the end of the loss



時々自分が何者なんか、

わからへんようなってまう。


答えを知りたい。

答えを、知りたい。

でも答えを知ってるあの子は、天国におる。

ロケットで、飛んでみる?




………………陸人…ごめんな……



あの時電話でそう言うたねーちゃんは、何も悪ない。むしろええ奴。

けれどその時の俺は、ねーちゃんにと言うより

どんな奴にでもあたりたかった。


ゴミのようにグシャグシャにして、めっちゃくちゃにして、破壊したい。


やから俺はねーちゃんに言うた。


『…………ごめんですんだら警察はいらんやろ』と。


死神からの電話を受けたその大学の休み時間、

俺はいつものように柏木とふざけていて、ねーちゃんからの着信に、暫く気付いていなかった。


携帯がポケットで熱くなって取る。

……いや、そうやない。


気付いてへんかったんやなくて、そうしてたかった。


心臓のポンプ機能に支障をきたす程恐ろしいこの日は、なるべくそうする事にしていた。



なのに開口一番、ねーちゃんが言う。


陸人、ごめんなって。


嫌と言うほどわかってる。


講義のなんちゃらよりももっと、

己の事よりもっと、気にしている検査結果が今日な事。


『……何がごめんなん……?』


俺は気にも留めないふりをして、わざとらしくそう訊いた。


隣でカレーパンを食ってた柏木が、小学3年生のようにつぶらな目で、俺を見ていた。


『…………あんたには言わんといて欲しいって頼まれたんやけど……でも……』


アオの検査結果を告げた後、ねーちゃんの声は、

時折風に千切れた。


『…………へえ……ひどいなあいつも。

この俺に……言いたくないとか……』




凄いと思った。

なぜかって?

感情がMAXで無くなっていくから。


それはねーちゃんが喋れば喋るほど、益々エンプティに近づいていく。


…あーちゃんがあんたに言いたくないんは……

……あんたの事……やと…………それで……



色々ねーちゃんはくっちゃべったけれど、

俺はそれを全て嘘やと思い込む事にした。

白昼夢でもいい。

どっちでも、と思い込む。


ほんま最低やな、藤木 陸人。

おまえ、サイテー。




ホスピスに入る決断をするまで、

アオの前では知らんふりをして欲しいとねーちゃんは言うた。


女はこれやから嫌いや。すぐ喋る。

自分1人では抱えきれなくて言う。

どっちでもええけど、ほんまに迷惑なんやって。

ねーちゃんよ……。


電話の最後にねーちゃんが陸人ごめんな……って

もう一度言うた時、俺はこの上なく苛つき再びこう言うた。


ごめんですんだらケーサツいらんやろ?と。


そう言うたんはこの俺自身やったけど、その時は人間以下やったと記憶している。


あほやな陸人。ねーちゃんは何も悪ないやんか。


俺の中のそんな理性はどこかへぶっ飛び、

スニーカーの靴底に踏みつけられた。


そのまま俺は姉に対して無礼に電話を切り、2口目でカレーパンを止めている柏木に言うた。


「……おまえ、それ食えへんの?」

「……ん、あぁいや、その……なんかトラブルかなって」


そう言われて笑う。

なんで俺は笑ってるんやろう。

ひょっとしたら悪魔なんかもしれん。


「……別に。なんもないで。

ねーちゃんな、俺が大事にしてたDVD割ったらしい」


「……マジ!?

でもそれぐらいで温厚な藤木が怒るなんて珍しいやん。もしかして……アオちゃんとあんまやってへんとか。あっちの方やぞ、ヒヒヒ。

良かったら来週あるS女との合コン、行く?」


下品に誘う柏木の頭をはたき、


「アホ かっ」と弾けるように放つ。


こいつはアオが病気なのすら知らない。

だからそれはそれでいい。


「痛って……!

ほんまおまえはアオちゃん一筋やねんなぁ。

そら確かにベッピンやけど、たまには違うの食ってもええんちゃう?


俺、浅沼あさぬま女子からおまえを一度呑み会に誘ってくれってしつこーく言われてんねん」


「……ゲッ、浅沼ぁ!?」


柏木に名前を出され、そいつの顔を思い出す。


典型的な理系女子。

暗闇で見たら叫んでしまいそうなほど、髪の毛が長い。


「浅沼だけちゃうでぇ。

俺らの天使ちゃんもおまえにちょい惚れてるらしいわ。

やから俺、親切心で言うといたってん。

あいつ同棲してる彼女おんでって。イヒヒッ!」



天使ちゃん。

こうした大学には珍しいかわいい子。


名前と顔ぐらいは誰でも知ってるいる飯田いいだ さおり。



前に講義のノートを貸して欲しいと頼まれた事が確かある。

……けどほんまどうでもええ話やな。



「俺らから、俺だけ外しといてくれ」

「またまたぁ~、ほんま硬派っすな、藤木 陸人」


カレーパンを完食した柏木が、俺の背中をバシバシしばく。


男として生きようとして、戸籍まで変えた。


柏木だけやなくこの大学の誰も、俺が女やっ たと思うものはない。

そしてこれが望んでいた事やと思う。


なのにポッカリ空洞があるんは、

俺は中園 葵の為だけに男になったと言う事やろう。



大学から帰る前から、俺は今日アオが何を作るんか知っている。


それはきっと……エビフライ。

それは俺の大好物でやから。




散々やるせない気持ちになって、俺はそこでねーちゃんが寝ぼけていた、もしくは何かのドッキリやと思い込む事にした。



でないと大学に居続ける事、柏木と日常会話をする事は不可能で、今にして思えばそれは、

俺の些細な自己防衛法やったんやと思う。


泣くのは簡単で、泣かないのはキツい。

でも俺は決めたから。

アオに会わして欲しいとねーちゃんに泣いて頼んだ日から、もう二度と絶対に泣けへんって。



そして帰り道、ジンクスみたいなもんをもうける。


そうは思ってたけど、アオは実際エビフライを作っていないとか、家に着くまで信号全部青で渡れたら、ねーちゃんの電話はほんま夢、とか。



やから俺はさりげなく、部屋に戻ったらどこかに

潤太郎や今帰国してるチカの痕跡がないか探そう。


チカが今日本におんのもどこか変やし、

クラッカーや、隠した靴や、ドッキリでした~!

と叫ぶみんながどっかに隠れてへんか、とにかく探そうと思った。




でも、や。

信号は恐ろしく赤。もしくは黄色やった。


マンションのエレベーターから降りた瞬間、

俺らの部屋の換気口から漂うエビフライ的な匂いに自然と足が止まった。


佇むと言うのでもない。

ただ暫くそこに茫然と立ち、俺はどんな顔をすればいいのかわからなくなった。


『……あの子、ホスピスなんかほんまは入るつもり

ないんやと思う……。

ずっと……あんたのそばで……』




最後まで、と言いたかったんやろうけど、

言い切らんうちに電話口でねーちゃんは泣いた。



泣いたら負け。


俺は男やから泣かん。


でもどんな顔をすればええんかだけは、

ほんまにわからんかった。


廊下の隅っこで、

携帯のカメラで自画撮りモードにして眺めてみる。


どんな顔も変や。


なので解決策は、出来るだけアオの顔を見ずに

はっちゃけてる、と言う結論に至った。


……でもまだあいつらが隠れてるかもしれへん、

と予測だけは残ってる。



深呼吸を数えきれへんほどして、

それから俺はバカみたいに声をはり、アオと言う最高の彼女がいる部屋に戻った。


他の恋人達の内情は知らんけど、

まだほんまに抱き合ってへん俺とアオの間では、

食べると言う行為がそれに酷似していた。


アオはほんまに料理が上手やったし、

味付けはドストライクで、

それを平らげる俺を、アオが嬉しそうに見てると、それだけで満足した。


出来ることならアオを藤木 葵にしてやりたかった。

子供がおらへん分は、犬でも猫でも魚でも、

アオが飼いたいと言うものを何でも飼ってやりたかった。


ドアを開け、隙間に見えたアオの笑顔が、

俺に絶望感をもたらしていることを、アオは知らない。


家に戻って僅かの間に、

また違うジンクスが勝手に増殖している。



手を洗ってからとりあえずはあいつらを探した。


リビングのソファーの裏を、アオが気づかへんように探す。


カーペットまで捲りそうになった時、

その声は聞こえた。


その時点でジンクスは全て泡となる。



あんたは往生際が悪いと、小さい頃ねーちゃんにトランプで負けそうになるたびごねて、そう言われた。


そして往生際が今でも悪い俺にアオが言った。



「……結婚写真……撮らへん?」と。





あの夜その後どんな会話をしたんか、正直いまだによう思い出されへん。

けど俺は気づけばアオの隣で皿を洗っていて、

その流れる水こそが現実なんやと思った。


『あの子……ようもって半年。本人には思わず嘘言うてんけど、なんで私そんな嘘ついたんか……

つまりそれぐらいあの子……病気みたいやなくて……きれいで……こんなん言うてたら医師免許……取り上げられるな……』


アオがねーちゃんの患者やと知った日の夜、

その言葉で俺は生き方を変えようと思った。

コンビニのバイトをやめ、その分し残した何かを

掴もうとした。


アオの半年にどんな形でも付き添おうと。


嫌がられても、突き放されても。


でもアオが嘘みたいに俺を好きになってくれてからは、欲が増えた。

ほんまはもっともっと一緒におれるんやないかって錯覚まで伴う欲深さは、我ながら恐ろしかった。




その日の夜、アオの隣で目を覚ましてようやく、

我に返った気がする。


自分はエビフライを1本も食べずに、頬張る俺ばかりを見ていたアオの首筋は細く、気づかへんふりをしていたけどそれは、

短期間でそうなったように思えた。




眠れなかった。




子猫を愛でるように夜中じゅう、アオの頬にキスしたり、どことなく枯れたような髪の毛を撫でたりした。



アオはそれでも一度も瞼を開けず、時折苦しそうに体を折り曲げては短く淡い息を吐いた。




何もかも投げ出したい衝動を抑え、俺は俺のするべきことを考えた。



廃人のようになることは泣くことと同じに容易い。



でもアオが俺を最後に選んでくれたんやから、

そんな事をしている暇はないと思った。



それから俺は動く。

自己満足?

何とでも言え。


命があと半年やと知った2年以上も前のあの日、彼女にしてあげたかった事全ての為に、

俺はそこから死に物狂いで這い出した。








『……結婚……写真……?』



次の日ねーちゃんに電話をすると、トーンの無い声がそう訊いた。

着信無視か、運良く取っても

『……仕事中やしあんたバカ……?』


といつもみたいに言われる事もない。


でもそれが現実を更に上塗りし、喉が酷く渇いて、時々気が変になりそうやった。


『…………うん。あいつが……撮りたいねんて』



キャンペーン。

確かそう言っていた。


ショーケースに飾られるんは正直キツいけど……。




もしアオが死んだら、

俺はあの道もこの道もどの道も真っ直ぐに歩けないような気がする。


『……んん……?

それって二人でやろ?

私とか……一緒に撮らへんやんな?』


ねーちゃんは医者と言う職業のくせに、

俺よりも逃げている。


ねーちゃんも友達が少ないし、俺よりもっと現実が見れてないから。


『……いや、撮ってもええって人がおったら

全員に写ってもらいたいねん。

……親父とお袋と、あいつの友達と元カレ……と、

出来たらあいつのおばさんも探して。

……あ……、あとねーちゃんもな』

そう言うとねーちゃんはようやく

『……あんた……バカ……? 』と訊いた。


親父やお袋は無理やし、おばさんも無理やと言いたいんやろう。

そして何より自分が、そんな最後の記念写真に、写りたくないのだ。


拒否る ねーちゃんを何とか説得し、俺がきちんと言いに行くまでに、両親にそれとなく話をして欲しいと頼んだ。

俺には会わなければいけない人がいて、

アオに気づかれへんようにそれをしなければならない。

俺がアオのこれからを知っているとアオが知れば、

アオの命は半年よりもっと短くなる。

……そんな気がして。




昨日アオが眠ってから、アオの携帯にまだ残る、

おばさんの番号をメモした。


見ず知らずの番号からかかってくる電話を取るか取らないか、そんな事はわからない。


でも意外にあっさりとおばさんは出た。

『…………どなた?』


コンビニ前のゴミ箱の横で、そんな声を聞きながら俺は名乗る。


携帯を耳に充てたまま、見上げたら星が、幾つもあった。




おじさんやアオの電話は取らなかったくせに、

見ず知らずの俺の電話は取る。

その理不尽さに閉口しながら、アオの病気は隠したまま、アオの恋人である事だけを告げ、俺は言った。

『……会えますか……?』と。


携帯の向こうのその声は、不信感そのもので暫く応対し、おじさんの葬式で少し見かけた事や、

俺がおじさんの身の周りの世話もしていた事を告げると、なんとか動く気になったようだ。

会って話したい旨を告げると、

『……どこで……会います?』

と、ボソリと尋ねる。

その声はまるで電話だけでいいでしょ?と言ってるみたいに聞こえたが、それは俺の理に反した。


目を見て話さなければ伝わらない事がこの世の中には沢山あって、これもその1つやと思ったから。

住んでいる地域は訊かなかったが、それほど遠く離れてはいない気がした。


『……梅田まで出て来れますか?』

と問う俺に、

『……それやったら今からでも……』と答えたからだ。

こんな面倒な事を別の日に引き延ばしたくなかったのかもしれない。

でもとりあえずは約束をした。

時刻はもうすでに午後7時を過ぎていたが、

8時に梅田の喫茶店で。



会わなければ良かったと、この時の事を振り返り今でも思う。


けれど俺はこの事でなんとなく、アオがなぜあの和室でおばさんと寝なかったのか、理解出来たような気がした。




『……ほんまに……ごめんな』




おばさんと電話を切ったその足ですぐアオにかける。


電車の雑音が届かないような場所で、まだ大学にいると嘘をつき、帰るのがかなり遅くなると

告げる。


アオが作った晩御飯を残しておいて欲しいと言うと、

『お腹すくやん。気にせんと食べておいで』



母親みたいな口調で、アオは浅く笑った。



『……今日なに?』

『……ん、晩御飯……?』

『……うん』

『……春巻き。揚げ物続きでごめんね。何か考えつけへんかって』


淡く微かな記憶。


アオとまだ付き合ってへん頃、あのキッチンで一緒に作った。

『……おお。どんなけ遅なっても絶対食うし。置いといて』



何か1つ思い出すたび、足元がぐらつき倒れそうになる。


何か1つ言葉を交わす度、もっと時間が欲しいと思う。

そしてそんな俺を、アオが気づかなければいいと思った。




その喫茶店には8時少し前に着く。

葬式で一度見ただけのおばさんはまだ居らず、

8時を少し過ぎた頃、出会い系の相手を探すようなどこか卑屈な面持ちで、その人は店に入ってきた。



目が合い、軽く会釈し、奧のテーブル席に

向かい合わせで座ると、おばさんが顔に吹き出す汗を、ハンカチでおさえ続ける。


『…………すいません……。わざわざ……』


俺が言うと、取って付けたような笑顔を見せた。

『……あ……いえ全然。今日は蒸し暑いですねぇ。』


コップの水を一口飲み、おばさんの頬がまた

少し硬直する。


『……ですね。あの……今日はお話が』


最初は今の状況を、この人に全てと話そうと

思っていた。

潤太郎が葬式でああは言ったが、

正直この人は自分の姪が今、どのような状況下であるか知らないのだから。


『……もしかして……ですけど、

あーちゃんが私に戻って来てほしいとか?

それだけはほんまに無理なんで』



全く違う方向から切り込まれて、

この時俺は少し言う気を無くした。


ほんまにこのおばさんがアオを想っているなら、

あの子元気ですか?の一言から始まってもええと

思ったから 。


だが気を取り直さなければ、

俺の任務は遂行されない。


『……そうやなくてですね、

結婚写真撮るのに……参加していただけないかと……』


言いながら本能的におばさんが苦手やと思う。

この世界中で今、この人しかアオと血が繋がってないのに。


『…………結婚写真……!?』


おばさんは露骨に驚き、首に幾つも筋を浮かべた。

『……あなたと……?まだ二人とも学生でしょ……?』


とも指差しで訊く。

俺以外誰がおんねん……

そう思いながらも冷静に努めた。


『……はい。まだ式はしてないんですけど、写真を先に撮ろうかと。

うちの親と……、あと数人が来る予定で』



言うとおばさんは大袈裟に首をふった。


『……無理……そんなん無理です。

どんな顔してあの子のそんな写真に収まればええんか……。お葬式の時もあないやったし……。

いやほんまに……無理です。あの子もきっと嫌がりますし』


おばさんは早く立ち去りたいのか、気忙しく椅子に座り直す。

それでもしつこく頼み込むと、

おばさんはようやく観念したように違う種類の笑みを浮かべた。


『………………違うんです……』


…………はい?


そう言いたかったけど、聞かんとわからん。


『……違うって何がですか……?』


やっぱり苦手やこの人。


俺はアオのおじさんは好きやった。


確かにアオとは他人ではあったけど、あんなんなってたけど、や。


おばさんは囁き声になり、あの子には内緒にしててもらえますかと、念を押しながら俺に言った。



『…………あの子……つまり自分の姪ですよね。

実はそれがずっと苦手で。

嫌いと言うてしまうのんはいくら何でもと思て』


『……………………は……?』


俺は初めてそこでそれを使った。


俺がやられるとムカつく、は?ってやつを。


『……意味分かりませんよね?

でも私は私で、あの子を嫌いになる理由はようけあるんです』


とんでもない事を言っているのに、おばさんはまるで俺を通してアオに、怒ってるみたいやった。


アオから聞いた真逆の話を、

その後俺は延々と聞かされる羽目にあう。



アイスコーヒーのグラスの周りの水滴が、カタツムリみたいにゆっくり動く。


元々、顔立ちの整った妹が嫌いやったとおばさんは言った。

アオにそっくりで、自分だけ商売上手で野心家の男と結婚した妹が大嫌いやったと。


サラリーマンと結婚し、なかなか子供が出来ない姉。

後に結婚したくせに、さっさと子供が出来た妹。


「……そんな事ぐらいでって、あなたみたいな歳の子は思うやろけど…。

人は元々……汚い生き物やから」



自分への言い訳を聞きながら、

俺はストローの先で、アイスコーヒーに浮かぶ

流氷みたいな氷をつついた。




「……言ってしまえば、そう言う土台があった上に、あの子を引き取らなあかんようになってしもて……。

離れてた時はそれこそそつなく接してました。

けどあの子に残された通帳の残高見てたら私らの細々した暮らしって何なんやろて……。


神様は不平等や、そう思いました。

それを使う事も出来たのに、

……死人の悪口言うのもなんやけど、元主人はどこまで人がええんやか、

『あーちゃんのお金には手ぇつけな。

これから先、生きていくんにあの子は沢山のお金がいる』言うて私らの少ない貯金から

あの子の為に何もかも揃えてやったんです……。

やのにあの子は私らに迷惑かけてばーっかりで、

そやのに主人は何も言わへん。

可愛そうなあの子を引き取った叔母として、長年その役に徹してきたけどもうごめんやと思たんが、実のところ家出のきっかけです。

……勿論今の彼との生活を、何もかも捨ててやり直したいと思たんは事実ですけど……」



おばさんはそこまで一息に言うと、悪さをした後の子供みたいに俯き、水かさの増したアイスティーを飲んだ。


その頃にはもう、おばさんにアオの事を話す気はすっかり消え失せた。

写真に写るんなら、この人より背後霊の方がどれだけマシやろう。


アオは最初から、両親を無くすその前から、

おばさんのこう言う気持ちを見抜いていたのかもしれんと思う。

見抜いてなくても無意識に、何かを感じていたんかもと。


人の気持ちは、空気で伝わったりするもんやから。


「……あの……関係ないですけど、あなた薬学部か何か……?」


吐露した気恥ずかしさを隠す為か、おばさんは唐突にそう訊いた。


荷物置きの篭に入れたいつものリュックと、

紙袋からこぼれ落ちそうな白衣。

乱雑に入れすぎて、袖の部分が少しはみ出している。



週末には必ず持って帰ってきてね。洗濯しやんと汚いし。とアオがいつも言う白衣。



「……いえ……一応医学部です」


その言葉におばさんは肩を竦め、卑屈に笑う。


「……医学部。そうですか……。

ほな未来のお医者さんですね。

……あの子はほんま、母親と同じでうまいこと

世の中生きていくんですねぇ……。

こんなハンサムで将来有望な彼をつかむやなんて、やっぱり神様は不平等やわ……。

……あ……でも私がこんな事言うたからってあの子の事、見捨てんといたって下さいね。

ちょっと男癖悪かっただけですから……」


染め忘れられた白髪。

それこそ近所を歩くような格好でここに来て、

下劣な言葉を並べるおばさんと、

隠れるようにひっそりいたあの男の生活の中身は、訊かなくともわかる気がした。


「……アオとは元々、俺が医学部目指す前から

付き合ってたんで、そう言う計算はありませんよ。

それに俺にとって良ければ、周りが彼女をどう思おうが、今まで何があろうが、俺は全く気にしませんから」



黒の上に何色を塗ろうが、それはすぐ黒になる。

やから俺はこのおばさんにもう何も望まない。

おばさんが鯉みたいに何か言おうと口を開けたが、その前に言葉をねじ込んだ。



「……それと、写真の事は忘れて下さい。

俺らをほんまに祝福してくれる人らだけで、撮りたいと思います。

わざわざお呼び立てして申し訳ありませんでした」



おばさんは追突されたような顔をして、不機嫌に口の端を歪める。


家族を捨て、恋に走った女のはずやのに、そこには微塵も女が無かった。


呼び出したので、ここは俺が支払う旨を伝えると、おばさんは乱雑に立ち上がった。



「……俺はここでちょっと課題やってくんで、申し訳ないです」



一緒に店を出ない理由を、ブラジャーのはみ出た肩先に告げた後、ふと思い出す。


アオの為に一つだけ、どうしても訊いておかなければいけない事があった。


「……あの、すいません。

これだけお訊きしてもいいですか?」



おばさんはその声に足を止め、これ以上ないくらい溜め息をつく。

その溜め息を倍返ししてやりたい衝動に刈られ、

それでも訊かずにはいれなかった。


「…………どうぞ……」


「……家のお風呂場のタイルにスイカ、ありましたよね……?」


そう訊くと、遥か昔を思い出すように、

おばさんは視線を泳がせた。


「……スイカ……?

あぁ……そう言えばありましたねぇ。なんやいなげなタイルでしょ?


それが何か……?」


あの取って付けたような、子供用のタイル……。


「……あれは……おばさんが?」

「……まさか。あれをやったんは私がおらへんようになっておかしなって首くくった人ですわ……。

私はそんな変てこなタイル代すら、あの子の為に使うの嫌でしたから。

……もうええですか?

あまり遅いと今の人にも疑われるんで……」



……この人はきっと私を嫌いやろうけどぶ つかってみよう。



小さなアオがそうして、

何らかの愛情を引き出そうとぶつかり続けた春子おばさんは、斬新すぎる理由を述べた。



おばさんが去ってから、全てが間違えてるかどうかはわからないこの人の、確実に間違えている部分に気づいた。


神様は不平等なんではない。

ちゃんと見ているだけなんやって。


それから俺は心を落ち着け、俺の戻るべき場所に戻る。

それは燕が巣に帰るようにどこかこそばく、

長いトンネルの向こうにある小さな光に導かれるように、心地の良い帰還だった。


戻るべき場所には、うっすらと春巻きの匂い。


ソファーでうたた寝をしていたアオが薄く瞼を開けると、いつものそれを俺に訊く。

「………………何時…………?」


壁にある時計か携帯。

それを見ればすぐわかる事をわざわざ訊く。

その行為が好きやと言うたら、バカップル認定やろうか。


「……11時。ごめん遅なって」


ソファーの横で胡座をかき、

少し汗で湿ったアオの髪を撫でた。


「……クーラー入れたらええのに」


髪を撫でる手にアオの冷たい指が絡まり、その口許が少し緩む。


「……ふふ……。

まだクーラーつけるほどやないし、勿体無いやん」

「……でもこんなに汗かいたら風邪ひくで」


俺は言い、軽くキスする。


こみあげてくる何かは遠ざかりはしないけれど。


「……何?」

「……ん……大学に残ってたって言うたのに、大学の匂いせえへんなって。

ほんまはどこ行ってたん?

合コン やろ。白状しなさい」


アオは言いつつ俺の脇をくすぐる。

ふざけあい、泣き、笑い、目と目が合って、

アオを抱きたいと言う素直な想いは、そうなる度いつもそのボックスの蓋を開けたがる。


「くすぐったいなぁ。

大学の匂いってなんやねん、犬か。

ほんまやって、大学におった」


合コンやったらどんなけええか。

おばさんと会っていた記憶を消そうとすると、

語気が自然に強くなる。


「……リク、しょーもない事で怒らへんの。

嘘やって、信じてるし」


俺の肩にもたれようかどうしようかずっと迷っていたアオが、心を決め、俺にそうしてくれていると言う毎日は、不幸やと思たらそれで負けになる。

やから俺は決して演技ではなく、アオのこの先がずっとずっとある、と思いたい。

思いたいが悔いは残したくない。

やから余程の事がない限り毎日、アオの隣で笑っていようと思う。


午前零時に差し掛かるような晩飯を食べ、

並んで食器を洗いながら、俺はアオにそれとなく

言った。


「……俺のんやないからこんなん言うのあれやけど、ほら……アオの貯金。

お父さん達がアオに残してくれた」


「……あぁ……うん」


家賃は暫く私が全部出すね。


完全に二人で暮らし始めた頃、アオはそう言った。


俺がケジメと称し、予備校代や医大の学費を親に借りる形にして、以前やってたバイト代の貯金から、毎月返済している事を知っていたから。


今は大学の合間、日程さえ合えば単発で引っ越しセンターのバイトがある。

なので絶対やないけど、入った時は必ず、

全額アオに渡していた。



二人で生きていくと言うのは、そう言う事やと思ったから。


「……それな……。どんなけかは知らんし、知るつもりもないけど、アオがとりあえずはいるやろうって言う分だけ残して、後は寄付とかしてみえへんかなって」


そう言うとスポンジを持つか細い手が止まった。


「……寄付……?」

「……うん……。と言うより、そう言うお金に頼らず、俺があなたを食わしていきたい訳ですよ」


真面目に言うたのにアオは吹き出した。


「……そんなんリクがお医者さんなれんのなんて

まだまだ先やん。

前にテレビでやってたけど、

研修医になってもお給料あって無いようなもんみたいやし、何かの時の為に置いておいた方がいいって」

残像みたいな笑いを繰り返し、アオの手は皿を泡で埋めていく。


アオは俺に多分、通帳の残り全部を残そうとしている。

そんな気がした。


そしてそんな事はまるで無意味で、

あのおばさんの心を腐らせたその金を、

出来る事なら全部きれいに無くしてほしかった。



「……でも、やん。

言うとくけど俺、大学でも超優秀やし、

インターンなんのきっと他の奴より早いで」

「……ってね、

そんなんあるわけないでしょ!?

……ん……でも……ちょっとなら寄付してええかも。考えとく」



アオはなかなか譲らなかった。

俺がそうして欲しい理由は、おばさんの事以外はほんまにさっき言うた通りやった。


贅沢出来んでも、アオ1人ぐらいやったら食わせていける。

そう言う自分に、そう言う男になりたかったし。

それと、その先のそう言う生活に、アオが存在するビジョンを作りたかったから。


「……考えとく……か。まぁええか。

アオのであって、俺の金ではないしな」


「リクは可愛いなぁ。


こう……なんて言うんかな。

奥さんのへそくりについて抗議する旦那様のようで」


「……アホか、そんなんと一緒にすんな。……でも……」

「……でも……?」


アオの澄んだ瞳が覗きこむ。


その透明さに少し戸惑い、そして呟いた。


「……いつか……結婚してくださいよ」



こんなけ生きてきて、今更気づく事がある。

俺は死ぬほど緊張すると敬語になる。

つまらん癖やけど。



軽く笑い飛ばして欲しかったのに、アオは真顔になり、泡だらけの指のまま俺に抱きついた。



きっと泣いてるんやと思う。

プロポーズ初めてされたと伝える声が、

どことなくくぐもってたから。


でも肝心なその顔が見えんほど全力で抱きしめられて、笑うつもりが泣きそうになって、やっぱり泣くんはやめよう思う。


泣いたら負け。そう思う。

やから俺は笑顔を作って、その細い体を、壊さへんように受け止めていた。


その頃の俺には、とりあえず3つのミッションがあり、1つ目のミッションは、宝箱やと思て開けたらゴミ箱やったと言うトリッキーなやつで、梅田の喫茶店でゴミ箱に捨てたおばさんの記憶。


2つ目のミッションは、ねーちゃんが話を一応はしたけどと、言葉を濁した実家。


藤木の表札の上にジャングルグリーンのアマガエル。

夕暮れの中、こぼれ落ちそうな目玉でこっちを見つめていて、

インターホンを鳴らすと驚きどこかへ消えた。


かしましいお袋とは逆に親父はずっと仏頂面。


『……ママゴトやろ』

『……芝居がかっとる』

『……行くか行かへんかはその日の朝決める』



終始背中だけの父親にそう言われ、

そこまで親父の心を引き上げてくれたねーちゃんが、こっちを見て曖昧に微笑む。


一撃で人を批判する親父をここまでにするには、

ねーちゃんの苦労は並大抵やなかったはずや。


懸命に引き留めるお袋に夕飯を断り、

玄関から出ると、ねーちゃんも出てきた。


「……どない…?」


家の前に停めていた相棒のワーゲンに俺が乗り込むと、勧めてもいないのに助手席に座る。

「……どないって誰が?」

「……あーちゃんと……あんた」

「……別に今まで通りやで。毎日ラブラブですわ」

「……そう。……あーちゃんは、ほんまにこのまま……」


そう言った続きをねーちゃんは言わない。

ホスピスと言う選択肢。


「……そう……思う。てか俺がそうしたい。

あんなとこ……墓場前の控え室と一緒やんか……。

そんなとこにあいつ……俺が……嫌やし。


病院でもそうや。訳のわからん管いっぱいつけられて、病院の実験材料みたいにして終わるんやろ……?

無理や……無理やって……ねーちゃん……」


言い終えると下唇をグッと噛む。これは今のところ俺の悲しみを乗り越える唯一の方法。


さっきのアマガエルかどこのアマガエルか知らんカエルの鳴き声が聞こえて、我に返ったねーちゃんは言った。


「…………最後の最後までなんにもせえへんのは無理やと思うで。

……耐えられへんような痛みがきて、

あんたの事もわからんようなる位酷くなる。

二人のためにも最後は……そう言う施設に入って穏やかに」

「……ねーちゃんがあいつの痛み知ってんの……?

癌になったこともないくせに、偉そうに言うなや」


どうしようもなく苛ついて、エンジンを派手にかける。

ねーちゃんにあたってもしゃーない。

けれど今はどこにでもあたりたい。


「……知らんよ。

でもあんたかってそんな痛み知らんやん。

偉そうに言いなや」



言った放った後、

ねーちゃんは大きな溜め息をついた。


「……喧嘩やめとこ、キリないし。

……でもな陸人。あんたまでおかしなったらあかんねん。

もし変になりそうやったらちゃんと相談して」


ねーちゃんはそう言うと車から降りた。


怒りを表すような音でドアが閉まると、

ねーちゃんはアホやなってマジで思う。

おかしくなったらってもう、

俺はずっと前から、おかしくなっているのに。




こうした2つ目のミッション後は、1度底のようなものに沈み、息をする為だけに顔を出す。



「……なぁ柏木、今日帰りちょっとええ?」


昼休みそう訊くと、柏木は小首を傾げた。


って全然かわいくないけど。


「……つか今もかなり時間ありますぜ。なぜに帰り?」

「……それは……あれやん。今の時間帯に話すことではないから」


言い方が引っ掛かったんか、柏木はわざとらしい

上目使いになる。


詳しく言えば、こんな混雑する学食で話すような事やないって事やねんけど。


「……ふんふん、なるほどなぁ。

やっぱあれか。、おまえらはその今流行っている」


通常時はフルボイスの柏木が、

妙に静かな声になり、真面目腐った腕組みをする。


「……その……所謂セックスレとか言うやつなんだろう……?」


荒地のような太い眉毛をピクリとあげ、

申し訳なさげに吐き出した柏木。

その光景に思わず吹き出す。


そしてこいつは俺にとって、アオの次に重要やなとも思う。


今俺はとても笑える状況やない。

のに自然に笑えた。

大事な友達。

入学式の時の勘が間違えてないとしたら、やけど。


「……お前の口からセックスレスとか出るとなんか笑ける」


「あほっ、おまえでかい声で言うなっ。

俺らの天使ちゃんが見てるやんけ」


柏木の言葉に視線をずらすと、右3つ隣のテーブルにいた天使ちゃんが、恥ずかしげに会釈をした。


「……はいはい。

で、俺らやなくおまえのな。

とにかくそうやない、もっと……」

「……もっと……?」


怪訝な顔の柏木に、どう伝えようかと躊躇する。

今更誤魔化せそうもないし、

俺はこいつに、写真に一緒に写って欲しいから。


「……いや……ちゃうな。これ不味いわ。

アオの作ったはもっと……旨いし」



春巻き定食の冷めた春巻きを、やおら口に放り込む。ここまでくれば、

柏木に話したい事は春巻の事では無いと、普通の人間ならわかる。例えそれが柏木であっても。


「…………はっきり言えや。どないしてん?

その料理上手な葵ちゃんに別れて欲しいとか言われたんか?」



例え奴にでも、全てを言う必要はないやろう。

特にアオの病気に関しては、俺の事ではないから、勝手にくっちゃべってはいけない。


けれどそんな物々しい写真を撮る経緯について、

俺の事は必要不可欠になる。


つまりなんでそれやったらほんまに結婚してしまえへんのかと。

そして俺が今から暴露する事が一番手っ取り早く、そしてその行為はまた、柏木と言う人間を分解するに近いかもしれない。


「……いやそうではなくて……」

「なんやねん、俺せっかちなん知ってるやろ?

早よ言えや」


そう。

いつどこで言っても一緒やと思う。


決意して口を開こうとすると、いきなり柏木が俺の腕をつ かみ、学食の外へと連れ出した。




購買部とトイレの間にある微妙な隙間スペース。


その死角のような場所へ俺を引き摺るように連れて行くと、初めての眼差しを俺に向けた。


「……それがほんまやったら……えらいこっちゃで。おまえはそやからって逃げるような奴ちゃうよな!?

……相手が妊娠したからって逃げる奴は卑怯や。

おまえはこの医大生LIFEを投げ捨てても、葵ちゃんに尽くさなあかんやろうがっ」


……一体何を言い出すかと思ったら……


けどこの奇妙な勘違いがあったからこそ、

奴には比較的自然に言うことが出来た。


「……な訳ないやろ?」


俺の言葉の意味は、二通りにとれる。

柏木の妄想を打ち消すのと、

それからそんな事はありえへんって意味。


「……ほんまに?ほんまにそうと違うんか?

おまえは俺に隠し事すんなよ。

このヘンコの集まりの中で、

更に浮いている俺とおまえの仲やからな」


柏木の眉毛は太い。でも真っ直ぐで曲がらない。

中身も同じ。


「……おまえと一緒にされんのはたまらんけど、

でもまぁ、確かに浮いてる感は認めるわ」


こいつと仲良くなったんは、入学仕立ての医学概論の時間。


教鞭をとっている教授がある箇所を間違えている、と言うのに途中から皆気付いていた。

俺もそれをどうしたもんかと考えあぐねていると、柏木がほぼ垂直にピンと手を上げた。

怪訝な顔の教授と、柏木の的確なつっこみ。


医学部と言うのは特殊で、

他大学のように大人数で受ける講義はない。

少人数生のグループ。

しいていうなら、その先6年は確実に顔を付き合わせる教授や学生。

特に教授を敵にまわせば

受験勉強よりもハードな定期試験に支障がでる。


それでも柏木は間違いを指摘した。


無論教授は間違いを認めなかったし、

柏木に続いて指摘した俺にも、同じような厭らしい目付きで対応した。


名前を意味なく呼ばれ、

『……柏木君と藤木君…やな』


とどこかに走り書きするような真似までされ、そこで柏木と目が合い、静かに苦笑した。



『親に大迷惑かけて高っかい学費6年も払てもらう訳やん?

やからつまらん間違いでも、俺らにとったら大きい』


授業が終わり、それからなんとなく、ろくに喋った事もないこいつと、あの日もここに来た。

柏木がそう言った時からずっと、俺は人間としてこいつを信用している。



「……やろ?

同じ浮いてるもん同士隠し事は無しや。

……で、何なん?」



柏木がレンズの奥の瞼を雑にこすり、

誰かの買った自販機のジュースがゴトンと物々しく落下した。


「…………えっと……つまりな。俺が……」

「……俺が……?」


まさか俺が自分の事を語り出すとは思わなかった柏木が、裏返りそうな声を上げる。


「……うん。つまり俺は元々は……女やったって……こと……」


蓄積された苦く辛い思いは、たったその一言に凝縮される。


言わなくてもいいこと。

でも恥じなくてもいいこと。


柏木があんぐりと口をバカっぽく開け、やがて笑い出す。

笑い袋のごとく暫しそれに没頭すると、

今度は憮然とした表情で俺を見た。


「……女……!?

俺とさほど背丈が変わ らへん、このどっから見ても女の要素がないおまえが?

あー待て待て、それともあれか、勉強のし過ぎで頭いかれたか?」


やんな、やっぱ嘘。


告白すら信じきれない柏木に、そう流す事も頭を過る。


けどもうそれはでけへん。

ほんまはもっと速く走れんのに、50メートル走を15秒で走ってるような人生は、あかんねん。


「…………って……まさか…………ほっ……ほんまに……!?」


いつまでも無言を貫く俺に、ようやく柏木は動揺し始めた。


大袈裟によろけ、街中で熊に出会ったような顔になると、奴は頭を冷やすと言い、その場からどこかへ立ち去った。



仕方なく1人学食に戻ると、

空いたままの柏木の席では、

天津飯のカニかまが、皿の端で干からびていた。


俺はその不味い春巻きを、噛み締めるように胃の中に流しこみ、3つ目のミッションを無理矢理にでも決行した自分を、やはり少しだけ悔いていた。





熊に出会った柏木はその後どうしたか、

それを知る術はなく、混沌とした時間が過ぎ、

柏木は俺の前に戻ってきた。


「…………何しててん」

さほど興味もないように俺が訊くと、

荒い呼吸を体全体で表しながら、

「……ダッシュ……15本……」と答える。

「…………そか。……で……結論は?」

「……結論?」

「……うん……。別にそれは柏木が悪いとかやないし、離れてくれて全然かまへんしな」



信用ってのは、一方的なもんやと思う。

でもそれがわかっていれば、ノーと言われても痛手は少ない。


「……藤木おまえ……」


見ると柏木の目が潤んでいる。


「……そんな友達しかおらんかったんか……?

そんなんアホじゃハゲっ!

……なるほどな……。これでカラクリが解けたわ。

俺が何回誘ってもおまえが銭湯行かへん理由が」


柏木は俺などおかまいなしで先を行く。


そして行き着く先はやはりスーパー銭湯。


「……俺の心臓を止めかけた罰として、

とりあえず今日のスーパー銭湯で手打ちにしといたらぁ」


とあくまで上からで。







その日の夜、その話をすると、アオは布団の中でいつまでも笑った。


シャンプーの匂いに混じるアオ発の表現しにくい匂い。


ほんまは嫌な匂いなんかもしれんけど、

俺はアオの病気の匂いまで愛してしまったんやろな。


そしてよく咳き込む。

俺から分かるアオの変化。

それとなく誘導しても、アオの口からあの検査結果の話は少しも出てけえへん。


「……で、ほんまに連れてかれたんや。柏木君に。

スーパー銭湯」


腕枕の中のアオの瞳は、小さな頃見た夜の湖面と似ている。


「……うん。しゃーなかった……。

でもなんかそれでふっきれた」



手術をしてからずっと、と言うよりアオが見たことない俺の裸の姿。


腰にタオルを巻き付けてたのに、柏木にあっさり取られてしまった。


『なにしょーもない事気にしてんねんっ。

……ハハッ、俺のと一緒やんけ。機能は知らんで。

見かけはな』


お下劣な事を平気で言い、柏木はずんずん露天の方に進む。


温泉地でもない、やのに夜空だけを見ていれば

そう言う気分にさせてくれるこのチープな場所を、柏木はこよなく愛していると言った。


泣きたい時はここに来て、

こうして長時間ボケーっとしているのだと。



そこであいつと肩先を並べ、全裸 でただ夜空を見上げていたことをアオに話すと、アオはいいなぁと小さく言った。


「……私もいつか温泉にリクと行きたいなぁ。

ずっこいわ、柏木くん。

私かってリクの裸見たことないのに」


そうして俺の腕に鼻先を押し付ける。

その行為が命の短い小動物を思い出させ、

悲しくなった。




そしてそう言うアオがまだ、俺の全てを見てしまう事にどこか抵抗があるんを、俺は知っている。


俺かってそうや。

アオに見られるんは、柏木に見られるんよりずっと怖い。


失望されへんかとか、ここにきてまだ愛を、こんなちっぽけな事で見失いそうになる。


「……いつかその……しよな……アオ。

……えっと……つまり……エッチ」


ボソリと呟くと、気恥ずかしさが増す。

「…………うん……いつか……」

蛍の光と似た光度で光るアオの髪と、こんなんやのに、どっからか大量に溢れ出す幸福感。

アオといる限り、それはどうやっても拭えんくて、それはなんでなんかな、と不思議に思う。


絶望の橋を渡りながら、その下にはオレンジ色をした眩しい幸福感しかないやなんて。


後ろについてくるはずのアオをある日突然失ったら、その幸福感は一瞬で色をなくす。

わかってるから、今つかむ。

知ってるから、最後まで……つかむ。







写真撮影の日は、ほどよく晴れていて、

商店街のアーケードの店々は、その太陽光のせいで、ノスタルジックな雰囲気と共に。


慌ただしくする事は、悲しみや苦しみを

緩和させる最大の防御法やと俺は思う。


立ち止まったらあかんぞ。

時間がそう背中をせっついて、俺はタキシードを生まれて初めて着た。


アオは早朝から美容室のおばちゃんに頭を弄られていて、鏡越しにアオと目と合いそうになる度俺は、店の昭和な分厚い婦人誌を捲り照れ隠しをした。


アオと病室で再会した日に見た桜のように、

彼女は今、チカや潤太郎やその家族に縁取られ、

その儚く淡い発色を増す。


それは俺の心臓を早く打たせ、混乱へと導く。

混乱しきったら、雑誌の京都特集に目を通す。


少し落ち着く。


俺は気持ちが地上に墜落してしまうのを恐れている。


アオのいない毎日がいつか来る事を、この日もずっと恐れていた。





写真撮影から帰った夜。

体は疲れきり、鉛のように重く、

やからなのか、いつまでも俺達はハイになり、逆にうまく眠れなかった。


あそこにいたサプライズメンバー全てを称して、楽しかったとアオは告げた。


ありがとうではなく、楽しかったと。


「……そうか。なら良かった。

アオが怒るんちゃうかってほんまは心配してた」



俺の日々が忙しいせいで、アオの目をちゃんと見れるのが、飯食ってる時と、こうして布団に潜る時だけになっている。

医学部は想像よりも過酷で、今にして思えば、

受験生の時はなんて楽やったんやろうと思う。


「……私が……?……何でよ。びっくりはしたけど、

リクのお父さんがいてて、お母さんいてて……

先生いてて……潤君にチカに……柏木君に……」



暗闇でアオの白く細い指が子供みたいにその数を数える。



おばちゃんと言う言葉は出なくて、どこかほっとしたような、それでいて罪悪感が募る。


「……潤君だけやね、

あの中でリクのほんまの事知らんの」


小さな秘密を共有するようにアオが密かに笑う。


「 ……うん……。敢えてあいつに今更言うこともないなやろ」


アオと俺は互いの元に辿り着くまで、

チカや潤太郎と模索し、絡んで解れ、色々ありすぎた。

それぞれの痛みはまだ想い出に変わってへん部分もある。

あるけどでも、またどこかで繋がろうとする何かはある。







「…………リク……大好き」


ふいにアオがそう言いい、

エアコンに負けじと汗の滲む俺の首にしがみついてきた。


不意討ちをくらい、心臓がポンプのように収縮する。


何の汚れもない、彼女の口から溢れる宝石みたいな言葉。


その体やその心の半分が、もう雲の上にあるようで、アオの体を抱きしめ返した。


「……どう……すればいい……?」



アオの少し怯えた声が、湿ったキスの隙間に浮かぶ。


「…………じっと……してて。アオはただじいっと……」


絡めた指が折れそうで怖い。

失望されるかもしれない自分が怖い。

それぐらいアオが好きでどうしようもなく、

涙腺がやたら緩みそうになる。





「…………じっと…………?」

「…………うん……」



俺は、自らを刻むように、アオの薄い皮膚の上にその唇を押し付け続け、いずみと初めてそうなった日の事をぼんやりと思い出した。


『……誰かの……練習台……?それとも私しかほんまの陸人を愛してくれへんのん……?』


俺がどこか遠くを見ていると言うだけの理由で、いずみは確かそう訊いた。

口角は上がり、でもどこか悲しそうに。

俺にそうされながら、卑屈さを隠さずに。


『……でも好きよ。』

いずみは言った。

中途半端な存在やと知っても、たいして驚きもせず、自分を受け入れてくれた存在を、愛ではなく何かにすがるようにそうした。


頭が真っ白になりつつあって、

訳のわからないその全てが終わった時、いずみは言った。


……すごく良かった。今までのボーイフレンドの誰より。




その言葉は何者でもない自分の中で自信になり、

金バッジを一個もらった気すらした。






「…………わから……へん。リクごめん……どうしたらいいか」


気づくとアオが取り残されたようにそこにいて、

俺は一度動きを止めた。


多数の男と肌を重ねてきたアオでも、謂わば作り物のような体の俺とそうなる事は、宇宙人となるのに等しいんかもしれん。


「………大丈夫やから。俺がおるやろ……?」


短い秒数で頭をフル回転させ、納得させたいのに、そんな言葉。

何の説得力もなくて、答えにもなってへん。

「…………うん……」



やのにアオは妙に納得したみたいに、自然抵抗の力を抜いた。



白い指先があの時の、

思ったより深かった俺の傷に触れる。


それが合図でそこから始まる。




愛する人を抱くと言う形は、この世界には何百通りにもあるはずで、心が満タンになればそれでええと思う。


俺はアオの心を満たしてやることができるんか。


自信がないから今までそうでけへんかった。

でもこの夜だけは満たして欲しいと思った。

アオを満たして俺も満たされる。

あんなにひどい仕打ちをした幼いあの日のアオがそれでも好きで、ずーっと好きで、どうしよう

もなかった自分のほんまの愛は、やっぱり張本人のアオにしかやられへん。





俺の体改造を担当した医者は、例え全てを作り変えたとしても、そう言う快感は得られへん的な

事を事前に説明した。


……でもや。

ねーちゃんが言うたように、医学なんて所詮絵空事のような部分がある。

当事者になって生きてみいへんとわからんこともある。

アオを抱いた時、俺の脳内は確実にそう言うものに満たされていて、どうしようもないくらいハイで、少しするとそれがクリアになり全く違う世界が見えた。


人を愛して抱く意味がわかる。

これはあの医者にもきっとわからへん。

……ざまあみろで、やからアオは、きっとこれならも俺のそばで生きている計算になる。


やからアオがそんなしょーもない嘘をついているんが嫌やった。

出来れば今、アオの口から言うて欲しい。

言うてくれたら否定も肯定もしてやれる。

けど言わへんかったら、俺はおどけてるしかないやんか。





1つになれた夜の最後、俺はつまらん賭けをした。


おばちゃんに連絡した事を言おう。

つまりはそこまでするような事を俺は知ってるし、アオは隠してるんやろって半分の脅し。



それでアオが素直に言うたら、これから彼女がほんまはどうしたいんかちゃんと訊ける。


おばちゃんの事をさりげなく言い、電話は取ってくれなかったとそこは嘘をつく。

気を抜いたら叫んでしまいそうなやりとりの中で、それでもアオが俺に何かを伝える事はなかった。


記念写真やもんね……電話してくれたんや……でも無理やよね……



おばちゃんについてアオが解説する時間が無駄に流れ、最後にもう一度詫びると、俺の脇の下に潜り込んだ。


この頃の俺は、心を平静に保つ事に疲れきっていた。


俺に笑っててほしい。俺を残していくのが……。


ねーちゃんに説明されたその気持ちも、どこか湾曲して捉えるほどに。



いつしかそれが信用されていない、

最後まで1人で生きようとしているに変わった頃、アオは俺の前から忽然と姿を消した。


置き手紙もなくメールもない 。

カーテンの外に黒クレヨンで塗りつぶしたような夜が広がるだけの。





その日、大学から戻るとアオはもうどこにもいなかった。


1つになった夜も朝も、何一つアオに変わりはなかった。


柏木君とたまにはご飯食べてきたら?


そんなメールも、1つになった事でどこか舞い上がり、最強になれた気がしてた俺は、【たまにはそうするわ。ごめんな】と返してしまった。


やから夜、その真っ暗な部屋で靴さえ脱がず、

キッチンの床に丸まりながら、何度もアオの携帯にかけていた俺は、時空を越えた奴みたいに精神がバランスを失い、そしてその着信バイブが、この部屋のテーブルの上から聞こえているのを知ると酷く混乱した。




チカが雑なタイミングで俺の携帯に電話してきて、


『……あほいの奴、メール全然返してけえへんねんけど、クレーム言うといてくれる?』


とほざく。


『……もしもし、リクの携帯やんなこれ。

ヘロゥ?聞こえてますかー!?』




チカは俺の家族以外で唯一、俺とアオに起きていること全てを知っている人間だ。


あの日唐突にもらった電話で、チカは泣きながらアオをにされた話を俺に告げた。


……知ってるよ……


冷静を装い答えると、不甲斐ない奴やと思ったのか、チカはこれでもかと俺を責めた。


責めまくった後ようやく泣き止んで、


ごめん。一番キツいのリクやのになと俺にいつになく素直に謝る。


あんな風に泣けたら良いなと思った。

チカのように素直に泣けたら…。



……いてへん。とにかくあいつが……いてへん……。



泣き言に似た呟きに、

チカは悲鳴に近い声を上げた。


……警察には届けたん……?


チカの半錯乱を聞きながら、思考が次第にモノトーンになる。


……よう考えたら……そこしかないやん。

でもこんなやり方は汚い。猫が最後は姿を見せへんようになるんと、さして違いはない。


『…………居場所わかった。……ごめんチカ切るわ』


遮断するように電話を切り、まんまねーちゃんにかける。

わざとらしく3コールぐらいで取ったその声は、

『……何……?』と、寝ぼけたように吐き捨てた。

『…………知ってんやろ……?どこ……?』

『……は?あんたこんな夜中にかけてきていきなり何……?』

はぐらかされれば、怒りは増す。

『……アホかシバクぞ…。

ほんまの事さっさと言えや』


『…… とても医学を志す人の発言とは思われへんね。……あぁもううるさいなぁ。知ってるよ、居場所ぐらいは』


観念したねーちゃんは、

阿倍野区内にあるホスピスの住所を淡々と告げた。

ある日連絡があり、そろそろホスピスに入りたいと言われた事も。

何もかもが、湾曲している。


俺の思考も、アオの思考も、

やっと1つになれたのに、いや、なれたからこそ、余計に代償を背負ってしまった気がした。


終始冷静に努めた俺は破壊され、

アオは野良猫のようにひっそり姿を隠す。


今会ったらきっと殺してしまう。

それぐらい俺は中園 葵を、自分の世界の軸にしてしまっていた。


やから俺はそこから2ヶ月もの間、中園 葵を世界から消した。


うだり続ける梅雨が終わると平気な顔した夏が来る。

未完成なロボットみたいに大学に通い、

アオの話をすっぱりしなくなった俺を、

柏木は時折穴の開くほど見つめたりして。


……ひょっとして……やけど別れたんか……?

…………いや……別れてません……。


英会話DVDのような俺に、

柏木はきっと聞きたい事が山程あったはずや。

アオの病気のことを今更言うつもりもなく、

……つかええの?と戸惑う柏木を尻目に、

自らどこそこ女子大との合コンにも出向いたりした。

何もかも支離滅裂で、色すら無い日常で、

体にかく汗の量だけが増えていく。


アオのいない世界は元通りの生活やと言うのに、

気を抜けば落とし穴に転落しそうな手前で、

気を張り生きている。




7月の終わり、

とうとうチカと潤太郎に呼び出された。


チカはあれからイギリスには帰っていない。

潤太郎はチカ経由で、俺の事を知識として知っている。


Mバーガーの、夜でも昼間みたいな店で、

2人は夫婦みたいに並んで俺と向かい合った。


「…………で……用って……?」


警察の取調室を受けたことはない。

けど恐らくこんな感じやと思う。

「……用?ありありやん。

まさかのまさかであんた場外行くつもり!?

あんな写真まで撮っといて、

あの子がホスピス入ったらハイサヨナラかいや。

見損なったわ……」



ずっとこいつら二人の電話を無視してきた。

あのマンションにも戻らなかった。

交互にあるこいつらの着歴にいい加減うんざりして、重い腰をなんとか上げた。 


色の無いチカの唇が怒りで歪んでいる。


潤太郎がそんなチカの肩をさすると、戸惑いながら俺を見た。


会う約束をした電話で、

こいつに俺のプライバシーを全てぶっちゃけたと、チカはほざいた。

やからほんの短期間で、潤太郎の脳内は相当なダメージを受けている。


彼女を女に強奪されたダメージ。


受けているけど今ここは、俺がアオを捨てて逃げたと云う話の方が中心や。


「……あの先生は……リクさんのお姉さんはこの状況をなんて……?」

「…………さあ……。ずっと連絡取ってないし」

答えるとチカが蔑んだ瞳で俺を睨む。

でもこれは嘘ではない。

ねーちゃんはあれきり全く連絡をよこさなかった。


「……な訳ないやろ?やとしたら鬼やで鬼。

あんたもあんたのねーちゃんもおかしいって」


チカは戦闘態勢をいつまでも崩さへん。

口は悪いけど、一度味方についたら墓場まで、が、このチカって奴やと思う。


アオが手に入れたもんは俺だけやない。

この子もや。そう感じた。


「……ちょっとチカは黙っててや。でないと先に進まんやろ?


……えっと……リクさん、俺ほんまに不思議でしゃーないねんけど、写真館のリクさんと、

今のリクさん全然違うし。

あのマンションにも帰ってなくて……今どこにおるんですか?」


チカはその隣で俺に何か言おうとして止め、

唇を噛みつつ答えを待った。


「…………女と…暮らしてる……」


ねーちゃんの事はほんまで、これも嘘ではない。


2人は俺の言葉で何かの魔法のように固まり、

そしてまた動き出した。


「…………おんな?はぁ……?


あんた自分の言うてる事わかってるん?」

「……こんなとこまで呼び出されて、わざわざ嘘言う訳ないやろ……。もうええかな?時間あんまないし」


俺は吐き捨て立ち上がる。

ソファーのへこみだけが俺を見ていた。


「……ん……あっ、……えっと……はい」


催眠術からとけたように潤太郎が言い、

俺の背中にチカが投げつける。


「……あの子、きれいなホスピスでずっと笑ってやる……。

まるであんたなんか元々存在してへんかったみたいにずっとや。

やからあんたも気にせんと、

自分の道を生きて行けばいい」


ミニスカートの裾を握りしめたチカの手は、

鬱血してまだらで醜い。


「…………そうか……。

じゃあまた……おまえらとも…いつかな……」



なんで俺は素直になられへんのやろう。


ノーアウト満塁で、次の打者にホームランを打たれそうで、マウンドから逃げ出そうとしている。


アオがホスピスに入る行動をとった事は、

俺にとってつまり、そんな最終試合にいきなり放り込まれたんと同じやったから。





そこに帰ると、入る前に二度程軽く自分の頬を拳で小突いた。

こう言うかわいい表札、一人暮らしやと危ないからつけん方がええと、付き合っていた頃何度も注意した。


それがドアライトの下で今も鈍く光る。

「……たっだいまー」


帰るなりリュックを小学生並みの素早さで玄関先に置く。


リビングから覗いていたいずみがやがて、

小型犬みたいにじゃれついてきた。

「おかえりっ。遅かったね。ほらこれ見て!」


ジャジャーンって音までつけて、

いずみは卓上の料理を見せた。



「お、すげーやん」


俺は放つものの、料理を目の前にすると食欲が消える。


「……ごめん……なんでやろ……。大学で疲れてんのかも。なんか……腹あんま減ってなくて」


「……ええよ。ラップして冷蔵庫入れとくし。

食べたくなったらまた……で。

ほんまに大丈夫?

医学部ってかなり大変やって聞くし」


いずみとこうなったんは、ほんの偶然やった。


アオが出て行ってからと云うもの、

授業だけに没頭し、誰の為かわからへん金を単発のバイトで稼ぎ、3時間程度寝る為だけにあの部屋に戻る。


その頃電話をかけてきたいずみの声に、不信感を露にしてしまうと、いずみは寂しげに笑った。


『……かけ間違いか。でも私のとこやったんや』と。



携帯の発信履歴。

何かの偶然が重なっていずみの所にもかけていた。



電話を取るが反応はない。

それこそ不信に思ったいずみが俺にかけ、

その後久しぶりに会いたいと言われた。



待ち合わせた喫茶店で、最近ストーカーのような人がいて怖いといずみは言った。


勿論そんなものは存在しない。

けれどいずみはアオとの事は何一つ訊かず、

少しの間でええから私のマンションにいてほしいと言った。


ストーカーなど現れる気配はない。

けれど俺はそのまま、今もずっとここで息をしている。





「…………ごめんな」


ラップをかけはじめたいずみの背中に言い、そのまま抱きしめる。。

いずみが腕の中で俺に向き直り、空虚に似た瞳で俺を見上げた。


「……陸人……エッチしよか……?」


いずみと同じ部屋で寝起きはしても、そうした関係には陥らなかった。



「…………あ……うん………ええけど……」



心の無いキスをしてしまう。

気づいたいずみが俺から逃れた。


「……え……」

「嘘に決まってるやん。


私が陸人と住んでんのはストーカー対策やし。

何が悲しくて元カレとそうならなあかんのんよ」



笑顔を絶やさないいずみの、それは多分防護策。


「……でも最近ストーカー出てけえへんしなぁ。

もうええわ、陸人を解放したげる」


いずみは玄関先に放置されたままのリュックを

粗大ゴミみたく掴み、追い出すような仕種を見せた。


「……やけど俺……別にここにずっといててもええで」


放った途端、いずみの両手が俺の肩先を勢いよく押した。


「……はぁ?

そんなん私が迷惑やねん。

いくらストーカー対策って言うてもいっつも上の空で、しかもほんまの男ちゃう奴と一緒におりたないしな。

そう言うの、人生のロスタイムやねん。


私はこれから結婚もしたいし子供も欲しい。

わかった?わかったんやったら出てって。

陸人がおったら男が寄り付かんようなるわ」


完全に俯いたいずみが、小学生の餓鬼みたいに俺を玄関へ押しやる。


俺がスニーカーの上にバランスを崩しよろけると、その非力なブルドーザーは動きを止めた。





「…………そんなに……好きなんや……」


いずみの目からこぼれ落ちた涙は、

ピアスのようにサマーセーターの上で幾つも留まった。


「…………なにが……?」


「……頬っぺた、こけてる。

……それってなんか動物みたい。

病気なったり、死ぬのが近づいたら物食べへんようなるでしょ……?

……やから」



小さくて形の良い鼻先は、……でもなんでかな……と小さく呟き俺を見上げた。


「……なんで陸人は……

私やなくて、もう先の長くないあの人が好きなんかな……」



アオの病気を、いずみに話した事はない。


「……ごめん……。陸人に内緒で、あの人といっぺんだけ会うてん……」


……あぁ……。声にならへん。


「……その時、私長く生きれないんですよって……言うてはった。……それが天気の話をするみたいで、正直この人……壊れてんのかなって……体も……それから心も……私の方がずっと丈夫やのに陸人はほんまに……ほんまにあほやって思った」



喉元に熱い何かが逆流して、気分が酷く悪い。

その時のアオの気持ちを思ってそうなるんは、

こうして逃げている俺が不正解と言う事になる。



「……その頃……陸人が家出たまま戻ってきてないって言うてはったけど……事情はその時のまま?それとも違う?

……でもどうでも……あぁ……いいや。……陸人………私な、何でもいいから、陸人に戻って来てほしかってん」



その瞳はだから、俺がここにいる理由を1つも訊かなかった。


それを知っていて、そうした自分はズルい。


中園 葵からの逃亡先は、昔自分が慣れ親しんだ川。

そこが俺の場所やないって、わかってた川やった。




「…………わかってたよ……いずみの……そう言う……気持ち」



「……自意識過剰やな……陸人は。

でもほんま……、腹立つけどほんま……陸人が好きやった。……何で私は……こんな奴に何度も振り回されるんやろうって……思いながらも……。

……やからもう今日でほんまにおしまいにしようって、ご馳走作ったのに食べへんし最悪やん……」


敬愛の意を込め抱きしめた涙だらけのいずみは、俺よりもちゃんと前を向いていた。


「……良かったね……陸人……。

……ほんまにほんまに……好きな人と出会えて……。

……やったら時間無駄にしたらあかんやん。


……やったらそばにおったりいや。

強い陸人が逃げ出したくなるほど……好きなんやろ?あの人失うのが……そんなに怖いんやろ?」



世間はどうか知らんけど、

ホスピスは俺にとって、安らかに死を迎える場所などではない。


棺桶に足を突っ込む前の、

言わばウェイティングフロアにすぎへん。


アオは俺やなくそれを選んだ。

俺の為やとしても、悲しかった。


最後の最後にジョーカーがまわってきたように、

絶望的で、破滅的で、希望のすべてを打ち砕く、それはそんな行為やったから。



そしてそう決断したアオを殺してしまいそうになると思ったのはあながち大袈裟ではない。


アオを殺してそのまま俺も命をたつ。

アホやろ、死ぬ勇気があるんやったら、生きろやってバカにしていた卑劣な行為が、非現実やないようになる。


そうしない為に俺は逃げた。

つまりそれぐらい、中園 葵を失うんが怖かった。


つまりそれくらい、俺は弱い小っぽけな人間で、

そして中園 葵の為に作られたと言っても過言ではない 。


いずみが俺を追い出そうとしなければ、

このエンドレスな無限地獄にいつまでも俺は漂流していた。


そして誰かが自分の為に流してくれた涙は、

どんなものでも無にしてはならない。


気づくと震えている指先は、恐いからやなく、

これからのアオと向き合う為の武者震いやと、

思えるように。




いずみのマンションの階段を降りきり、ねーちゃんに電話する。


ワンコールなるかならへんかぐらいに取った電話はでも呑気で、


『……生きとったんや』

と冗談みたいに軽く笑った。





いずみのマンションの小さな駐車場に、

黄色いフォルクスワーゲンはちんまり停まっていて、俺を見ると、やっと行くんかいなって顔をした。



『……ねーちゃん俺……』



暗い運転席で、車のシートに俺の声は吸いとられていく。


『……もう何も言いな。

あんたがなんで、今そないになってんのか私にはわかるから。

なめんとってや。

これでもあんたのねーちゃん長年やってんねんし。


……あ、そうや、意外なことにさ、あの子とうちのお父さん、仲良しやで』


その後、アオの病室に親父とお袋があしげく通っている事と、声をたてて笑った姿など見た事のない父親が、アオと話す時はずっと笑っている事を俺に話し、実はそれに嫉妬していると、ねーちゃんは笑った。



こんな所であの親父に救われるとは思いもしなかった。


……男になったり……恋人から逃げたり……


ほんまに不祥の息子やな。






『……あの子はあんたの事なんにも訊かへんし、

待ってるとも言わへん。

……けど待ってる。……それはわかってんねんやろ?』


『……………………うん』


喉元に風邪をひいた時みたいな痛みがきて、

急いでそれを引っ込める。



泣くのは……簡単やから。


今までは崖の最後の方で、スニーカーの爪先がようやく止まっている状態。


でも今は少し違う。状態は同じ、けど落ちた暗闇から、逃げてはいけないと自分が言う。



アオが好きやから。

例え失っても、アオが好きなんや。


『……でもねーちゃん……。あいつ俺を、

ずっとそばにおれへんかった俺を……受け止めて……くれるかな……』


『……うーん、あの子もあんたと同じくらいアホやからな。いけるんちゃう?』


電話を切り、エンジンをかけ、ようやく前を向く。


再会した時から、終わりがあると知っていた。

けどその終わりが延びる度欲張りになって、

勝手にホスピスに入ってしまったアオから逃げた。

もうそろそろゲームセットやで。


きっ とアオはそう俺に、教えたかったんやと思う。


ホームランを阻止する、なんてもう望んでへん。


今の俺はただ、ただ……真っ白なままで君に会いたい。





思えば俺はこの頃、壊滅的な精神状態にあった。

大好きな人を失うと言う感覚は、頭のてっぺん、背筋が凍りつくようなサーベルをかまえられているようで、それでいて泣かへんもんやから、

どす黒い恐怖がそれこそタールみたいに溜まる。



『……ホスピスに連絡しとくわ……。

ほんまはこんな時間から絶対あかんのやけど、知り合いのとこやし……』



電話の最後に、ねーちゃんは早口でそう言った。

そうせんと、俺がまたどこか羽が生えて飛んでいくみたいに。


辿り着き見上げたホスピスは、

思っていたよりもずっと小さく、見様によってはこじんまりしたホテルのようで、それでいて何か拒むような場所。


どことなくいばらに覆われた城を連想させ、足が一瞬すくむ。

何かに立ち向かうにせよ、俺には携帯と車の鍵ぐらいしかないから。


「……あ……、藤木さん?先生の弟さんやんね?」


駐車場の白線の上に立っていると、

この施設の看護婦らしき人が、わざわざ俺を見つけて出向いてくれた。

ねーちゃんから到着時間を聞いてたんかもしれん。


「……あ、はい……すみません、こんな時間に……」



わざとらしくないその笑顔に、

どことなくホッとする。



「……中園さんのお客さんやよね?


今ちょっと眠ってやるみたいなんやけど……」


お見舞いと言わずお客と言う。


ホスピスなりの配慮が、あれだけ避けていたくせにどこか心地良かった。








……中園さんの恋人……?

ごめんなさい、藤木先生から何も聞いてないものやから。




エレベーターを待つ間、俺の母親ぐらいの歳であろうその看護婦に聞かれた。


小さな病棟。


恋人ならなぜ今まで全く姿を見せへんかったんか、そう言いたいんかもしれん。


「……はい……」

答えるとエレベーターが来る。

5階のボタンを看護婦が押し、

階数ボタンを見上げるように横顔を見せた。


「……そう。よくがんばりましたね。

……逃げ出したかったでしょう。

……残される人たちの心のケアは、ついついみんな忘れてしまうから……」



そんな言葉を残し、

5階で開く視界の先に、看護婦は俺を誘導した。


やがて幅広く仄かな照明廊下の突き当たり、

中園 葵のプレートの前に立つ。


看護婦が俺の背中を軽く叩き、

「……眠り姫がお待ちかねやよ」

と、微笑みながら去っていった


木目のドアノブを握る。

まだ側にいないのに、アオの呼吸が伝わる気がした。





ベットサイドの照明に浮かぶアオの寝顔は、

現実やないみたいにきれいやった。


胸元まできっちり被せてあるシーツの上下で、ふと我に返る。


意外に元気やで。


そのねーちゃんの言葉通り……そう……ほんまに。


そう……やな。うん……。



息を殺し、自分の影を動かしただけやのに、

敏感なアオの瞼がゆっくり開く。


その瞳に映る、情けない恋人。


「………………どこに……?」


掠れた声でそう訊かれ、動揺して頭をかいた。

「…………どこ?……え」



アオの口角が少し上がる。


微笑み……微笑んだ……。


「…………ん。

やから……どこに旅行に行ってたん……?」


「……旅行……?」


聞き返して、あぁそうかと思う。

どんな旅行でも、旅行は旅行。

心の旅でも、逃避行でも……。


「…………苦行の旅」

「…………苦行か。ふふ……笑える」



アオがベッドから俺を見上げ、無意識のまま俺の手は、アオの細い髪を撫でた


「……苦行の旅は……どうやった……?」


「……そうやなぁ……。今ここにある現実が、とても素晴らしいと思える旅……かな。


ほら人って時々……、わからんようなるやろ?」

「…………うん」



頷いて、アオは髪を撫でる俺の手を握った。

その体温の低さに泣きたくなる。けど泣かん。

勝手に先に旅に出たんはアオや。

やからこれはおあいこさまで、謝る必要はない。



静かに深呼吸2つすると俺は言う。



「……ここでの暮らしはどう……?」


そのマスクも、なかなかいかしてるやん。


「……あぁ……これ?

でもこのいかしたマスクな……、今はまだあんまり必要ないねん。

やからちょっと……息苦しい時だけつけてる」


アオは少し笑みを浮かべ、

マスクをそのままチェストに置いた。


「……なぁ……俺な……」


伝えたい事は山ほどある。でもそれ全部が、

愛してるとかの山盛りで、やから伝えん。


「……ん……?」


俺は部屋を見渡し、アオに言う。


「……今日からここに住むわ」

「……え……ここに……?」

「……うん。いけるやろ。

俺、アオの家族みたいなもんやし」



それに何よりこの部屋が気に入った。


外の世界がまるで不明になるこの場所が。


「……知らんし、許可とってへんし。

怒られたら知らんよ。

……それに私、しんどくなったら結構ヘビーやから、リクの事ボコボコにしてしまうかも」


「……おう……そんなん大歓迎やし。 受けてたつわ」



俺はいつの間にか笑っている。

もっと早くこうすれば良かったか?


答えはノーや。

どんな行動にも必ず、意味があるから。






オセロにトランプ、それから黒ひげなんちゃら。

おおよそ病室っぽくないものをその後、チカや潤太郎が持ってきて、こいつらとのわだかまりは、

病室の俺を見るなり発せられた、

チカの『アホ』でなんとなく解消した。



大学は暫く休むつもりでいたが、アオが行けとうるさいので行っている。

病室に泊まり込む事で、元気なアオや、痛み止めのモルヒネを歪んだ表情で頼むアオや、笑うアオや、泣くアオや、オセロで負けそうになって

怒りだすアオや、色んなアオを沢山見た。




夏休みでも、俺らの大学は夏休みではない。

通常とほぼ変わらず時間は流れていき、

世間で云う盆休みあたりにようやく解放される。



休みに入る前日、柏木と少し話をした。

休みは読みたくて読めなかった漫画を、漫喫で満喫しまくると言う、ギャグのようなスケジュールを、柏木は告げた。



あれ以来、奴には俺がどうしていたんか

話してはいない。

それをどっかのおばはんみたいにいちいち訊いてけえへんから、俺は柏木が好き。


「……おまえ何すんの?……つかさ、

その……葵ちゃんとのこと、今まで深くつっこまんかったけど……」



柏木 はうどんが伸びた頃になり、

ようやくちゃんとそう訊いた。


「………………うん。

それに関して……なんやけど……」


大学の構内はうだるような暑さで、校舎や地面から、えも言われへん熱が出ている。


うるさすぎる蝉の声をかいくぐるように、

俺はあっさり柏木に言った。


蝉の死骸が歩く先のすぐ横にある。


「……誰でもいつか必ず死ぬやろ?」

「……あ?あぁ……うん」

柏木は面食らったような顔をした。


「……それがあいつの場合は、俺らよりちょっと早なんねん」



スニーカーの靴紐に目線を落とし、

これはアオが通してくれたままのもんやと気付けば、足元は揺らぐ。


「……ふん。……ぁ……へっ!?」


妙な音は柏木発信。



腕組みをしたまま、眉間に1本筋で、ふうと奴は息を吐く。


「…………なるほどな」


俺がカミングアウトしたあの日と全く同じトーンで、なるほどなと。


「……それはさ、ほんまにもう無理なんか?」

「……うん。もう今ホスピスやし……。」




気づかぬうちに、

奥歯を噛み締めていたらしい。

でもこんな痛みは、アオの歪んだ顔の足元にも及ばない。


「…そうか……なら、早よ会うとかんとな。

だってほら、もう会われへんねやろ?

俺は葵ちゃんに。

……実は俺な、おまえに内緒で葵ちゃんの事こっそり好きやってん」


「……へぇ、それは予測不可能やった。というか、俺はそれにどう返したらええん?」


俺の苦笑と共に、再び蝉の声が耳に甦る。


「……やな……はは。 いや、そやから俺もおまえの3分の1、いやいやそれはおまえが怒るな。

えっと8分の1くらいはショック受けてるって事なんや。


つまりおまえだけが悲しいんちゃうぞって。


つまり……あんま落ち込むなって……事」



柏木は言うとハリネズミのような頭をかきむしる。

大事な告白はいつも、こいつのおかげでさっぱりわやや。

けど俺はこいつが好き。

固まってどうしようもない物質を、溶解さす力がこいつにはほんの少しだけある。




8月。

それはそんなに暑いのに、なぜか秋のように感じる。


8月。


それは俺がアオと、どうやらそろそろお別れをしんとあかん季節らしかった。











「……ねぇリク、ババ抜きしよ」



アオの指がトランプケースを探す。


「……またぁ?どうせ俺が勝つやん」



笑いながらベッドに腰かける。ほんまはあかんけど。

「……ちょ、重いんですけど……踏んでるし」



この頃ずっといかしたマスクが手離されへんアオも笑う。


息で曇る。その息すら嬉しいんは、生きてる印やから。


「……ごめん。でもババ抜きはやめよ。

アオ、俺がジョーカーのカード触ると笑うもん。バレバレやし、おもんないわ」


もっとアオに触れようとして、その怯えた瞳と目があった。


最近はほんの1秒ごとにこうなる。

モルヒネのせいで、アオのせいではない。


「……あんた誰……?

なんでここにおんの……?あんた誰……?」


パジャマの腕を守るように抱きしめ、

今にも飛び起きんばかりのアオ。


1秒ごとの、天国と地獄。

でももう慣れた。


ベッドから降り、アオを見つめる。

夢の中なら、夢で返すまで。



モルヒネと言う鎮痛剤は、痛みを止めるだけやない。

百も承知やったけど、最初はやっぱりかなり落ちた。


愛の力を信じられなくなったんもその頃。


でも慣れてくると、干からびた心にまた水が涌く。

それは俺がアオを好きやと言うこと。


自信を持たなあかんな。



「……藤木君、また……いつもの?」


ここで最初に俺を案内してくれた看護婦が、

廊下にいる俺に声をかけた。


「……あ……はい。慣れてるんで、ここで本でも」


病室のドアに背を預け、

リュックの中から講義関連の本を出した。


「……そう……。


またいつもの中園さんにすぐ戻るわよ。待っててあげてね」



お袋に似た笑みを浮かべ、

看護婦はナースステーションに戻る。




深夜になる頃、アオは無遠慮な分身からようやく解放された。


それまでは俺がドアから顔を出す度、

病室のありとあらゆるもんが飛んできて、

割れたり溢れたり大変で、

そしてこの状態が、映画やドラマみたいにきれいやない事で、なぜか未来を期待した。


それは金塊を堀当てるほど確率が低い。


でも誰でも思うやろ?


自分だけはとか、自分の恋人だけは大丈夫とか。


アオが苦しくて豹変するたび、心臓をわしづかみにされるよう痛みはある。

あるけどそれはやがて、物を投げれるうちは大丈夫、に変わり、まだアオは生き続ける、に形を変えた。


お別れはそれこそいつ来てもおかしないのにや。





「…………リク、ずっと訊きたかってんけど、

薬の後私なんか……変なことしてる……?」


いつものアオである晴れた朝。

盆休み突入。

蝉は室内にいるかのごとく、鳴いている。


「……ん? いや別に。なんで……?」


全く覚えていないようなので、知らないふりをする。

意識の混濁は、アオのせいやない。

眠るように死ぬとかは正直嘘やと思う。

人は誰でもこうやって、ブラックホールのような死と闘っている。

でもそれが少しでも怖くならへんよう、

ここにいる人たちも、この空間もきっとあるのだ。


「……そう……なんや。けどなんか変やし……」


アオは今日はマスクを外している。

良い時と悪い時、折れ線グラフにしたらMが幾つ出来るやろう。


「……変……、変か?アオは元々変やで」



笑いでごまかしたら、アオの膨れる顔を久々に見れた。瓢箪からこま。



もう一回派手にケンカしたいな。

そんな些細な事が今の願い。


でもその頬の膨らみはすぐしぼんでまう。


「……ま、ええか。半分夢の中やもんね。

……でもこれだけ聞かせて。

私まさか裸になったりしてへんよね?」


訊かれて吹き出し、その時思った。

アオの前では最後まで、笑ってようと。

いつかさようならする日がきても、

その最後まで。





さよならの1日前。

俺はアオにせがまれ、クラゲだらけの海にいた。

あれっきりイギリスに帰らないチカと、潤太郎と、俺ら。



スイカ割りをしたい。

そうアオにせがまれ、病院にも承諾をもらった。



あの日あの時と同じ海で、空は折り重なるグラデーショングレー。


この砂浜は遊泳禁止やから、人影はまばら。


「……チカは?」


中古で車を手に入れた潤太郎達と海岸の駐車場で合流した。


「……ん、やっぱり1人で遅れてくるらしいです」


俺はワーゲンの助手席に座り、

ガラス越しに微笑んだアオに微笑み返す。


チカの大事な友達。

その友達の痩せていく姿に、チカはもう耐えきれなくなった。

あほいに会うと泣いてまうと言うので、病室にも来なくなり、


【自分は後から電車で行くかもしれへん。


着くまでになんとか心の準備をしていくから、

もしそれでも泣いてしまったらごめん】



と絵文字1つないメールが、昨日俺に送られて来ていた。


「……そか、うん……。今日はスイカと花火して

わりと早く帰らな、あんまり体調ようないねん」



小声で潤太郎に言う。

ずっと晴れやったアオが、昨日の夜は酷かったから。


どこにそんな力があるんか、

夜中にいきなり寝ている俺の襟首を掴んだ。

シャツごと首を僅かに持ち上げられ、されるがままに目を閉じていると、いきなり泣き出した。



そこからは俺の顔をひっぱたいたり叫んだり、

けど最後はモルヒネが切れて、先生が飛んで来てまたモルヒネ。

もう今更、中毒もへったくれも眼中に無い。


そんな感じでスイカ割りの日程変更を考えていると、今朝奇跡的が起きた。


今にして思えば、

何かを失う前は奇跡が起きる。

やからその瞬間を、決して見逃してはいけないんやなって。






「…………ですよね……。

あっちゃん笑ってるけど……なんや顔色ようないし。フロントガラスのせいかと思ったけど、違うか……」


頻繁に息苦しくなるアオの為に、

それ用の小型装置も病院から借りた。


水を抜かれた金魚みたいやのと、

アオ時折その苦しみを訴え、肺は大事、心臓は一番やけど、肺は大事やと繰り返した。


午前中、いつもより多目にモルヒネを接種し、

痛みのないアオは俺らに笑顔を作る。


アオに笑顔を作れんのに、俺らにでけへん訳がない。

なので笑おう。声を出すことすら辛くても。




チカが来るまで、

砂浜で何をするでもなく待つことになった。


時刻は午後4時。


薄曇り。雲の隙間から差すそこそこの太陽が、

帯のようにアオの肩先に落ちた。


そうしてるうちチカから、まだ少し遅れると連絡があり、仕方なしにスイカ割りを俺と潤太郎でやる。


観客はアオ1人。


一発でしとめた俺が目隠しを外すと、アオの白い手がパチパチと拍手をした。


スイカは見事な程砂まみれになり、

洗いに行こうとするとアオが訊いた。



「……ね、走っても……ええ?」

「……はしる……?」


鏡で見んでも俺の顔は不満気やとわかる。

そんな装置を傍らに置いて、砂の上のレジャーシートで言うセリフではないから。


「……うん、走りたい。今すっごく。……あかん?」


例えばバケツ一杯のプリンを食べたいとか、

例えば俺に三日三晩抱きしめていて欲しいとか、

そんな願いならすぐ叶える。


けど俺はまだアオとさようならしたないんや。


そして俺のそんなエゴは、走ると言う行為がとてつもなく恐ろしかった。




「…………あっちゃんでも……」


俺の気持ちを代弁して潤太郎が呟き、

俺もアオに、ええよ走り、とは言うてやられへんかった。


やから萎んだ風船みたいにアオは項垂れる。



「……ええやんか、走り!」



声がして振り向くと、チカがビーサンの砂を祓った。


「…………チカ、おまえ遅すぎ」


粉々に砕けたスイカの破片を潤太郎が見せる。

それを無視し、チカはアオの前にしゃがんだ。


「……どうしても走りたいんやろ?


ほな走り。……と言うか一緒に走ろっ」



何かを超越したようなチカの瞳。

その手がグイとアオを引き上げて、真っ直ぐに立たせた。


「……ちょっと青春してくるし。

男どもはスイカの欠片でも女々しく拾っとき」



挑発的にチカが笑い、アオと繋ぐ手に力を込める。


「……しゃーなしで、こいつに任せましょ。リクさん」


潤太郎まで同調すれば、俺の意見は多数決で却下になる。


チカとアオが砂浜をアホみいに何往復もするんを、ただ見つめているしかなかった。






だんだん、だんだんと、潤太郎の横顔に笑顔が

染み出してくる。



「……あいつら犬みたいっすねぇ……」


潤太郎が頷き、俺も頷いた。

頬の皮膚が少し乾き、俺も笑ってるのに気づいた。

逃げるアオ。追いかけるチカ。


絡み合って倒れ、砂まみれの体で大きな声で笑い、BGMはずっと、波の音。


「……リクさん……ごめんなさい。


俺やっぱり今でもあっちゃんが……好きです。

もし時間が戻せるんやったら、

付き合い始めた頃に戻ってそのまま時間を止めたいくらい」


さっきまで笑っていた潤太郎が、

泣いているんに気づき、それに気づかへんふりをする。


「……やろな。わかってた。ごめん……」


その時間を奪ったんは俺で、ほんまやったら潤太郎が今でも、アオの一番近くにいてたかもしれへんから。


「……そんなん……いいっす。

……あぁ、すいません、責めるつもりやなくて。


あっ……と……、リクさんは

もし時間戻せるんやったらどこに戻したいですか?……やっぱりあっちゃんが元気な頃……?」


鼻水をすすり、潤太郎は明るい口調で訊く。


答えはノーで、俺は今でいい。


朝から晩まで滅茶苦茶なアオ。

キスすらもでけへん滅茶苦茶な今が、

それでもなぜか酷く大切。


「……もしあいつが元気やったら、

俺らはずっと会えてへんから」


チカにつかまり、息を切らしながら笑うアオ。

手にした途端消える泡のように儚い恋人。

でも……感謝。ようやく神様に。



「……そっか。そうですよね……」



潤太郎が立ち上がり、

そろそろあいつら止めて花火しましょうと言った。


気づけば夕暮れが足元にあり、

遊び疲れた犬二匹が、砂まみれのままこっちを見ていた。



そこからストロボのような花火の時間。

アオはずっと上機嫌の鼻唄混じり。

笑う潤太郎、笑うチカ。

そして俺はうまく笑えてたんやろか。

誰にも訊かれへんまま、最後の線香花火。


俺の線香花火の玉は、ぽってりとした橙色。

もう落ちると思った瞬間、隣にいたアオがなぜかそれを両手で受け止めた。


「……危ないやろっ……、アホやな、手見せて」


慌ててアオの両手を広げると、

黒くなった玉のカスを思いっきり祓う。


泣きそうになり歯をくいしばる。


モルヒネが強すぎて、皮膚の感覚さえもないんかって。


「……大丈夫。熱くないから」



唖然とする潤太郎とチカ。その空気を溶かすように、俺は仕方なく、「……きれいやもんな……」と言った。



きれいやから、愛しいから、消えてほしくないよなって。


でもアオは「……違うよ……」と言った。


リクの命は、この火玉と一緒。

たった今私が預かったよって。


やから私がいなくなっても、ちゃんと生きなあかんよって。



手のひらには焦げた痕。それをぎゅうと握りしめて、一粒の涙も溢さずそう言った。



「…あほい、こいつはそんなやわな奴違うで。

それに来年もまたこの四人で花火するっちゅうねん、1抜け無しな。」



チカは言い、朗らに笑い、この時の地に落ちそうな俺を、それとなく救った。


それからは、たわいもない話をして、シーズンオフにまだ開いている、海の家のチープな焼きそばをただ黙々と食べ、

それぞれの車が途中の三叉路で別れると、アオは助手席で遊び疲れた子供みたいに、身動き1つせず眠った。



2時間程かけホスピスに着くと、

起きる気配のないアオを、

砂だらけのお姫様抱っこで病室に戻る。


ベッドに寝かすと、

アオはうっすら片目を開けた。


「……起きてたん?」

「……うん。

でもリクに運んでもらおうと思って」

「……子供か。

まあええわ。体は大丈夫?薬……もらう?」


躊躇しながらそう訊くと、アオは首を横にふった。


今日はもう薬はいらない。

リクと沢山話がしたいと。



体調がええんや、なんて俺が鵜呑みにする状況は、どこにも落ちてない。


やから俺は曖昧に笑って、


「……そか……。ほんならたくさん話しよな」と

言った。


これから先あった何年分、いや何十年分を。



小学生時代からスタートしたそれは、

途中呼吸器を何度か使いはしたものの、比較的スムーズに進行された。


アオは何かにとりつかれたように話し続け、

俺はそれに頷き時折小さな声で笑う。

巡回してきた看護婦も、何かを感じ静かにドアを閉める。


そんな夜で、

夜中じゅう話はつきなくて、

でもこれと言ってたいした話はなくて、

アオは俺にさよならをきちんと言った訳でもない。


ありがとうもなかった。


ただ明け方近く、気温の下がった室内で、


俺がその昔、彼女に再び会う為の目印として頬に刻んだ傷痕に冷たい指先で微かに触れ、


「……今度生まれてくる時は……男の子に生まれてきて。そしたらこんな遠回りせえへかってもええんやから…………約束」と呟くと、


俺の大好きな笑顔を一瞬だけ作り、指切りげんまんの形に小指が曲がり、それに絡めて、それが最後。


指切りをしたまま動かへんアオの額に、

数秒前までは確かに動いていたその唇に、

俺は何度もキスをした。




ありがとうもさようならも無かった最愛の恋人はだが、最後に俺宛の手紙を書いてい

た。


それは病室の引き出し、大量のレシート下に入っており、あんなに酷くて投げ出したくて、それでも瞬きすら忘れる程愛しかった時間を思い出させた。




【リクへ。


最初に、あなたは自分が自信を持っているほど、そんなに強くありません。


絶対に絶対に絶対に、です。


だからいつまでも1人でいてはいけません。


もしこの先、あなたの事を本当に好きになってくれる人がいたら、

いつか心を開いてみてください。


守る人がいてこそ、あなたは強くなれるのです。

自分に誇りを持って。

あなたは私が一度きりの人生の中で愛した唯一男の子、藤木 陸人なのですから。】






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