすることを予測していたかのように、浮かべた笑みを崩さず、サイドミラーの中で颯太君を静かに抱き抱えた。


無言でロックを解除し、そのまま相澤親子がアパートに消え行くのを見送る。

俺は何者か、見い出せないままで。












































































































































































































































































































































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